[「釈義」の図解、本文の精査から始まる]
(お断り。興味のない人には退屈かもしれません。パスしてください。)
「したがって、聖者が授けられた律法の目的は、定められた罰の執行にあり、贖罪の目的を達するために定められた罰を科することは、同じ目的で定められている幸福を与えることと相対している。」(第二ニーファイ2:10b)
原文(英文 1981年版)
Wherefore, the ends of the law which the Holy One hath given, unto the inflicting of the punishment which is affixed, which punishment that is affixed is in opposition to that of the happiness which is affixed, to answer the ends of the atonement ----
この第二ニーファイ2:10bの部分、文脈も含めて何度もじっくり読んでみたが、結局すっきりしない。まず、構文が読み切れない。英文本文を見れば、主語 the ends of the law を置いて、その説明が続くうちに述部が出ないまま次の節に移ってしまうように見えるからである。どう受けとめ、どう訳出したものか不明のまま読み進めることになる。また、最後の to answer the ends of the atonement がどのようにどの部分にかかるのかが確定できない。
それで、他の方法に頼ることにした。BofMの分かりやすい口語訳、敷衍訳と注釈を参照したのである。趣旨、意味の面からのアプローチである。以下、意訳、注釈、そして明治訳を掲げる。
The Easy-to-Read BofM (1995, Lynn Matthews Anderson)
There is a punishment to go with the law the Holy One has given. This punishment is the opposite of happiness, which is why the atonement is needed.
A Plain English reference to the BofM (1998, Timothy B. Wilson)
The result of the law that the Holy One has given is for the wicked to receive His punishment, and the result of the atonement that the Holy One will make is for the righteous to receive His Happiness.
Book of Mormon Compendium (1968, Sidney B. Sperry)
Whatever punishment or happiness comes from the judgment answers the ends of the atonement made by the Messiah.
明治訳
而して聖者の立て給ひし律法は、之に伴ふ罰を加ふべきことを要求す。この罰は罪過代贖の要求に應ぜん為律法に定めたる幸福と正しく相表裏す。
昭和訳(1957、佐藤龍猪)
それであるから聖者の定めたもうた律法の目的はこれについている刑罰の執行にあるが、これについている刑罰は、救い主の身代わりの贖罪の目的にかなわせるためについている幸福とは相反している。
平成訳(1995, 2009年)
したがって、聖者が授けられた律法の目的は、定められた罰の執行にあり、贖罪の目的を達するために定められた罰を科することは、同じ目的で定められている幸福を与えることと相対している。
これは原文が明確でない時、原文の構文解釈と翻訳が幾通りかに分かれる一つの例と言える。原文の最後の部分 to answer the ends of the atonement について、昭和訳は「幸福」にかかるように取っており、平成訳は「罰を科する」にかかっている。(明治訳も「為」の後に「であり、」を補って読めば、明治訳も「罰を科する」にかけて理解していることになるが、そうでなければ「幸福」の方にかかる)。いずれにしても分かれるところで、前後の文脈や主旨からすれば、故スペリー教授の短いまとめや二つの意訳(英文Anderson, Wilson)に集約することになるのであろうか。これは別訳・意訳や注釈を読んで理解が進められる例である。結論: モルモン書も箇所によっては理解するのに解説が必要である。KJVに倣って同ランク?
