[一人のモーセ? or 4人のモーセはハーモニーが合わない?]
伝統的に旧約聖書の初めの五つの書は、モーセが書いたとされていたが、モーセの死が申命記34:5に出てくるのを見ると、彼以外の人が書いた(少なくともかなりの部分がモーセによらない)ことは自明である。また、創世記の冒頭に二つの若干異なる天地創造の物語が出てきたり(1:1-2:4aと 2:4b-25)、ノアの洪水物語りにも二つの物語(雨の降った日数、箱船に入った動物の頭数が二通り)が出てきたりするのは、異なった資料が両方共用いられたと考えるのが自然である。ほかにも神とアブラハムの契約が15章と17章に二度出てくる。古代の編者は相違があってもそれぞれ元の資料を尊重してそのまま用いたのであった。(重複もしばしば生じている。)
従って聖書が、伝わるうちに紛失したり、削除、改変されたりして現状に至っているというより、矛盾した、ないし相違した記述が成立当初から存在していたと考えた方がずっと明快にいろいろな問題を解決できる。それで末日聖徒の研究者の中にも、このモーセ五書の資料説を理解し受け入れる人たちが出始めている。ユタ州立大学教授デビッド・ボコボイが今最も顕著であるが、ほかにBYU紀要編集長ジョン・W・ウェルチ(交差対句法をモルモン書に発見した人)、BYU中近東学教授E.D.ハンツマン、同じくBYUのスティーブン・ロビンソン、ダイアログ誌の編集員ケビン・L・バーニーなど。(少し世代をさかのぼれば、ヒュー・ニブレー、ジョン・L・ソレンソン、H.C.スネルなどがいる)。
末日聖徒(日米共)のこの方面の知識が希薄なのは、教会外の書籍を読まないことに起因している。それは、1)教会が聖書の本文は壊れている、と教えてきたのでそれで納得している、2)生ける預言者の言葉に第一の権威を認めている、3)聖典を理解するのに人の知恵によってはならない(B.R.マッコンキー)、という教会員の姿勢にかかわっている。しかし、末日聖徒はまた教義と聖約で「最良の書物から知恵の言葉を探し求め、研究によって、また信仰によって学問を求めなさい」(88:118)とも勧められている。現代に住む末日聖徒は、自分たちが大事にしている聖書についてよく知るために、最良の書物から学ぶことを控えたり、惜しんだりしてはならないと思う。
[五種の資料が五書により合わせるように用いられている様子が描かれている]
参考 加藤隆「旧約聖書」100分で名著(NHKテレビテキスト)、2014年、524円、pp. 66, 98-99。わかりやすい解説。
当ブログ記事:
2014.2.17 モーセ五書の「文書説」を受け入れた場合
2014.2.8 モーセ五書の「文書説」、末日聖徒の対応は?
2018.2.20 高等批評を受け入れる末日聖徒
2014.4.10 米末日聖徒が旧約聖書の文書説について出版、ウェルチの序文
何と!四文書仮説をすでに受け入れている私は彼らのはるか先を進んでいるわけですね!(冗談です)
「交差対句法をモルモン書に発見した人」とありますが、モルモン書を書いた人が聖書っぽい言い回しをまねたのだからそうした表現も存在するだろう、と普通の人は考えると思うのですが。
末日聖徒がこうした方面の知識が希薄な理由について、私の経験からもう一つ付け加えさせていただくとすれば、そういう方面の知識を得た人は教会を離れていくのです。もしくは教会から追い出されます。だからいないのですね、残念なことです。
おそらくその通りなのでしょうが、聖書に選ばれる段階で、多くの書の聖文が大胆に排除されたことが大きいと思います。
チリで伝道から帰還して結婚となった長女と踊る氏(4人娘1息子)・・・
https://rationalfaiths.com/author/dbokovoy/ 写真
一人で歌うののは、独唱で、ハーモニーは存在しません。
複数で歌っても、同じメロディーなら、斉唱でして、ここにもハーモニーは生まれません。
複数の人が、違った音を出すから、合唱で、そこに初めてハーモニー(和音)が生まれます。
ただ問題なのは、それが不協和音かどうかですね。
あえて、違う音を加えることによって、ハーモニーが生まれ、音の幅が広がります。
私は、聖書は、けっこう良いハーモニーを出してると思います。
整合性が無くても、原文に忠実でそのまま残したのは、先人の知恵だったのかも知れませんね。
ジョセフスミスは、合唱を斉唱にしようとして、聖書の奥深さを見失ってしまったのかも?
