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ずっと昔改宗し、伝道にも出た昔の人(I氏)が日本のlds教会における福祉のあり方について感想を述べていた。非常に深く本質をついているので、ここに引用させていただいた。(引用は青字部分)。
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アメリカでは教会本部や各地に大規模な施設や福祉関連の農場などがあって、忙しく稼働していることが報じられる。また、「監督の倉庫」という制度(食品や日用品が貧者のために保管され、配布される)や「デゼレト産業」という名のリサイクルショップが各地にあって、安価でいろいろな品物が入手できるようになっている。しかし、振り返って「日本では、その恩恵に預かることのできる方は非常に少ない」と彼は痛感している。現在日本でも経済的に困窮した教会員や「軽度から重度の精神障害をかかえる人たちや、結婚問題を抱える人たち」(この項、別の発言者)がいて、「先ずは一番身近な隣人を助けたい」のに、それが必ずしもできていない。
本来なら、「これはPBO(東京管理本部)がそのような福祉のセクションを設けて、長年教会に尽くした方が本当に困ったときに必要な支援を行えるような系統立てたプログラムを準備する必要があると思う」、とI氏は言う。その通りである。
「地元の裁量権を大きくして地元のニーズにあった判断と使用ができればいい。地元で判断できれば、いろんな福祉ができると感じます」全く同感。
日本の教会はまだ力が弱いことは認めるとしても、それより前に教会は米国に本部を置く強力な中央集権の企業体のような所があって、各国の教会の自治を許容していない。日本のlds教会は、外資企業のしかも現地に権限が委譲されていない、出先機関のような存在でしかない。そうなると、「地元の有志で行う」しかないということになる。例えば、大地震の時など資金の運用が地元の希望や必要に答えてくれないことが起こる。そんな時、地元の有志で献金とは別にプールして充当したくなる。
あるいは、「複数のワードで土地を購入し、年金組の方が畑をして収穫し、会員に作物で還元」できないかと意見を述べている。「もっと会員に喜びを与える運営が」できなければ、とI氏は鋭い。
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「新約を読むと苦難を受けた人をねぎらう場面が出てきますが、教会はもっと感謝の意を表する必要があると思います。指導者の労いの一言がまずは福祉の第一歩。」福祉の具体面から離れ、一転して精神論に向かっているが、「長年教会に尽くした方には、何かしてあげればいいと思う。会員を大切にしているという気がしないのは残念なことです」と自らの経験も含めて厳しい観察をしている。
なお、I氏は伝道中に求道者に教会の福祉について説明すると求道者が得心していたのに、日本に全く福祉のプログラムがないことがとても後ろめたく感じられたと述べている(以上、一部編集。文責は主宰者)。
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[貧困は暴力が最悪の形をとったものである。ガンジー]
日本の国家としての福祉が充実していますので、生活が困窮すれば、生活保護を受ければいいだけです。
現在の会員数では、教会内の生活困窮者を持続的に援助するのは困難です。
そもそも教会の福祉は、自立を助けるのが目的で、断食献金の援助でも、一時的な援助です。
今日本のモルモンで問題になりつつあるのは、高齢化による困窮者で、高齢と言う原因で、収入が得られない方は、一時的に援助してもその後経済的に自立することは難しいです。
よって、通常は、神権役員やHTが、「いかにすればスムーズに生活保護を受けられるか」のアドバイスと助けをしているのが現状なのではないですか?