[補足]
IIN2:10bの構文解析としての説明。(実際は英語の説明ができるnative speaker of English の確認が欲しいのであるが、近くに該当者がいない。)
末尾の to answer the ends of the atonement – の部分は副詞用法(ここでは目的)の不定詞句であると見てよい。すると、何にかかるかと言えば先行する動詞または文(ないしは文に相当する単位)であろうと考えられる。
ここでは、Holy One hath given の hath given か、inflicting (後に出てくる that も inflicting を指す)にかかるものと考えられる。そうするとかかる先は幸福というより、罰の執行ということになる。(in opposition to 以下は添えられた説明で、補足的に感じられる)。
前後の内容を見ても、リーハイが息子ヤコブに反対のものがなければ万事成り立たないことを説いていて、律法や贖罪が効力を発揮するためには(負に見える)罰の執行が避けられないことを強調していると読める。この点について、BYUアイダホ校のケビン・パッカードはリーハイの言う ends of the law はアルマの言うdemands of justice であると述べている。(補足終わり)
[古代に何を意味したかを問う本文の釈義に始まり→普遍的原則(神学)に照らして→今日に適用される解釈を得、実践する]
[参考]
1984年中国語訳
所以、那聖者所賜的律法的目的、是要執行那律法中所附的懲罰;那所附的懲罰、和那所附用以符合那贖罪目的的幸福之対立的 ---
2008年中国語訳
因此、那位圣者所赐的律法,就会要求执行律法所附的懲罰、而律法所附的惩罚,与律法所附的幸福是对立的,那幸福是为了完成赎罪的目的--- (中国語訳は共に幸福にかけている)
2010年韓国語訳
그러한즉 거룩하신 이가 주신 율법의 목적은, 부가된 형벌을 가하는 데 이르나니 부가된 이 형벌은 부가된 행복과 반대가 되는 것인 바, 이는 ㄹ속죄의 목적에 부응하기 위한 것이니- (最後の部分がどちらにかかるのか不分明)。
* 釈義:exegesis (the Greek ἐξήγησις from ἐξηγεῖσθαι 'to lead out') is a critical explanation or interpretation of a text
** Kevin Packard, To Answer the Ends of the Law (Perfect Paradox – Ch 2) The Mourning Star- - - a journal of thoughts and testimony http://themourningstarr.blogspot.jp/2014/02/perfect-paradox
(お断り。興味のない人には退屈かもしれません。パスしてください。)
「したがって、聖者が授けられた律法の目的は、定められた罰の執行にあり、贖罪の目的を達するために定められた罰を科することは、同じ目的で定められている幸福を与えることと相対している。」(第二ニーファイ2:10b)
原文(英文 1981年版)
Wherefore, the ends of the law which the Holy One hath given, unto the inflicting of the punishment which is affixed, which punishment that is affixed is in opposition to that of the happiness which is affixed, to answer the ends of the atonement ----
この第二ニーファイ2:10bの部分、文脈も含めて何度もじっくり読んでみたが、結局すっきりしない。まず、構文が読み切れない。英文本文を見れば、主語 the ends of the law を置いて、その説明が続くうちに述部が出ないまま次の節に移ってしまうように見えるからである。どう受けとめ、どう訳出したものか不明のまま読み進めることになる。また、最後の to answer the ends of the atonement がどのようにどの部分にかかるのかが確定できない。
それで、他の方法に頼ることにした。BofMの分かりやすい口語訳、敷衍訳と注釈を参照したのである。趣旨、意味の面からのアプローチである。以下、意訳、注釈、そして明治訳を掲げる。
The Easy-to-Read BofM (1995, Lynn Matthews Anderson)
There is a punishment to go with the law the Holy One has given. This punishment is the opposite of happiness, which is why the atonement is needed.
A Plain English reference to the BofM (1998, Timothy B. Wilson)
The result of the law that the Holy One has given is for the wicked to receive His punishment, and the result of the atonement that the Holy One will make is for the righteous to receive His Happiness.
Book of Mormon Compendium (1968, Sidney B. Sperry)
Whatever punishment or happiness comes from the judgment answers the ends of the atonement made by the Messiah.
