![](https://blogimg.goo.ne.jp/thumbnail/33/cf/d20e8336514536525d28c6944ef1bb82_s.jpg)
(お断り。興味のない人には退屈かもしれません。パスしてください。)
「したがって、聖者が授けられた律法の目的は、定められた罰の執行にあり、贖罪の目的を達するために定められた罰を科することは、同じ目的で定められている幸福を与えることと相対している。」(第二ニーファイ2:10b)
原文(英文 1981年版)
Wherefore, the ends of the law which the Holy One hath given, unto the inflicting of the punishment which is affixed, which punishment that is affixed is in opposition to that of the happiness which is affixed, to answer the ends of the atonement ----
この第二ニーファイ2:10bの部分、文脈も含めて何度もじっくり読んでみたが、結局すっきりしない。まず、構文が読み切れない。英文本文を見れば、主語 the ends of the law を置いて、その説明が続くうちに述部が出ないまま次の節に移ってしまうように見えるからである。どう受けとめ、どう訳出したものか不明のまま読み進めることになる。また、最後の to answer the ends of the atonement がどのようにどの部分にかかるのかが確定できない。
それで、他の方法に頼ることにした。BofMの分かりやすい口語訳、敷衍訳と注釈を参照したのである。趣旨、意味の面からのアプローチである。以下、意訳、注釈、そして明治訳を掲げる。
The Easy-to-Read BofM (1995, Lynn Matthews Anderson)
There is a punishment to go with the law the Holy One has given. This punishment is the opposite of happiness, which is why the atonement is needed.
A Plain English reference to the BofM (1998, Timothy B. Wilson)
The result of the law that the Holy One has given is for the wicked to receive His punishment, and the result of the atonement that the Holy One will make is for the righteous to receive His Happiness.
Book of Mormon Compendium (1968, Sidney B. Sperry)
Whatever punishment or happiness comes from the judgment answers the ends of the atonement made by the Messiah.
明治訳
而して聖者の立て給ひし律法は、之に伴ふ罰を加ふべきことを要求す。この罰は罪過代贖の要求に應ぜん為律法に定めたる幸福と正しく相表裏す。
昭和訳(1957、佐藤龍猪)
それであるから聖者の定めたもうた律法の目的はこれについている刑罰の執行にあるが、これについている刑罰は、救い主の身代わりの贖罪の目的にかなわせるためについている幸福とは相反している。
平成訳(1995, 2009年)
したがって、聖者が授けられた律法の目的は、定められた罰の執行にあり、贖罪の目的を達するために定められた罰を科することは、同じ目的で定められている幸福を与えることと相対している。
これは原文が明確でない時、原文の構文解釈と翻訳が幾通りかに分かれる一つの例と言える。原文の最後の部分 to answer the ends of the atonement について、昭和訳は「幸福」にかかるように取っており、平成訳は「罰を科する」にかかっている。(明治訳も「為」の後に「であり、」を補って読めば、明治訳も「罰を科する」にかけて理解していることになるが、そうでなければ「幸福」の方にかかる)。いずれにしても分かれるところで、前後の文脈や主旨からすれば、故スペリー教授の短いまとめや二つの意訳(英文Anderson, Wilson)に集約することになるのであろうか。これは別訳・意訳や注釈を読んで理解が進められる例である。結論: モルモン書も箇所によっては理解するのに解説が必要である。KJVに倣って同ランク?
