[Eugene England 1933-2001]
前から翻訳したいと望んでいたユージン・イングランドのエッセー「モルモン教徒的クリスチャンの可能性」(1983年)を翻訳し終えた。彼の評論数編を紹介できれば、彼の人柄や思想がよくわかるのであるが、最もよくイングランドについて理解できると思われるので、やや古いけれどもPDF形式でネット上に掲載できることを嬉しく思っている。以下その要旨である。
一般的な意味でキリスト教徒は 1)キリストを信じると称する人、2)キリスト教の信条を受け入れる人、3)キリスト教徒の生き方を実践する人、を指す。1の点で末日聖徒がキリスト教徒に入ることに問題はない。2と3の点、特に恵みと行ないについて、著者はキリスト教史の知見と経験に基づいて弁論を展開している。そしてマルコ9:40「わたしたちに反対しない者は、わたしたちの味方である」というキリストの言葉を引いて、寛容さを示して末日聖徒をキリスト教の仲間と認めるべきではないかと暗示している。私も同感である。
また、人やグループを判断するに当たって、実体のないいわば架空の根拠によるのではなく、実際に目に見える手がかりによって判断すべきであると、いくつかの例をあげている。例えば、文脈を無視した引用や誤認識、情報の半面しか利用しないなどによってモルモン教会を歪曲して描くのは、正しくない。また、著者自身がダイアログ誌創設に協力した時、教会の公式な刊行物以外は反モルモンであるという思い込みから、彼を知っている人さえ彼が背教したとか多妻を行なっているとかいう噂を信じる始末であった。彼が教会に通い、教会で奉仕している姿を見ていたにもかかわらずである。彼は落胆した。
マルティン・ルター生誕500周年に当たるこの年(1983年)、著者はルターが書いた次の話を引用している。「神の王国は四方を死に囲まれた都市のようなものである。人は防備のためそれぞれ城壁の上に持ち場が与えられ、他の人と入れ替わることはできない。しかし、互いに励まし合うため声をかけることは妨げられることはない。」こんにちクリスチャンが、迫る死を前に持ち場を離れ、架空の根拠によって非難し合うとすれば、それは悲劇であるとイングランドは言う。
彼は他の宗派との交流や教徒への共感を自然に経験した人であるが、マサチューセッツ工科大学の学生であった頃、クエーカーの礼拝に加わり、新鮮な気持ちで瞑想の意義を理解したと言い、短時間でも末日聖徒の聖餐式の時間を瞑想の時間として過ごすことを提案している。これを読んで評者(沼野)もこのアイデアを取り入れて瞑想の時間にしようと心がけている。
英文テキスト http://signaturebookslibrary.org/dialogues-with-myself-15/
原題: Eugene England, “What It Means to Be a Mormon Christian”
PDFを置いたサイト:http://www.translatedmaterials-for-jpselds.com/ 翻訳文献6
前から翻訳したいと望んでいたユージン・イングランドのエッセー「モルモン教徒的クリスチャンの可能性」(1983年)を翻訳し終えた。彼の評論数編を紹介できれば、彼の人柄や思想がよくわかるのであるが、最もよくイングランドについて理解できると思われるので、やや古いけれどもPDF形式でネット上に掲載できることを嬉しく思っている。以下その要旨である。
一般的な意味でキリスト教徒は 1)キリストを信じると称する人、2)キリスト教の信条を受け入れる人、3)キリスト教徒の生き方を実践する人、を指す。1の点で末日聖徒がキリスト教徒に入ることに問題はない。2と3の点、特に恵みと行ないについて、著者はキリスト教史の知見と経験に基づいて弁論を展開している。そしてマルコ9:40「わたしたちに反対しない者は、わたしたちの味方である」というキリストの言葉を引いて、寛容さを示して末日聖徒をキリスト教の仲間と認めるべきではないかと暗示している。私も同感である。
また、人やグループを判断するに当たって、実体のないいわば架空の根拠によるのではなく、実際に目に見える手がかりによって判断すべきであると、いくつかの例をあげている。例えば、文脈を無視した引用や誤認識、情報の半面しか利用しないなどによってモルモン教会を歪曲して描くのは、正しくない。また、著者自身がダイアログ誌創設に協力した時、教会の公式な刊行物以外は反モルモンであるという思い込みから、彼を知っている人さえ彼が背教したとか多妻を行なっているとかいう噂を信じる始末であった。彼が教会に通い、教会で奉仕している姿を見ていたにもかかわらずである。彼は落胆した。
マルティン・ルター生誕500周年に当たるこの年(1983年)、著者はルターが書いた次の話を引用している。「神の王国は四方を死に囲まれた都市のようなものである。人は防備のためそれぞれ城壁の上に持ち場が与えられ、他の人と入れ替わることはできない。しかし、互いに励まし合うため声をかけることは妨げられることはない。」こんにちクリスチャンが、迫る死を前に持ち場を離れ、架空の根拠によって非難し合うとすれば、それは悲劇であるとイングランドは言う。
彼は他の宗派との交流や教徒への共感を自然に経験した人であるが、マサチューセッツ工科大学の学生であった頃、クエーカーの礼拝に加わり、新鮮な気持ちで瞑想の意義を理解したと言い、短時間でも末日聖徒の聖餐式の時間を瞑想の時間として過ごすことを提案している。これを読んで評者(沼野)もこのアイデアを取り入れて瞑想の時間にしようと心がけている。
英文テキスト http://signaturebookslibrary.org/dialogues-with-myself-15/
原題: Eugene England, “What It Means to Be a Mormon Christian”
PDFを置いたサイト:http://www.translatedmaterials-for-jpselds.com/ 翻訳文献6
只々、同感です。
理解しあうこと、そのために他者の良い面を見ていくことが大切だと感じます。
リベラル派の心情がよくわかります。
異なる考えに触れようともしない人々に読んで頂きたいものです。
解放された信仰ということを強く感じてます。
目指したい境地ですね。いつも関心をもっておつきあいくださり感謝いたします。励まされます。
>1)キリストを信じると称する人、
>2)キリスト教の信条を受け入れる人、
>3)キリスト教徒の生き方を実践する人、を指す。
この定義に異存はありませんが、では以下のような信条を持つ宗教団体はキリスト教徒なのでしょうか?