明治訳
而して聖者の立て給ひし律法は、之に伴ふ罰を加ふべきことを要求す。この罰は罪過代贖の要求に應ぜん為律法に定めたる幸福と正しく相表裏す。
昭和訳(1957、佐藤龍猪)
それであるから聖者の定めたもうた律法の目的はこれについている刑罰の執行にあるが、これについている刑罰は、救い主の身代わりの贖罪の目的にかなわせるためについている幸福とは相反している。
平成訳(1995, 2009年)
したがって、聖者が授けられた律法の目的は、定められた罰の執行にあり、贖罪の目的を達するために定められた罰を科することは、同じ目的で定められている幸福を与えることと相対している。
これは原文が明確でない時、原文の構文解釈と翻訳が幾通りかに分かれる一つの例と言える。原文の最後の部分 to answer the ends of the atonement について、昭和訳は「幸福」にかかるように取っており、平成訳は「罰を科する」にかかっている。(明治訳も「為」の後に「であり、」を補って読めば、明治訳も「罰を科する」にかけて理解していることになるが、そうでなければ「幸福」の方にかかる)。いずれにしても分かれるところで、前後の文脈や主旨からすれば、故スペリー教授の短いまとめや二つの意訳(英文Anderson, Wilson)に集約することになるのであろうか。これは別訳・意訳や注釈を読んで理解が進められる例である。結論: モルモン書も箇所によっては理解するのに解説が必要である。KJVに倣って同ランク?
[補足]
IIN2:10bの構文解析としての説明。(実際は英語の説明ができるnative speaker of English の確認が欲しいのであるが、近くに該当者がいない。)
末尾の to answer the ends of the atonement – の部分は副詞用法(ここでは目的)の不定詞句であると見てよい。すると、何にかかるかと言えば先行する動詞または文(ないしは文に相当する単位)であろうと考えられる。
ここでは、Holy One hath given の hath given か、inflicting (後に出てくる that も inflicting を指す)にかかるものと考えられる。そうするとかかる先は幸福というより、罰の執行ということになる。(in opposition to 以下は添えられた説明で、補足的に感じられる)。
前後の内容を見ても、リーハイが息子ヤコブに反対のものがなければ万事成り立たないことを説いていて、律法や贖罪が効力を発揮するためには(負に見える)罰の執行が避けられないことを強調していると読める。この点について、BYUアイダホ校のケビン・パッカードはリーハイの言う ends of the law はアルマの言うdemands of justice であると述べている。(補足終わり)
[古代に何を意味したかを問う本文の釈義に始まり→普遍的原則(神学)に照らして→今日に適用される解釈を得、実践する]
[参考]
1984年中国語訳
所以、那聖者所賜的律法的目的、是要執行那律法中所附的懲罰;那所附的懲罰、和那所附用以符合那贖罪目的的幸福之対立的 ---
2008年中国語訳
因此、那位圣者所赐的律法,就会要求执行律法所附的懲罰、而律法所附的惩罚,与律法所附的幸福是对立的,那幸福是为了完成赎罪的目的--- (中国語訳は共に幸福にかけている)
2010年韓国語訳
그러한즉 거룩하신 이가 주신 율법의 목적은, 부가된 형벌을 가하는 데 이르나니 부가된 이 형벌은 부가된 행복과 반대가 되는 것인 바, 이는 ㄹ속죄의 목적에 부응하기 위한 것이니- (最後の部分がどちらにかかるのか不分明)。
* 釈義:exegesis (the Greek ἐξήγησις from ἐξηγεῖσθαι 'to lead out') is a critical explanation or interpretation of a text
** Kevin Packard, To Answer the Ends of the Law (Perfect Paradox – Ch 2) The Mourning Star- - - a journal of thoughts and testimony http://themourningstarr.blogspot.jp/2014/02/perfect-paradox
「翻訳」は原文の解釈と文脈を含めた本文の理解に基づくものですから、微妙な問題があるときは、翻訳が分かれることがあります。どちらかが間違いとは限りません。「モルモン経」の訳は次のようになっています。
昭和訳 「私たちの先祖の地であるエルサレムのあたりで」
明治訳 「我等の先祖の國エルサレムにて」
解釈によるとともに、訳者・読者という受け手側の知識と調和をはかることも翻訳者の役割に入ってきます。
