![](https://blogimg.goo.ne.jp/thumbnail/6e/d0/74d25ac0c597bb636f5ee9d090ae427b_s.jpg)
先回の「対決」「告白」に似た内容であるが、「新生」についても鋭い指摘がなされている。
新生について
亀井: 「新生は言ひ易い。然しながら、誰か容易(たやす)く『新生』に到り得たと思ふであらう。北村透谷君は『心機妙変』を説いた人であった。そしてその最後は悲惨な死であった。『新生』を明るいものとばかり思ふのは間違ひだ。見よ、多くの光景は寧ろ暗黒にして、且つ惨憺たるものである。」(藤村「新片町より」白鳥が引用)。p. 302
・・同じ「新片町より」にこのような言葉もあります。
「基督教会で説かれることは、吾々から考へると余りに明る過ぎる。光明のみであり過ぎる。それでは物足らない。真の慰藉なるものは寧ろ暗黒にして且つ惨憺たる分子を多く含まねばならぬ。新生の真相と云ふやうなものは、其の光景の多くは、努力の苦痛と、浪費の悲哀とに満たされたものかと思ふ。余りに光明ある言葉は寧ろ聴衆を失望させるばかりである。」
・・
小塩: 信仰告白とか信条とかいう、教会的術語には、厚い事実の層がある。だから、この二語にしても、世界教会会議による古典的なものに信条を、あと、福音主義教会の場合を信仰告白と、区別する。告白も、文字通り、「共に」語ることなのですね。それが個人の恣意的なはらの中をただぶちまけることになった。だから、そもそも教会に入るのも、離れるのも勝手気儘なことですね。伝統のない教会に、ただ束縛のない自己を欲した青年客気が、とびこんだり出たりした。だからちょっと面白くなければ、教会の交わりからすぐにでも脱落する。そういう気風が、明治以来のプロテスタント教会に、出来たということは残念ながら、認めなければならない。ですから、文士たちの場合も、深刻な「ころび」とか、「背教」とかいうのではなくて、さあっと・・・。
亀井: そうです。さきにも述べた対決力もなければ背教意識もない。これは日本文学の一つの特徴です・・ p. 303
[コメント] 末日聖徒が、明治以来のプロテスタント教会にできた、ちょっと面白くなければ、教会の交わりからすぐにでも脱落するという気風を引き継いでいるとは思えないが、低い定着率を見ると同様の気風を持っている可能性が感じられる。新しい改宗者に求めるばかりではなく、私達は本質的な、深い新生を絶えず遂げていきたいものだと思う。
とにかく、大変興味深く、読み応えのある本である。
https://www.youtube.com/watch?v=Uxy9Keo_KVc
LDS教会にも組織としての側面があることをご存じだと思います。まずいと思われることは表に出さず、端正な姿を描いて社会に提示します。教会歴史や教義ないし慣例・伝統の部分に過去と現在で相違、すなわち齟齬が生じます。近年教会が発表した一連の「福音のテーマ」と題する評論は、それを認めて説明しようとしたものでした。
私は聖書や現代社会の変遷について知るようになると、LDS教会についても冷静に見るようになりました。次のような言葉を読んで、その通りだと思っています。
信仰者の陥りがちな姿
「自らの人生すべてを宗教に献げることは、表面的には信仰深く幸せそうに見えるかもしれないが、実際には自分の生の有り様を他人に依存し、自立した人間として生きることから逃げているに過ぎないという場合も少なくない。信仰熱心な者となることを自らに課す人は、宗教指導者や組織の言いなりになってしまいがちである。それは決してその人に与えられた「いのち」を生きているとは言えず、むしろそれを失っているのである。」(上村静「宗教の倒錯 ユダヤ教、イエス・キリスト教」(2008年)pp. 1,2)
--- 厳しい指摘であるがそうなることが多いと思っています。
Unknown さんが(NJを介さないで)、着実に理解を深められ有意義な現世の光陰を過ごされますよう願っています。
ブログの趣旨と違ったコメントをしていたようです
私は教会で学んだことを会員同士で分かち合えることを期待していたのですが、そうではなかったようです
会員の中にもいろんな考え方があっていいとは思います
けれど自分の考えを教会で教えていることよりも真理に近いと言い切る人にはかかわりあいたくないです
それは本当に真理だとお考えですか?傲慢と何が違いますか?