●神が現れて、全てのキリスト教会は間違っていると言った
●神が現れて、全てのキリスト教会は神の目から見て憎むべきものと言った
●神が現れて、全てのキリスト教会は唇をもって神を敬うけれども心は遠く離れている、と言った
モルモン教会の中では「モルモン教会は間違っているところがある」と言っただけで多くの信者から「教会から出て行け!」と言われます。実際、私は言われましたが。
それが宗教者としての正当な反応ならば「キリスト教会は間違ってる」と言った者が、キリスト教会に数えられないのは正当なのではないでしょうか?
末日聖徒イエス・キリスト教会では予言者ジョセフ・スミスを信じ、モルモン書を信じています(過去には多妻結婚をしていましたが現在はしていません)。ユタ州には多妻結婚をしている点だけは異なりますがジョセフ・スミスを信じ、モルモン書を信じている信者のグループが多数あります。
ところが末日聖徒イエス・キリスト教会は多妻結婚をしているグループを無関係であるとし、彼らと接触を持つ場合は破門などの厳しい処置をとっています。一部の共通する信仰上の基盤があるにも関わらず、他宗派、他グループにそのような対応が正当なものであるのならば、モルモン教会がキリスト教ではないと区別されるのも正当ではないですか?
教会設立の経緯からみて明らかなことは、伝統的なキリスト教会と何の関係も持たず、勝手に立ち上げた宗教団体がモルモン教会です。むしろ喧嘩を売ってきたのはモルモン教会側なのですから、向こう側にして見れば何を虫のいいことを言ってるのかと思うのはしかたありません。
たとえて言えばアップルと何の関係もない中国の家電メーカーが、外見だけ iPhone そっくりの iFone というニセモノを作って、良く似てるし通話もできるからこれが本物だ、認めろと主張しているようなもので、筋が通る話ではありません。
そもそもモルモン教会側の信者は伝統的キリスト教会側に寛容な態度を求めるばかりで、自ら率先して向こう側に交流に行った人物はいないのはどうしてなのでしょう。キリスト教会にモルモンを認めろという人たちは、なぜ月に1回でさえも向こう側に行って交流を持たないのでしょうか。
キリストは自らライ病者のところに行き、罪人の中へ行きました。その弟子たちは異邦人の中に行きました。モルモン教会員はなぜそれをしないのでしょうか。モルモン教会は初期のキリスト教会が回復されたのだと言い、キリストに倣うものだと口では言っております。でもなぜ同様の行動がとれないのでしょうか。
こういう点を見てさえも、唇をもって神を敬うけれども心は遠く離れているのは、モルモン教会なのか、伝統的キリスト教会なのか、よく分かるというものです。
社会学者ロドニー・スタークはモルモン教会の発展を評価しています!
元アメリカ大統領ジミー・カーターはモルモンはクリスチャンだと言いました!
社会運動家の賀川豊彦は、モルモン教会を好意的に見ていました!
モルモン教会は世界一ィィィィ!!
今年の開幕戦、初日に負けて、残り二つを勝った。
それだけで、タイガースファンは、「今年は日本一間違いなし!」と言い切った。
その根拠はと言うと、前回日本一に成った時も、開幕戦に負けて、次の二試合を勝利した。その時と一緒だから、今年は日本一間違いなし!!と言う理屈だ。
二軍の選手を一軍に上げてきて、すぐにヒットでも打とうものなら、その選手が今年中ずっとヒットを打ちまくるように考えてしまう。
負けた時は、「今日はたまたまピッチャーの調子が悪かった」とか、「打線もそうそう毎日打ち続けるわけでもないので・・」とか。
ちょっとでも良いネタが有ると、それで盛り上がりたいって言うのは、ファンの性なんでしょうね。
藁にもすがりたいって言う気持ちはわかるけど、結局それで、チームが強くなったのかと言うと、そうではない。
何かいい夢を見て居たいのかな?