「モルモン書 生徒用資料 宗教コース121-122」(1990, 1996)では、ニブレーを引用したJ.Fielding Smithの解説が出ています。「地域を指す」という説明になっています。
モルモン径が見つからないので確認ができませんが、
モルモン書では次のように書いてあります。
神の御子は、わたしたちの先祖の地であるエルサレムで、マリヤからお生まれになる。
と、書いてあります。
しかし、モルモン径インシュチュートの生徒テキストには、次のようなことが書いてありました。
アルマ7:10のこの点に関して、ジョセフ・フィールディング・スミス長老は次のように解説している。
「モルモン径には、聖書に記されている真理と対立あるいは矛盾する箇所はひとつない。アルマの言葉を注意深く読めば、アルマには、イエスがエルサレム『で』生まれると宣言するつもりはないことがわかる。アルマは十分な知識を持っていたし、ジョセフ・スミスや彼と共にモルモン径の出版に携わった人も同様であった。もしアルマが『私たちの先祖の地であるエルサレムで』と語っていたら、情況は一変し、アルマが間違えたと言うこともできたであろう。しかし、間違いではなかった。アルマは真実を語ったのである。
と(23ー12)に書いてありました。
モルモン書生徒テキストが手元にないのですが、アルマ7:10に関してこちらはどのようなこと が話されているのでしょうか?
NJさん、ここらへんのことを少し調べてもらいませんか?
お願い致します。
モルモン径テキストは「エルサレムのあたりで…」と書いてありました。
さて、マリヤさんのおかげで、いろいろ学ぶ機会がありました。ありがとうございます。
わたくしも興味深く読みました。
ありがとうございます。
>博士も躊躇なく救い主の居場所を「ベツレヘム」と限定した。
これはモルモンの解釈では博士達が訪れた時英文では「リトルチャイルド」になっていて、羊飼い達が知った時は「ベイビー」の記述なっているので3歳程度に育った時だったろうと解釈しているようです。
ヘロデ大王が3歳以下の子供を殺すように命じたのもそれを裏ずけます。
私の読んだのは、もっと入口に位置する古いもので、ヒュー・ニブレーが「エルサレムの地」(広い地域)と取るべきだというものでした。(「モルモン書の新研究」)
対極にあるものは、もちろん批判派によるもので、よく承知しているはずのJSがたまたま勘違いした可能性がある、と見ています。BofMに19回出てくるうち、18回までがエルサレムの町(狭い概念)を指しているので、Alma 7:10もその可能性が高いと反論しています。むしろ些細な問題と見るべきではないかと言っています。
(Bill McKeever and Eric Johnson)
私が認識している限りでは、ベツレヘムを「ダビデの町」と言っているのは、聖書全体では、ルカのこの所だけではないかと。なぜルカはベツレヘムをわざわざ「ダビデ」の町と言わなければならなかったのか。つまり、ベツレヘムの特異性は何かということを考える必要がありそうです。
ラケルはこの地の近くでベニヤミンを生み落としました。ダビデはベニヤミンの子孫ですね。ベツレヘムは面積も経済力も小さく、またイスラエルの12氏族中最も地位が低かったと聞いています。そのような小さな町で最も小さなものの中からあの偉大な王ダビデが生まれるのですね。
一方、エルサレムはダビデ王が建造し、ダビデが支配したこの世の権力を象徴する町でした。王の王の町でした。
同じ「ダビデの町」と言っても、エルサレムとベツレヘム
はこのような相反する異質性ゆえに、「先祖の地」とひとくくりで済ますわけにいかないというような印象を受けます。
旧約の預言は、救い主はベツレヘムでダビデの子孫から生まれることになっていました。まさにダビデがそうであったように、王の王がまたこのもっとも小さい地から出るのだ。ルカはそのような意図で、「ダビデの町」をベツレヘムに冠したのではないでしょうか。
また、救い主の生誕地をエルサレムにするとまずい理由があります。なぜなら、「ベツレヘム」だからこそ、当時の人にはそこに生まれたそれがメシヤであると、預言が成就したことを判断できるということです。だから、博士も躊躇なく救い主の居場所を「ベツレヘム」と限定した。
私たちは過去に目を向けて預言の成就をいくつもの可能なアプローチで眺めているのですが、当時の人々にとっては、それらは未来におこることであり、判断の情報は預言の言葉しかありませんでした。だから、エルサレムでもベツレヘムでも同じだよというわけにはいかないように思うのです。
だから、一旦語られた預言の言葉は不変なのだろうと思います。
イエス様はいつも自由で大胆な発想をしておられましたね。でもハチャメチャとは違う。釈義でも同じかなと思うのですが、私たちの思考のベクトルの始点と向きがどうなのかをいつも吟味すること、そして言葉をおろそかにしないことが大切かなと私は思っています。
NJさん、ご意見よろしくお願いしますね!