会員は、しっかりと税金を納めることで、間接的に生活困窮会員を助けることに成ります。
又、若いときから、きっちりと公的年金を納めるもの重要な事です。
ま、心のどこかに「納めた献金はどこに行ったんだ?」って思ってるのは有りますけど(笑)
その頃教会では「あの人最近元気がないね」とヒソヒソ話。HTや監督は「教会へ来てください」と的外れなアドバイス。うっとうしいので仕事が忙しくてと適当に言い訳して人を避けているとそのうち誰も声を掛けなくなります。
でもね教会の運営という面から見たら貧乏人がこうやって黙って離れて行ってくれる方が有難いんじゃないですか?福祉なんて無意味なことにお金使うより教会の財産を増やせるほうが良いじゃないですか。
「私は什分の一を収めていないがその分を貧しい人に施している」と言った人に、生ける予言者ジョセフ・F・スミス大管長が「あなたは他人の財産をずいぶん気前よく勝手に使い込むのですね」とたしなめたとか何とか言う逸話を読んだのは、『奇しきみわざ』だったかな。
教会員は福祉を受けるよりもまず什分の一を持ってこいと。イエスは「受けるよりは与える方が幸いである」と言ったそうですがモルモン教会では逆なんですよね・・・
私は、教会が直接援助できなくても、公的援助を受けれるように手配できれば十分だと考えています。
実際のところは、教会指導者がどのような公的援助があるのかを、知らなかったり
公的援助について知っていても援助が必要な方をつれていく時間がなかったりです。
ちなみに伝道中の片U+1F311監督は夫婦で高級ベビー用品店を経営されていて、金銭的にも時間的にも余裕がありそうな方でした。
ついでに、やたら転職が多い兄弟とか、に職業斡旋するのは至難のわざです。
やっぱり自分の経営する会社に余裕がないとできません。転職が多いのは、自分自身の問題であることにまず気づいてもらわなければいけません。
もうひとつ 私のはなしですが
配偶者の不倫問題で、悩んでいる会社の部下に紹介したのは、教会の監督ではなく、公的機関のカウンセラーでしたがあれから部下は離婚もせず子供ももう一人できて夫婦で仲良く子育てしているようです。
カウンセラーに強くもらったアドバイスが良かったようです。
日本の教会は力があるわけでは、ないのですから弱い所を認めて、援助方法の紹介に徹するのがよいのではないかと、私は考えています。
ただでさえつらいのに、無償でとか実費ギリギリでとかはやっぱり勘弁して欲しいという現実があります。
むしろある教会員(たとえば電気屋とか)が技術を持っていて、専門分野の中でお世辞でなく本当に優秀であれば、ビショップたちが教会公認の(優)リストに名前を掲載して、無償でもなく格安でもなく適正価格で紹介してあげるほうが日本の文化にマッチするかも知れません。
またその分野で、そのような技術を持った兄弟姉妹がいない場合、(たとえば精神病カウンセラーなど)非教会員である地域の優秀なドクターに教会のやりかたはカルトではなく、適切に指導してもらったら、教会がドクターのツールになれる可能性があることを伝えるとかでもいいでしょう。
今でもビショップリックやステーク会長会は個人の努力の中でやっているかもしれないが、日本の末日聖徒の教会としては、むしろそいうことに無関心だし冷淡なのが残念だ。
この言葉は少し誤解を与えるかもしれません。
モルモン教会の福祉の原則は「自立」です。
ただ単に「困っているから援助する」と言う考えでは有りません。本部の福祉工場等では、援助を受けた人が、その分を返すために働いていると聞きました。(古い話なので今はどうか知りませんが)
貧困への対応方法は、「雇用の創設」が基本です。
ただ、どう言うわけか、日本の教会では、教会自体が雇用を生み出す方向には動いていません。
福祉には関係ないかもしれませんが、昔は、教会堂の建設でも、会員が奉仕してやっていたのですが、今は業者に発注します。
教会で、事業を起こさないまでも、教会堂の維持管理や、印刷物の作成など、外部発注をおさえて、内部で雇用を生み出すことも多少は可能かと思います。
今問題になっている、「成年後見人」に関わるNPO法人を創設するとか、老健施設を運営するとか、教会がやってみたら面白いと思うような分野は有ると思うんですけどね。
昔は、教会堂の建築資金を捻出するために、肥え汲み(し尿処理)のアルバイトを神権定員会でやったと言う様な話も耳にしたんですけどね。モルモン都市伝説なんでしょうか?
自立、自立って自立できない人はどうすんの?
