「自分を愛するように、隣り人を愛せよ」(ルカ10:27口語訳、新共同訳)
「隣人をあなた自身のように愛せよ」(新改訳。岩波2004年「あなた自身として」。)
私は口語訳、新共同訳の訳で何の問題もないと思ってきたが、岩波書店2004年佐藤研訳を読んでいて、「自己愛を前提としていて不適」と注にあって少し調べてみた。・・例えば、バスに乗っていて立っている人が自分の高齢の母である(かの)ように思って席を譲る、というように対象が○○であるように、とするのが本来であるというわけである。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/thumbnail/76/80/eb6acfea61b8b0c7a052069d0f5a74fd_s.jpg)
そして、「自分を愛するように」というのは、ナルシシズムが高じた自己愛性人格障害(自己中心的性癖がひどくなった症状)に通じると言う。それを読んで、訳文は原義に忠実に訳すのが適切なのか、と理解が広がった。塚本虎二も「隣の人を自分のように愛せよ」、文語訳も「己のごとく隣を愛すべし」とあった。ギリシア語、ヘブライ語(レビ19:18)原語もこのように読むべきであると理解できる。Gr ώς σεαυτόν, Heb כָּמ֑וֹךָ 共に as yourself の意で「あなたを愛するように」という動詞句になっていない。
妻に話すと、「自分を愛するように」は自己中心的響きが感じられ、適切でないのではないかと感じてきたと言う。わたしは「自分を愛するように」は分かりやすい、自然な訳なのに、やはり変えた方がよいのだろうか、と思い始めている。(英語では as thyself, as yourself で問題がなさそうである。)
「隣人をあなた自身のように愛せよ」(新改訳。岩波2004年「あなた自身として」。)
私は口語訳、新共同訳の訳で何の問題もないと思ってきたが、岩波書店2004年佐藤研訳を読んでいて、「自己愛を前提としていて不適」と注にあって少し調べてみた。・・例えば、バスに乗っていて立っている人が自分の高齢の母である(かの)ように思って席を譲る、というように対象が○○であるように、とするのが本来であるというわけである。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/thumbnail/76/80/eb6acfea61b8b0c7a052069d0f5a74fd_s.jpg)
そして、「自分を愛するように」というのは、ナルシシズムが高じた自己愛性人格障害(自己中心的性癖がひどくなった症状)に通じると言う。それを読んで、訳文は原義に忠実に訳すのが適切なのか、と理解が広がった。塚本虎二も「隣の人を自分のように愛せよ」、文語訳も「己のごとく隣を愛すべし」とあった。ギリシア語、ヘブライ語(レビ19:18)原語もこのように読むべきであると理解できる。Gr ώς σεαυτόν, Heb כָּמ֑וֹךָ 共に as yourself の意で「あなたを愛するように」という動詞句になっていない。
妻に話すと、「自分を愛するように」は自己中心的響きが感じられ、適切でないのではないかと感じてきたと言う。わたしは「自分を愛するように」は分かりやすい、自然な訳なのに、やはり変えた方がよいのだろうか、と思い始めている。(英語では as thyself, as yourself で問題がなさそうである。)
神と自分の中と他人とには実は境目がないという話であるなら、釈迦の教えと似てますね。
>末日の異邦人の教会は、このサンヘドリンに指導されたシナゴーク/ユダヤ教会と同じようになってしまい再臨時には滅ぼされると、ジョセフ・スミス訳マタイ21章(聖句ガイド p309)あるわけでぇ、たいへんなこっちゃぁぁ・・・
ヨハネの黙示録の666反キリストの獣とはローマ皇帝ネロのことだという説があって、大昔に過ぎ去ったことなんだから我々は気に病む必要はないと、あるキリスト教会ではそう教えている。
しかしどうなんだろう、ルターは、一夫一婦制はローマ市民の規範であって聖書的というわけではないと教えています。
ローマ帝国は滅びて我々と関係なくなったのではなくて、ローマ帝国という入れ物は壊れてもその文化が現代の世界思想・無意識にそれは正しいという常識として生きてるのではないかと。
とすれば現代はいまだにハルマゲドンの最中ということになる。 モルモン教会も他人事ではないでしょう。
サンヘドリン https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B5%E3%83%B3%E3%83%98%E3%83%89%E3%83%AA%E3%83%B3
難民キャンプに到着して早々に、エイズ患者の子供と対面した時のことです。その子の姿を見た瞬間に胸がいっぱいになって思わず抱きしめようとしました。が、「もし感染したら・・・」と恐れが一瞬脳裏をかすめたそうです。それで、動きが止まってしまった。でもキリストの模範を思い出し、結局はその子を抱きしめました。「はじめてその子供を見た時には、私たちを隔てるものはなかったのです。キリストの憐みの偉大さを思い知った経験となった。」キリストは、全くの無私の奉仕ですよね。
ところで、ここで問題になっている「自分を愛するように」というのは、マタイ22:34から始まる聖書の言葉の一部。これはキリストから「パリサイ人」に向けられた言葉ですね。パリサイ人は指導者として、本来はレビ記で主がお与えになった戒めを率先して守っていなければならない立場にありました。しかし、彼らは真逆の行いをしていました。そのくせ、第一の戒めを守っているので(形式主義)、自分達は義人であると誇っていました。彼らの「自己欺瞞」を主は知っておられました。彼らが、「自分を愛すること」にはどれほど「熱心」だったかも知っておられました。レビの「自分自身のように」を主は意図をもって変更されたと考えられませんか。そして、この皮肉をパリサイ人は気づいたはず。