以下のリンクが参考になります。
ttps://www.lds.org/bc/content/shared/content/japanese/pdf/language-materials/32506_jpn.pdf?lang=jpn
『……モルモン書を批判するためによく指摘される論点の
一つは,救い主が「わたしたちの先祖の地であるエルサレム
で」生まれるというアルマ 7:10 に記された言葉です。ここ
でエルサレムは「わたしたちの先祖の地の中の町』とは書か
れていません。地であると書かれています。キリストはエル
サレムの町から 9.5 キロ離れた村でお生まれになりました。
町ではなく,古代の人々が「エルサレムの地」と呼んだ所で
した。』」(Answers to Gospel Questions, ジョセフ・フィー
ルディング・スミス・ジュニア編,全 5 巻〔1957- 66 年〕,
第 1 巻,174)
• エルサレムもベツレヘムもダビデの町と呼ばれており,それ
が幾分混乱を招いている。ルカ 2:11 ではベツレヘムがダ
ビデの町と書かれている。ところが,サムエル下 5:6 - 8;
列王下 14:20;歴代上 11:4 - 8 ではすべてエルサレムが
ダビデの町と書かれているのである。
ttp://www.geocities.jp/waters_of_mormon/hozon/bomsyouko.html
それは、アルマ書第7章10節で、(アルマにとっては未来であるのですが)イエス・キリストがわれわれの先祖の土地であるエルサレムで生まれられる、と書かれている部分です。
モルモン 書を批判する人々は,「モルモン教かキリスト教か、エルサレムかベツレヘムか」と言うバ ンパースティッカーまで作りました。そして、嘲るような口調で、「簡便してくれよ。どん な子供だって、イエスがベツレヘムで生まれたことは知っているよ。」と言います。
しかし、 これこそまさにポイントなのです。確かに、イエスがベツレヘムで生まれられたことは、 どんな子供でも知っていることです。ジョセフ・スミスも勿論イエスがベツレヘムで生まれ られたことを知っていました。
ここでちょっと考えてみてください。もしこれらの人々の いうことを信じるとしたら、今になってやっとわれわれが中東に関して発見しつつある多 くの事柄を予示し、聖書から様々な複雑な方法で引用をし、聖書の様々なテーマに洗練さ れた方法で触れるこの本を執筆できるほど賢い人が、聖書のことを少しでも知っている人 であれば誰でも知っているイエスの誕生の地を間違えた、と言うのです。
しかしまたここ でもモルモン書が正しく、それを批判する人々が間違っていることが判ります。 ごく最近いわゆるアマルナ書簡が発見され、その中に、おそらく 20 世紀におけるアメリカ で最大な考古学者である W.F. アルブライト氏がベツレヘムであることを発見した場所が 言及されています。
そしてその場所は何と、「エルサレムの地にある」として言及されてい るのです。
なぜにこのような回りくどい言い方をしてあるのでしょうか。新約のイエス様は、話されるときはいつも簡潔でしたよ。分かりづらいことがあるとすれば、多分共通の習慣がないか、知らなくて「なんのこっちゃ」となるかなぁと思います。
それよりも、よよアルマ書でイエス様の誕生を預言してるのですが、生誕の地が「先祖の地であるエルサレム」と書いてあるんですね。ベツレヘムではないのですか?神の預言はことごとく成就するはずですよね。旧約では、ベツレヘムが生誕の地であるとはっきりと預言されており、その通りになりました。
