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先回の「対決」「告白」に似た内容であるが、「新生」についても鋭い指摘がなされている。
新生について
亀井: 「新生は言ひ易い。然しながら、誰か容易(たやす)く『新生』に到り得たと思ふであらう。北村透谷君は『心機妙変』を説いた人であった。そしてその最後は悲惨な死であった。『新生』を明るいものとばかり思ふのは間違ひだ。見よ、多くの光景は寧ろ暗黒にして、且つ惨憺たるものである。」(藤村「新片町より」白鳥が引用)。p. 302
・・同じ「新片町より」にこのような言葉もあります。
「基督教会で説かれることは、吾々から考へると余りに明る過ぎる。光明のみであり過ぎる。それでは物足らない。真の慰藉なるものは寧ろ暗黒にして且つ惨憺たる分子を多く含まねばならぬ。新生の真相と云ふやうなものは、其の光景の多くは、努力の苦痛と、浪費の悲哀とに満たされたものかと思ふ。余りに光明ある言葉は寧ろ聴衆を失望させるばかりである。」
・・
小塩: 信仰告白とか信条とかいう、教会的術語には、厚い事実の層がある。だから、この二語にしても、世界教会会議による古典的なものに信条を、あと、福音主義教会の場合を信仰告白と、区別する。告白も、文字通り、「共に」語ることなのですね。それが個人の恣意的なはらの中をただぶちまけることになった。だから、そもそも教会に入るのも、離れるのも勝手気儘なことですね。伝統のない教会に、ただ束縛のない自己を欲した青年客気が、とびこんだり出たりした。だからちょっと面白くなければ、教会の交わりからすぐにでも脱落する。そういう気風が、明治以来のプロテスタント教会に、出来たということは残念ながら、認めなければならない。ですから、文士たちの場合も、深刻な「ころび」とか、「背教」とかいうのではなくて、さあっと・・・。
亀井: そうです。さきにも述べた対決力もなければ背教意識もない。これは日本文学の一つの特徴です・・ p. 303
[コメント] 末日聖徒が、明治以来のプロテスタント教会にできた、ちょっと面白くなければ、教会の交わりからすぐにでも脱落するという気風を引き継いでいるとは思えないが、低い定着率を見ると同様の気風を持っている可能性が感じられる。新しい改宗者に求めるばかりではなく、私達は本質的な、深い新生を絶えず遂げていきたいものだと思う。
とにかく、大変興味深く、読み応えのある本である。
それが嫌な人にはもちろん教会を離れる自由もあります
「「キリスト教会を再一致させていく基準は、聖書にすればいいじゃないか」と思われる読者も多いと思います。しかし、聖書は、教会を再一致させる原理にはなりません。なぜならば、キリスト教の原理を「聖書のみ」と考えるのは、プロテスタント教会だけだからです。
カトリック教会と正教会は、「聖書と伝統」がキリスト教の原理と考えます。そのため、むしろ聖書は、教会の伝統の中で読まれることを重視します。ロシア正教会は、現在でも、信者だけで聖書の勉強会を行うことには消極的です。特に旧約聖書については、神父の指導なくして、信者だけで読むと、キリスト教の本質を誤解する危険があると考える正教会の神父も少なからずいます。ソ連時代、聖書の発行は、ほとんどなされませんでした・・・・」
http://webheibon.jp/blog/satomasaru/2015/03/post-147.html
モルモン書とかへの理解が重要となってくるんでしょうね。
信者自身が改宗後に求めていたイメージと、実際に教会が霊的に提供できるもの(せいぜいHT2名を選んで9割任せてしまう中、自立の意味であえて宣教師がよそよそしくふるまう方針)のギャップが大きすぎるんだと思います。
モルモン書は聖書よりも霊的にすばらしい、従って教会員の勉強は、モルモン書を聖書よりも優先して当然という論は、キリスト教圏で有効かも知れないが、日本では当てはまらない論理だと心得たほうがいい。
自分の進む道が反聖書的でもないと確信できることはやはり重要だからです。 LDSは反キリストとか言われて、内心そうかも知れないなどと会員が思っていたら、たいがい1年もたないでしょう。
その上で聖書にない基本的な教義はこれとこれと仕分けながら教えた方が日本の聖徒には分かりやすいですから。
https://search.yahoo.co.jp/search?ei=UTF-8&p=%E4%BF%A1%E4%BB%B0%E5%91%8A%E7%99%BD%20%20%20%20%E6%96%B0%E7%94%9F
信仰箇条や聖文を理解し喜びとなれば高着になるのかも。
定着率が低いって言うのを、「低着率」って一言で書くのは、流行るかも?
低い定着率、って言うのは、モルモンだけじゃなく、日本の宗教に共通するんでは?(なんかオムナイさんみたいですが 笑)
私は、自由に気軽に出入りできる方が良いと思います。
その方が、宗教戦争が起きなくて平和なんじゃないですか?
そうした見方がかつての拙速バプテスマを呼んだのでは?
教会は企業ではないはず、そうした数字にこだわらない霊的な視点を大切にしたい
だって、カソリックもプロテスタントもモルモンほど繁盛してませんから。
関西に出張に行くと京都の今宮神社を良く訪れます。
「あぶり餅」を食しに行くのですが、ここは参道を挟んで2軒のライバル店が凌ぎを競ってます。
一方は元祖で一方は本家。
味は微妙にちがうのですがどちらも美味しいです。
モルモンは本家キリスト教でしょうか。
元祖キリスト教も本家キリスト教も神道も仏教も味わい尽くすのが日本人の宗教観。
七五三では神社に結婚式では教会にお葬式ではお寺にお世話になる。それで丸く収まる。
低着率なんてアメリカの統計に惑わされてはなりません。
日本には3つの神殿が稼働し快活な信仰生活があるなと思ってます。年に数回、数年に一回しか訪れない会員も立派な活発会員です。
昔、『幸福の探求』というのあったんでしたが、ユーチューブとかにないんですねぇぇ・・・
検索では、山下家の話が出てますかぁぁ・・・
http://kokoronihikari.seesaa.net/article/207576998.html
https://search.yahoo.co.jp/search?ei=UTF-8&p=%22%E5%B9%B8%E7%A6%8F%E3%81%AE%E6%8E%A2%E6%B1%82%22%20%20%E6%9C%AB%E6%97%A5
教会の成長というのは本来は会員数や礼拝拠点の数というよりは、教会内の単なる慣習、その時代の指導者の推測を含んだ意見、残念ながら誤った発言と、本当に神から授かった教義とが迷信の混沌状態から明確に分別されて行く過程のことを言うのでしょう。
これはモルモン教会だけではなくて、例えばカトリック教会の火あぶり刑、マリア信仰、天動説への拘泥、免罪符の例でもいえることで、現代のカトリック信者さんは明確にこれらは、カトリック教会の教義ではなかったことを知っているし公言できる。
教会が中世から現代に向かって洗練されてゆき明らかに成長している分かりやすい例であると思います。