「あなたたち、パリサイ人よ。あなたたちは、熱心に神を愛する(戒めを守る)だろう。そして、同様に隣人をも愛するだろう。簡単ではないか。あなたたちが、あなた自身の肉を喜ばせているように、あなたたちの隣人にも行ってやるのだ。ただそれだけのことではないかね。神を形式でも愛するのは、よかろう。しかし、一番大切なことは、諸君はどんなことだと考えているのかい?さあ、聖書は何と教えているかい?」
雰囲気的には、こんな感じになるのかなー。こわーっ。
もうひとつ。パリサイ人がちゃんと人々に教えていなければならなかった事を、キリストはここできちんと人々に宣言された。ただし、ひねりがあって、この教えを聞くものがどう理解するかを試された。でなければ、私たちも「肉を喜ばせているパリサイ人と同じ」ということになってしまうかもしれません。
ですから、NJさんの奥様の<「自分を愛するように」は自己中心的響きが感じられ、適切でないのではないかと感じてきたと言う。>のような指摘は、案外あたっているのかもしれません。
毎度長くなりましたが、前回コメント以来、マリアはこのように思索を進めて見ました<m(__)m>。
「洗練された洗脳ツールであって、キリスト教福音派左派から生まれたものだから。つまり、キリスト教福音派が, 左派 → ニューエイジへ(一部) 右派 → キリスト教原理主義やら、ネオコン・・・・ 31st3月2010 虚空と君のあいだに」
http://www.mkmogura.com/blog/tag/%E5%BA%83%E7%80%AC%E9%9A%86
「あるいは、ガイア理論です。地球を一つの生命体と考える仮説です。たとえとしてならもっともな考えです。人間、動植物、環境、地球、お互い関係しながら存続しているわけですから。ニューエイジ・スピリチュアル・精神世界 2」
http://ww4.tiki.ne.jp/~enkoji/newege2.html
ニュー・エイジ ガイア http://image.search.yahoo.co.jp/search?ei=UTF-8&fr=top_ga1_sa&p=%E3%83%8B%E3%83%A5%E3%83%BC%E3%83%BB%E3%82%A8%E3%82%A4%E3%82%B8+%E3%82%AC%E3%82%A4%E3%82%A2
http://meigata-bokushinoshosai.info/index.php?%E6%9C%AA%E6%9D%A5%E5%BD%A2
ヘブライ語 あなた自身として愛しなさい
http://search.yahoo.co.jp/search?ei=UTF-8&p=%E3%83%98%E3%83%96%E3%83%A9%E3%82%A4%E8%AA%9E%20%20%20%E3%81%82%E3%81%AA%E3%81%9F%E8%87%AA%E8%BA%AB%E3%81%A8%E3%81%97%E3%81%A6%E6%84%9B%E3%81%97%E3%81%AA%E3%81%95%E3%81%84
"あなた自身として愛しなさい"
http://search.yahoo.co.jp/search?ei=UTF-8&p=%22%E3%81%82%E3%81%AA%E3%81%9F%E8%87%AA%E8%BA%AB%E3%81%A8%E3%81%97%E3%81%A6%E6%84%9B%E3%81%97%E3%81%AA%E3%81%95%E3%81%84%22
この件について意見を分かち会える機会があればと、ずっと思っていました。
この戒めはレビ記19:18で主が定められたものです。
そこには「あなた自身のようにあなたの隣人を愛しなさい」とあります。しかし、ヘブライ語のニュアンスでは「あなた自身として愛しなさい」の方が意味的により近いのだそうです。
そこには「あなた」と「わたし」のわけ隔て、境界がありません。「同じ存在」として愛する。わたしはここに「本質的な存在」の強調を感じています。実際、キリストの他者への愛はそうではなかったでしょうか。キリストは、「ご自分を愛するように」人を愛したのでしょうか、ということです。そうではないだろう。とわたしは考えます。
そして、イエスは、この戒めを「心をつくし、精神をつくし、思いをつくして、主なるあなたの神を愛せよ」の第一の戒めと併せてお定めになりました。そして、この二つの戒めに、「律法全体と預言者」とがかかっているのだと宣言されました。つまり、それらが「聖書」で一番重要な戒めであるということを示唆されたのだと私は考えます。
第一の戒めが与えられたのは申命記でした。第二の戒めはレビ記です。長い間、別々だったこの二つの戒めを、イエス様はご自分の時になって合わせられたのです。(間違いでしたらごめんなさい)
このことに気がついたときから、その意味をずっと問い続けています。
さらに、この二つの戒めは、「YOU SHALT LOVE」と表現されている。旧約聖書では、先に主が「聞け」または「言いなさい」と呼びかけてから、言っている。私の理解が正しいなら、「あなたはわたし(神)によって愛するようになる(神を)。」となるはずです。
第二の戒めで感じた「本質的な存在」、それが理解できるならば、第一の戒めの「WITH」以下の条件を満たす時に、「神とは何かを本質的に知る(FAMILIAR)」という事なのではないかと感じています。「愛する」とは、その存在を「知る」ということになるでしょうか。
一年近くずっとこんなことを考えてきました。恐ろしく私的な解釈なので、このような場で述べても良いのか躊躇しましたが、NJさんなら許して下さるだろうと思いました。