こっちの教会員に訊いてみたら、「聖書って、尊いことが抜き去られてるというし、まちがいが多いらしい。だから、ほんとはベツレヘムじゃなくて、アルマが言ってる通りエルサレムが正しいんだと思うよ」という返事でした。
うーん、どう判断すればいいのか…。もしもベツレヘムが正しいなら、誤訳なんでしょうか。釈義どころか次元が低すぎて恐縮なんですが、もやっとしています。すっきりしたいです。
A.精神的な贖罪・・・ゲッセマネの園
B.物理的な贖罪・・・ゴルゴダの丘
モルモンは既にA.でなされたと解釈。
カトリック・プロテスタントはB.でなされたと解釈。まあ、A.の類似話は旧約聖書にも書かれていますが...。
モルモン的聖典解釈は原点型と言えるかもしれませんね。
平成約は英語版に忠実でありすぎたということでしょうか。
英語の文章のまずさを、そのまま引きずったのかも。
ジョセフ・スミスが翻訳が下手すぎた?
>「救いはただ信仰による」と言う考えに対して、モルモンは「救いを受けるには個人の努力が必要だ」と考えています。
これはむしろプロテスタント信仰義認と昔のカトリックの行為義認の比較ですね。
モルモンの提唱する義認の場合は「神の恵み」が強調されます。
良く言われるのは「悔い改めを条件に救ってくださる」といえるでしょう。
打ち砕かれた心と悔いる霊
うーん。名文だ。
標準キリスト教は、救いはひとつで永遠生命との区別なしと信じているので、お互いを間違ってると認識しているわけですよ。
モルモンは3枚舌のように思われても仕方がない。
ただねえ、標準キリスト教の信じる「無条件の救い」もよくよく聞いてみるとかなり歪な解釈のようで、教派にもよるのかも知れませんが、キリストを信じることで救われて選ばれた者が復活して天国に入ることになっている。
ただし誰が選ばれて誰が選ばれないかは、神の都合による。 人は善行をやったから救われるというわけではなく、救われるための条件がない。したがって無条件の救いだとこういう教義のようです。
救いの教義は、モルモンを特徴付ける教義だと思っています。
「救いはただ信仰による」と言う考えに対して、モルモンは「救いを受けるには個人の努力が必要だ」と考えています。
これは、アメリカの合理的な精神に合致しているように思えます。
働かざる者食うべからず、「救いも個人が努力して勝ち取るものだ」と言うのは、私も一概に否定しません。
ただ、この合理的な考えが、キリストの贖罪の範囲を狭めてしまって、キリストのありがたさを無くしてしまっているのも事実です。
モルモンは、人が救いに至るには、個人が教会の戒めを守り、教会員として一生過ごし、教会の儀式を受け、教会の活動に積極的に参加する必要が有ると考えています。
唯キリストを信じていると言うだけでは、下級の救いしか受けられないのです。
この教義が、モルモン教会への帰依と依存を求め、キリストご自身への信仰と信頼を薄めることに成っています。
しかし、やはり信仰の対象はキリストであり、その無限の愛による無限の贖罪を公言しているのです。
今回の意味がつかみにくい文章も、その様な、モルモン独特の、「救い」「贖罪」に関する自己矛盾の表れだと思います。
その点が矛盾しているので違和感があるという意味でしょう。
要するに、キリストの無条件の救いとは、復活についてであって、苦しみの罰からの救いには条件が必要。
キリストの救いには、二段階の救いが存在することを知らせなければ、二枚舌と思われるでしょうね。