教会がこう教えているからでなく自分で研究して到達したとのことですが、個人で教会と違うことをやって真理がわかるなら回復も予言者もいらなくなります。
そんな方だとはおもいませんでした
そうですよね、聖書にもペテロと言う岩の上に・・て書いてあります。
ご指摘ありがとうございます。
>学問的なことならまだしも福音に関することを人が勝手に真理だというのはおかしいと思います
聖典には、「真理と言うのは、昔も今も変わらない」って書いてあるのですが、モルモンの教義は、昔と今とは違ています。それって、「真理と言えるのでしょうか?」
預言者の言葉と言っても、「預言者の言葉すべてが啓示ではない」とか「預言者も人間で間違いもある」とか言われると、100%信じていいのか?って事に成ります。
神が預言者を通して語られたことなのか?預言者が自分の考えを言ったのか?この判別が難しい。
と言うと、「御霊によって判断しなさい」と言われる。
結局のところ、自分の知識と経験と信仰によって判断するしかない。
私は、それこそが神様が人間に与えた方法だと思っています。アダムとエバが「知恵の実」を食べて以来、神様は、人間に色々な導き(情報)を与えて、その中から何を選ぶのかを見ておられるのではないですかね?
自由意思で選ぶのが、キリストの方法で、すべて神の指示に従わせるのがサタンの方法って聖典には書いてありますけど。
自分の意志で選ぶからこそ、そこに自分自身の責任や行動が生まれるのでは。
私は教会員Rさんのコメントに共感を覚えます。長年聖典を読み、聖書やキリスト教について読書するうちに得た視点から言えることです。末日聖徒として生涯を送ってきても得られる理解です。
教会がこう言っているから、ではなく、自分で判断し自分の考えを持てることが信仰・思想上の自立だと思います。
学問的なことならまだしも福音に関することを人が勝手に真理だというのはおかしいと思います
予言者ではないのですから
もちろん意見からいいでしょうけれど
私にはそのようなことはできませんし、それが真理に近いとは思えませんが
聖書によれば、イエスは確かにペテロに天国の鍵を授けており、おそらくはですが、その流れでジョセフスミスにペテロヤコブヨハネが現れたとなっているものと思われます。
神に召された神権者が全員完璧でないのと同じように預言者も誤り苦悩するものだ、という理解をしたほうが真理に近いと思いますよ。
例えばかつて黒人は呪われていると教会内で教えていた時代などを総合して考えると、末日聖徒だけ別というわけでもなさそうです。
https://www.lds.org/topics/race-and-the-priesthood?lang=jpn&old=true
>でもこの教会には生ける予言者がいるからはいつも正しい方向へ導かれています。そのように学びましたが?
その説明はまるっきりウソではないにせよ、あくまでも神によって「正しい方向に」導かれているだけの説明です。
教会の導かれる方向は常にそうであっても、常に教会がど真ん中に正しかったという証明にはならないと考える方が真理に近いのです。
佐藤優 http://blog.goo.ne.jp/numano_2004/s/%E4%BD%90%E8%97%A4%E5%84%AA
それは私に向けてですか?
神権の回復という教会のビデオで言ってることです
教会を信じられなくなったのならしかたありませんが教義のことで私に文句を言われても困ります
すみません。
モルモンって、何もないところから、いきなりポンと湧いて出たんでしょうか?
聖書だって、モルモンのオリジナルじゃない。
200年以上のキリスト教の歴史の中で、連綿と引き継がれてきたものですよね。
権能って言っても、聖書では、パウロにキリストがカギを渡したって書いてあるしね。バチカンの前にはでっかい鍵が置いてあるそうです。
それに、そもそも最初に引き合いに出したのは、ジョセフスミスじゃなかったっけ?
少なくとも私は、2000年の間、幾多の迫害に耐えて、キリストの教えを信じ、現代に伝えてきた既存のキリスト教信仰者を軽く見ることは出来ません。
毎週日曜日に歌ってる讃美歌だって、ほとんどが、他の教会のものを使わせてもらっているんじゃないですか。
毎年クリスマス会をやってるけど、モルモンのオリジナルのクリスマスソングって一曲でもある?
確かに、間違った方向に傾いた歴史もあったと思いますが、やっぱ、キリスト教の教えと文化を継承してきた先人は、尊重すべきだと思いますけどね。
でもこの教会には生ける予言者がいるからはいつも正しい方向へ導かれています。
そのように学びましたが?