まぁでも、それをそれとしてギャグで楽しんでるのがタイガースファンですが。
最近はプロ野球あんまり見てないんですよね。
1.
人名の訳出にゆらぎがあるようです。些細なことですが、以下のようにルーテルとルター、カルビンとカルバンが混在しています。統一されたほうが良いのではありませんか?
(P.2)偉大な改革者、殉教者、翻訳者たち、ルーテルやカルビン、ティンダル、
(P.5)後にルーテルとカルバンが反対したのも無理からぬことであった。
(P.12)偉大な霊感された宗教改革者マルチン・ルターはかつて次のように書いている。
2.
単なる翻訳漏れ、またはプロテスタントの教義をご存知ないためのミスかと思われますが、
(p.6)ルーテルが欄外に sola, ・・のみによる、と書いている様子を
とありますが、これは以下のように翻訳するのが正しいのではありませんか?
ルーテルが欄外に「Sola gratia(恵みのみ)」と書いている様子を
3.
翻訳漏れでしょうか、意味不明な文章があります。
(p.8)この救いは何か不可解な「X王」が折よく、(または折悪しく)地上に送られたおかげで
ここで言う「X王」とは何でしょうか?
4.
訳出の困難な語句だと思いますが、(p.11)「幽霊証拠」
この幽霊証拠という語が本文中で何度も繰り返し登場しますが、原文では何となっておりますでしょうか?
なお、大変申し上げにくいことなのですがユージン・イングランド氏の主旨には一部に理解できることころはあるものの、大部分は反論の衝動を抑しきれない内容でありました。しかしながら反論などを述べるのNJさんも望まれないでしょうから控えさせていただきます。
今後も素晴らしい翻訳を続けて行かれますことを祈念いたします。
三度も拙訳を読んでもらって有難うございました。いくつか御指摘と質問を頂戴しました。早速1の訳語(固有名詞)統一をはかりたいと思います。指摘された通りです。2の sola は原文でもsola のみでしたので、そのままにしました。3の「X-王」というのはサモアの昔の、ある詳細不明の王、という意味で出てきます。4の「幽霊証拠」の英語は “spectral evidence” で、幽霊や亡霊のように実際にはない架空の証拠、という意味合いで何度も使われていて、訳語に窮しましたが、結局説明的に長くなるより、直訳気味にした次第です。翻訳はなかなか満足できる文にならないで困っています。(原文理解も日本語の表現も手強い)。英語の本文をネット上で見ることができます。
http://signaturebookslibrary.org/dialogues-with-myself-15/
教会が十数件の評論を発表して、これまで述べてきたのとは異なる情報開示を行なった現在、この種の教会擁護的な文はそれを踏まえて書き直す必要があるのではないかと感じます。今回、それをも承知の上で翻訳・紹介したのは、E.イングランドをよく表していると考えたからでした。
URLを教えて下さり有難うございます。Signature Books にあったんですね。ここは本当に貴重なモルモン・アーカイブです。
>教会が十数件の評論を発表して、これまで述べてきたのとは異なる
>情報開示を行なった現在、この種の教会擁護的な文はそれを踏まえて
>書き直す必要があるのではないかと感じます。
末日聖徒の擁護者としては悩ましいところだと思います。というのは十年以上も前ですが、私もそういう立場にありました。何とか教会を擁護したいと思い、好意的な解釈をあれこれ考え出したものです。
ところが次から次へと教会幹部が勝手に話をコロコロ変えるんですねぇ。この人たちは自分が言ったことを覚えていないのか?自分の発言に責任を持っていないのか?という感じで・・・。呆れたものでした。
そんな折、聞こえてきたのは「教会幹部の発言は公式なものではなく個人的な見解である」という実に低レベルな擁護論でした。ようするに責任放棄ですね。この論調を今でもよく耳にしますが、口しているのは必ず無責任かつ怠惰な人たちですね。彼らが述べる擁護は自分達についての言い訳でもあるのです。
こういう経緯で私は自ら進んでモルモン批判者になりました。なお私は反モルモンではありません。
いつもながら興味深く読みました。
〜〜
モルモン教徒はイエス・キリスト自身が立てた、以上の簡潔な基準に応えている。完全ではないがよく満たしている。
キリスト教徒を自認するどんなグループにもひけをとるこ とはない。私はモルモン教徒が - - また他の全てのクリスチャンが - - その点で尊重され、 暖かく愛され受け入れられることを求めたい。
特に自分たちはクリスチャンであると主張 する人々によってそのように遇されることを求める。
〜〜
特にこの箇所に共感しました。
もっと目に触れてもらうことはできないものかと思います。
「もったいない」ですね。
フェーア・モルモンもCES書簡も宗教系のドメイン.ORGを所得して寄付を呼びかけています。
NJさんのモルモンフォーラム誌や書籍、研究論文などまとめてサイトにしていただきたいと希望します。