この部分、冒頭が「律法の目的は・・」とあって、律法そのものはむしろ「正義の律法(原則)」に近いものですから、贖罪の話が同時進行しているにも関わらず、正義の律法の概念に重なっていくようなところがあるのではないでしょうか。
それで、「贖罪の目的を達するために定められた罰」というような表現になっていったのだろうか、と印象的に思っています。
結局、別の口語訳や解説の方が分かりやすいのは事実です。
このコメント欄、変わったフォントを受け付けないので不便です。すみません。
救い主はわたしたちにこう述べておられます。
「見よ,…わたしは,すべての人に代わってこれらの苦しみを負い,人々が…わたしが苦しんだように…苦しみを受けることのないようにした。」(教義と聖約19:16-17)
中抜きをせずに書くとこうなります。
16 見よ、神であるわたしは、すべての人に代ってこれらの苦しみを負い、人々が悔い改めるならば苦しみを受けることのないようにした。
17 しかし、もしも悔い改めなければ、彼らはわたしが苦しんだように必ず苦しむであろう。
聖句を全部書かずに中抜きをして、まったく違った意味に見せかけようって言うのは、オムナイさんにでもわかりますか?(笑)
聖典を尊重する人には赦しがたい行為ですよね。
でも、モルモン教会の中ではよく見かけるんですよね。
これもね、モルモン教会の公式サイトからコピーしたんですけど
http://www.mormon.org/jpn/FAQ(%E3%82%88%E3%81%8F%E3%81%82%E3%82%8B%E8%B3%AA%E5%95%8F)/%E3%82%AD%E3%83%AA%E3%82%B9%E3%83%88%E3%81%AE%E8%B4%96%E7%BD%AA
そうしなければ苦くるしみを受うける。
17 しかし、もしも悔い改めなければ、彼かれらはわたしが苦しんだように必かならず苦しむであろう。
・日曜学校などでも正義の律法の要求とキリストの贖罪の関係はよく教えられています。
参考マタイ5: 26
よくあなたに言っておく。最後の一コドラントを支払ってしまうまでは、決してそこから出てくることはできない。
すべての人が苦しみを受けないようにしたのなら、罰の必要性は無い。
ましてや、罰が贖罪の目的を達成するために必要だと言うのは矛盾だ
「贖罪の目的にかなわせるためについている幸福」の方が理解しやすいのでは。
モルモン書は「律法の目的はこれについている刑罰」
聖書は「律法によっては、罪の自覚が生じるのみ」
と同じ概念を説いています。
2ニーファイ2章とローマ書3章を読み比べるとモルモン書の説く「救いは無料」の意味がはっきりするかもしれません。
聖書釈義の方法論をモルモン書に当てはめてみた興味ある試みであることを意識して読んでみてください。
故に、「贖罪の目的を達するために定められた罰」と言う文章は奇異に感じます。
もしそんな罰が存在すると言うのなら、具体的にどんな罰によって、どのように贖罪の目的が達せられるのか?知りたいですね。
ローマ書
3:20
律法によっては、罪の自覚が生じるのみである。
3:23
すべての人は罪を犯したため、神の栄光を受けられなくなっており、
3:24
神の恵みにより、キリスト・イエスによるあがないによって義とされるのである。
--------
モルモンでよく教えられる「すべての人は不完全です。」
しかし、最善を尽くせば救い主が可哀想に思って救ってくださる。
つまり、相反しているように見える罰も幸福も人の救いには必要不可欠なものだということです。
転じて「反対のものは必要」となるのでしょう。
まず、これが意味不明。