カトリックを引き合いに出して教会の事情を説明されると違和感があります。
私の記憶では数年前に、カソリックはガリレオに対して謝罪してますよね。400年は遅いけど、誤りを認めています。
>カトリック教会の教義ではなかった
とは言ってないかと。
教会の成長というのは本来は会員数や礼拝拠点の数というよりは、教会内の単なる慣習、その時代の指導者の推測を含んだ意見、残念ながら誤った発言と、本当に神から授かった教義とが迷信の混沌状態から明確に分別されて行く過程のことを言うのでしょう。
これはモルモン教会だけではなくて、例えばカトリック教会の火あぶり刑、マリア信仰、天動説への拘泥、免罪符の例でもいえることで、現代のカトリック信者さんは明確にこれらは、カトリック教会の教義ではなかったことを知っているし公言できる。
教会が中世から現代に向かって洗練されてゆき明らかに成長している分かりやすい例であると思います。
昔、『幸福の探求』というのあったんでしたが、ユーチューブとかにないんですねぇぇ・・・
検索では、山下家の話が出てますかぁぁ・・・
http://kokoronihikari.seesaa.net/article/207576998.html
https://search.yahoo.co.jp/search?ei=UTF-8&p=%22%E5%B9%B8%E7%A6%8F%E3%81%AE%E6%8E%A2%E6%B1%82%22%20%20%E6%9C%AB%E6%97%A5
だって、カソリックもプロテスタントもモルモンほど繁盛してませんから。
関西に出張に行くと京都の今宮神社を良く訪れます。
「あぶり餅」を食しに行くのですが、ここは参道を挟んで2軒のライバル店が凌ぎを競ってます。
一方は元祖で一方は本家。
味は微妙にちがうのですがどちらも美味しいです。
モルモンは本家キリスト教でしょうか。
元祖キリスト教も本家キリスト教も神道も仏教も味わい尽くすのが日本人の宗教観。
七五三では神社に結婚式では教会にお葬式ではお寺にお世話になる。それで丸く収まる。
低着率なんてアメリカの統計に惑わされてはなりません。
日本には3つの神殿が稼働し快活な信仰生活があるなと思ってます。年に数回、数年に一回しか訪れない会員も立派な活発会員です。
そうした見方がかつての拙速バプテスマを呼んだのでは?
教会は企業ではないはず、そうした数字にこだわらない霊的な視点を大切にしたい
定着率が低いって言うのを、「低着率」って一言で書くのは、流行るかも?
低い定着率、って言うのは、モルモンだけじゃなく、日本の宗教に共通するんでは?(なんかオムナイさんみたいですが 笑)
私は、自由に気軽に出入りできる方が良いと思います。
その方が、宗教戦争が起きなくて平和なんじゃないですか?
https://search.yahoo.co.jp/search?ei=UTF-8&p=%E4%BF%A1%E4%BB%B0%E5%91%8A%E7%99%BD%20%20%20%20%E6%96%B0%E7%94%9F
信仰箇条や聖文を理解し喜びとなれば高着になるのかも。
モルモン書は聖書よりも霊的にすばらしい、従って教会員の勉強は、モルモン書を聖書よりも優先して当然という論は、キリスト教圏で有効かも知れないが、日本では当てはまらない論理だと心得たほうがいい。
自分の進む道が反聖書的でもないと確信できることはやはり重要だからです。 LDSは反キリストとか言われて、内心そうかも知れないなどと会員が思っていたら、たいがい1年もたないでしょう。
その上で聖書にない基本的な教義はこれとこれと仕分けながら教えた方が日本の聖徒には分かりやすいですから。
信者自身が改宗後に求めていたイメージと、実際に教会が霊的に提供できるもの(せいぜいHT2名を選んで9割任せてしまう中、自立の意味であえて宣教師がよそよそしくふるまう方針)のギャップが大きすぎるんだと思います。
「「キリスト教会を再一致させていく基準は、聖書にすればいいじゃないか」と思われる読者も多いと思います。しかし、聖書は、教会を再一致させる原理にはなりません。なぜならば、キリスト教の原理を「聖書のみ」と考えるのは、プロテスタント教会だけだからです。
カトリック教会と正教会は、「聖書と伝統」がキリスト教の原理と考えます。そのため、むしろ聖書は、教会の伝統の中で読まれることを重視します。ロシア正教会は、現在でも、信者だけで聖書の勉強会を行うことには消極的です。特に旧約聖書については、神父の指導なくして、信者だけで読むと、キリスト教の本質を誤解する危険があると考える正教会の神父も少なからずいます。ソ連時代、聖書の発行は、ほとんどなされませんでした・・・・」
http://webheibon.jp/blog/satomasaru/2015/03/post-147.html
モルモン書とかへの理解が重要となってくるんでしょうね。
それが嫌な人にはもちろん教会を離れる自由もあります