[補足]
IIN2:10bの構文解析としての説明。(実際は英語の説明ができるnative speaker of English の確認が欲しいのであるが、近くに該当者がいない。)
末尾の to answer the ends of the atonement – の部分は副詞用法(ここでは目的)の不定詞句であると見てよい。すると、何にかかるかと言えば先行する動詞または文(ないしは文に相当する単位)であろうと考えられる。
ここでは、Holy One hath given の hath given か、inflicting (後に出てくる that も inflicting を指す)にかかるものと考えられる。そうするとかかる先は幸福というより、罰の執行ということになる。(in opposition to 以下は添えられた説明で、補足的に感じられる)。
前後の内容を見ても、リーハイが息子ヤコブに反対のものがなければ万事成り立たないことを説いていて、律法や贖罪が効力を発揮するためには(負に見える)罰の執行が避けられないことを強調していると読める。この点について、BYUアイダホ校のケビン・パッカードはリーハイの言う ends of the law はアルマの言うdemands of justice であると述べている。(補足終わり)
![](https://blogimg.goo.ne.jp/thumbnail/22/c4/3d65a3a824637370bba566dbed96eddd_s.jpg)
[参考]
1984年中国語訳
所以、那聖者所賜的律法的目的、是要執行那律法中所附的懲罰;那所附的懲罰、和那所附用以符合那贖罪目的的幸福之対立的 ---
2008年中国語訳
因此、那位圣者所赐的律法,就会要求执行律法所附的懲罰、而律法所附的惩罚,与律法所附的幸福是对立的,那幸福是为了完成赎罪的目的--- (中国語訳は共に幸福にかけている)
2010年韓国語訳
그러한즉 거룩하신 이가 주신 율법의 목적은, 부가된 형벌을 가하는 데 이르나니 부가된 이 형벌은 부가된 행복과 반대가 되는 것인 바, 이는 ㄹ속죄의 목적에 부응하기 위한 것이니- (最後の部分がどちらにかかるのか不分明)。
* 釈義:exegesis (the Greek ἐξήγησις from ἐξηγεῖσθαι 'to lead out') is a critical explanation or interpretation of a text
** Kevin Packard, To Answer the Ends of the Law (Perfect Paradox – Ch 2) The Mourning Star- - - a journal of thoughts and testimony http://themourningstarr.blogspot.jp/2014/02/perfect-paradox
まず、これが意味不明。
ローマ書
3:20
律法によっては、罪の自覚が生じるのみである。
3:23
すべての人は罪を犯したため、神の栄光を受けられなくなっており、
3:24
神の恵みにより、キリスト・イエスによるあがないによって義とされるのである。
--------
モルモンでよく教えられる「すべての人は不完全です。」
しかし、最善を尽くせば救い主が可哀想に思って救ってくださる。
つまり、相反しているように見える罰も幸福も人の救いには必要不可欠なものだということです。
転じて「反対のものは必要」となるのでしょう。
故に、「贖罪の目的を達するために定められた罰」と言う文章は奇異に感じます。
もしそんな罰が存在すると言うのなら、具体的にどんな罰によって、どのように贖罪の目的が達せられるのか?知りたいですね。
「贖罪の目的にかなわせるためについている幸福」の方が理解しやすいのでは。
モルモン書は「律法の目的はこれについている刑罰」
聖書は「律法によっては、罪の自覚が生じるのみ」
と同じ概念を説いています。
2ニーファイ2章とローマ書3章を読み比べるとモルモン書の説く「救いは無料」の意味がはっきりするかもしれません。
聖書釈義の方法論をモルモン書に当てはめてみた興味ある試みであることを意識して読んでみてください。
すべての人が苦しみを受けないようにしたのなら、罰の必要性は無い。
ましてや、罰が贖罪の目的を達成するために必要だと言うのは矛盾だ
そうしなければ苦くるしみを受うける。
17 しかし、もしも悔い改めなければ、彼かれらはわたしが苦しんだように必かならず苦しむであろう。
・日曜学校などでも正義の律法の要求とキリストの贖罪の関係はよく教えられています。
参考マタイ5: 26
よくあなたに言っておく。最後の一コドラントを支払ってしまうまでは、決してそこから出てくることはできない。
救い主はわたしたちにこう述べておられます。
「見よ,…わたしは,すべての人に代わってこれらの苦しみを負い,人々が…わたしが苦しんだように…苦しみを受けることのないようにした。」(教義と聖約19:16-17)
中抜きをせずに書くとこうなります。
16 見よ、神であるわたしは、すべての人に代ってこれらの苦しみを負い、人々が悔い改めるならば苦しみを受けることのないようにした。
17 しかし、もしも悔い改めなければ、彼らはわたしが苦しんだように必ず苦しむであろう。
聖句を全部書かずに中抜きをして、まったく違った意味に見せかけようって言うのは、オムナイさんにでもわかりますか?(笑)
聖典を尊重する人には赦しがたい行為ですよね。
でも、モルモン教会の中ではよく見かけるんですよね。
これもね、モルモン教会の公式サイトからコピーしたんですけど
http://www.mormon.org/jpn/FAQ(%E3%82%88%E3%81%8F%E3%81%82%E3%82%8B%E8%B3%AA%E5%95%8F)/%E3%82%AD%E3%83%AA%E3%82%B9%E3%83%88%E3%81%AE%E8%B4%96%E7%BD%AA
この部分、冒頭が「律法の目的は・・」とあって、律法そのものはむしろ「正義の律法(原則)」に近いものですから、贖罪の話が同時進行しているにも関わらず、正義の律法の概念に重なっていくようなところがあるのではないでしょうか。
それで、「贖罪の目的を達するために定められた罰」というような表現になっていったのだろうか、と印象的に思っています。
結局、別の口語訳や解説の方が分かりやすいのは事実です。
このコメント欄、変わったフォントを受け付けないので不便です。すみません。
その点が矛盾しているので違和感があるという意味でしょう。
要するに、キリストの無条件の救いとは、復活についてであって、苦しみの罰からの救いには条件が必要。
キリストの救いには、二段階の救いが存在することを知らせなければ、二枚舌と思われるでしょうね。