お互いの音をよく聞いて、そこに自分の音を溶け込ませるのが、合唱(合奏)の醍醐味かと思います。
以前から疑問に思っているのですが、モーセ5書はモーセが書いたに決まっているという方々は何を根拠にそう信じていらっしゃるのでしょうね?
聖書のどこにも「これはモーセが書いたものである」なんて説明は存在しないと思うのですが。
旧約聖書では
「モーセが、この律法の言葉をことごとく書物に書き終わったとき、」(申命記31:24)
新約聖書では、キリストがこう言ってます
「…、死人がよみがえることについては、モーセの書の柴の篇で、神がモーセに仰せられた言葉を読んだことが無いのか」(マルコ12:26)
他にもあるかもしれませんけど、勉強不足で・・・。
今でもキリスト教の宗派の中にはそう主張している派も有るとか?
成る程そのような点を根拠にしている方々がいらっしゃるというわけですね。
ですがよく考えてますと、挙げていただいた部分は、モーセが何かを書いたかも知れませんがそれが必ずしも創世記から申命記までを意味するとは限らない、と言えますね。
「モーセ5書はモーセが書いた説」の外にも、「西暦元年のイエス誕生説」もそうなのですが、純朴な信心を持っている人が陥りやすい誤りなのだと思います。伝統的な考え方や言い伝えをそのまま直に信じ、大切にしているけれども、聖書本文はきちんと読んではいないのでしょう。
そういう方々をきちんと導いてあげることが必要なのだと思います。これはどの宗派についても言えることですが。
信者を正しく導く宗教指導者を求めるのは、国民の為に働く政治家を求めるのに似ていますね。
それはただただ幻想にすぎない。
そんな奴はおらんでー
創世記についてはおそらくそうなんでしょうね。
古事記なんかも、なんとか麻呂的な人が編纂したわけで高天原を実在と思う人はいないでしょうし。
イスラエル民族のアイデンティティー確立のために様々な伝承を繋ぎ合わせた感じが読み取れます。
https://ja.wikipedia.org/wiki/モーセ
モーセ像(ミケランジェロ作)
モーセ(ヘブライ語: מֹשֶׁה、ギリシア語: Μωυσής、ラテン語: Moyses、Moses、アラビア語: موسىٰ)あるいはモーゼは、旧約聖書の『出エジプト記』などに現れる紀元前16世紀または紀元前13世紀ごろ活躍したとされる古代イスラエルの民族指導者である。正教会ではモイセイと呼ばれ聖人とされる。
モーセの実在と出エジプトの物語の信憑性は、考古学的知見、歴史的知見、紅海の海底調査の結果[1]、カナン文化における関連する起源神話などから考古学者およびエジプト学者、聖書批評学者の間では疑問視する人々が多い・・・
エジプト側に残るモーセに関する物語と関連するものとして、エジプトの神官マネトによる記録のヨセフスの引用がある。・・・
最終的にエジプトの地を追い出されるが、Osarsephはモーセの名を名乗る。 この物語は出エジプト記とは異なっているが、いくつかの共通点があり、例えば、エジプトに災いをもたらすモーセという名の宗教指導者が存在したこと
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個人的にはモーセの5書は初期のイスラエルの指導者が関わったことには変わりがない。というところに落ち着いています。
メシャ碑文
https://search.yahoo.co.jp/search?ei=UTF-8&p=%E2%80%9D%E3%83%A1%E3%82%B7%E3%83%A3%E7%A2%91%E6%96%87%E2%80%9D
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%96%87%E6%9B%B8%E4%BB%AE%E8%AA%AC
モーセが本当に書いたかどうか、証人喚問が必要です!保守派は納得の行く説明を!
勿論そんなものは必要ないと拒否することも可能ですが、そんなことしたら支持率急降下でしょう。
今日、すべからく聖書学者さんたちは一神ではなく複数であることをゆっておりやぁぁすって・・・
https://www.deseretnews.com/article/700054084/FAIR-conference-LDS-doctrine-clear-on-divinity-of-one-God.html
そうならないのが、信仰の世界の不思議なところです。
例えば、仏教は、釈迦が言ったか言わなかったかなんて全く問題にしていない。
この経典は中国で成立したものだって、平気でそのまま使ってたりします。
誰が言っても、誰が書いても、真理は真理。
ところが、長年宗教をやってても、何が真理かなんて考えようともしない人たちがいる。
そういう人たちは、「誰が言ったか」にこだわる。
つまり、内容を吟味する能力がないので、権威に頼るしかないのです。
権威なんて全くない森友のおっちゃんが、言ってることが正しくて、権威の塊の財務省が言ってることが嘘だって、少し考えりゃーすぐにわかる事です。
https://twitter.com/NJWindow/status/996650299245842432