道の端を通って行くんでしょ、モルモン神権者は
私の考えが正しいとは思いません、でもやっぱり、人は自分の力で生きて行くべきだと思います。
その為に、必要な環境を社会全体が創るべきだと思っています。
例えば、歳をとって歩くのが難しくなってきたときに、車いすに乗せて押してあげるのと、手すりを付けて、何とか歩けるようにするのと、どちらが良いと思いますか?
私は、手すりにすがってでも歩けるのだったら、車いすで押してもらうより、手すりにすがって歩きたいです。
介護でも、ベッドに寝かして、食事を運んだり、チューブで排尿させたりする方が、介護する側は楽だと思います。でも、手助けすれば、自分でテーブルまで行って、食事ができる、付き添ってあげれば、トイレまで行って排泄できる。
同じように、「金が無いのならあげましょう」って言うより、その人に出来る仕事を見つけて自立できるように助ける方が良いと思います。
>道の端を通って行くんでしょ、モルモン神権者は
他の方はどうなのかわかりませんが、私はそちらの部類に入ります。なかなか積極的に人助けは出来ません。
その代り、最初に書いた様に、自分なりに一生懸命働いて、税金を納め、選挙の時は、必ず投票に行き、社会をよくしてくれそうな人に一票を投じます。
老後は社会に迷惑をかけないように、18歳の時からずっと年金を納め、必要な保険に加入しています。
一年分の食糧を備蓄し、災害時にも自分で生きて行けるように出来るだけの準備はしています。
豚に出来るのはそれぐらいの事です。
それと豚さんの意見からはどうしょうもない利己的な心根が滲み出てる気がします
そりゃあ今でも無償や原価ギリギリででも助けたいと思うことはたびたびありますよ。
でも以前底なしべったりで来られたことがあって、はっきり断れないでいつまでも経済的に頼られてしまって、断る時に失敗してしまって強く言い過ぎて、逆恨みされる事態になってしまって、いちどそれを経験してしまったら、自分の商売関連で無償奉仕するのは金輪際御免と思うようになりました。
日曜に教師になってほしいとか、宣教師とレッスンを手伝ってほしいとかそういうのでしたら、喜んで引き受けてますけど、それとこれとの線引きはやはり必要でしょう。
高慢といわれたらそのとおりかも知れないが、兄弟姉妹なんだから、何でも安かったり只が当然という空気には尊敬がない。
この豚って人いうことは立派だけど、、以下略。
残念ながら正直わたしも最近の最近の経験でそう感じてしまったのですが
文章だけではその人の本当の本質的なところはわかりません。
ま、、ご自身がハンディを背負ったときにそうやって他人ごとのように言えるかは不明ですが
ね。
かつて私が活発な信者で皆と談笑した古きよき時代
そこでは相互依存の精神が息づいていました。
いまでも楽しい思い出として記憶にのこっています。
私も含め困った信者がいると慰めにいったり引っ越しの手伝いなど手伝ったり
私が病気になったり困ったときはある人はなにもいわずに下宿にきてくれ食事までつくってくれたり
だんだんその雰囲気がおかしくなっていってしまい
悲しみとともに私は不活発会員となりました。
その間すくなくとも私は前と同じように困っている人々や殺傷されようとしている動物といった存在とともにおり
最近では両親にいままで受けた恩返しとばかり介護に専念してます。
ただ、、それは同時にその人々と関わったためにその負の部分までいっしょに背負い込むことにもなったりたかられたり、だまされたり、助けた相手が自立してくれなかったり、、散々なめにもあいましたよ。
良きサマリア人の教えを実直にしていたら自分自身までぼろぼろになってしまったのも事実です。
私は米国、南米、欧州、オーストラリアといった国でもいろいろな経験をしましたが日本においては上記の相互援助の精神とともにすぐれた制度があるのだからそれを活用するということには大賛成です
ただ、、今はどうなっているかわかりませんが活発だった時期にあった相互依存の雰囲気や米国になるような現状にも賞賛を覚えるのも事実です。