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第一ニーファイ13:26 「分かりやすくて大変貴い多くの部分を福音から取り去り、また多くの聖約も取り去った」について、目にとまった数少ない具体的な解説を紹介したいと思う。J.W.ウェルチ編「モルモン書探究 II」FARMS/Deseret Book, 1992年で、「取り去った」というのは言葉に手を加えたというより、意味を取り換えたと考えられる、そして「聖約を取り去った」というのも聖書の文言を除去することなく行なわれた、としている。(例、聖餐式が行われなくなったり、頻度が極めて低くなったりするなど、NJ注。)実際に本文から姿を消したかという点については、それは上のような変化の結果であって、その原因ではなかったと考えられるとしている。
ほかにH.ニブレーを引いて、福音にギリシャ哲学や神秘的宗教の影響があったと考えられる、原始キリスト教の奥義や誓約が失われている、と書いている。例として、死者のバプテスマ、祈りの輪の実施、聖餐の変更、後に禁欲主義、独身主義が浸透したことをあげている。
聖典に含まれてもよかった書や本文が除かれた可能性について、使徒の失われた書簡、ヘルマスの牧者、クレメントの第一書簡、バルナバ書簡(以上カトリック学者トマス・ホフマンによる)に言及している。
(聖書本文について言えば、聖書学、特に本文批評の分野が進んで、旧約39書、新約聖書27書とも正典成立時のオリジナル本文から後に取り除かれた部分は、あまりないことが分かっているのではないかと私は理解している。上記編者ウェルチの表現もそのことを示唆している。沼野)
Source:
John W. Welch ed., “Reexploring the Book of Mormon”(The F.A.R.M.S. Updates), Deseret Book Company and Foundation for Ancient Research and Mormon Studies, 1992. Chapter 10 The Plain and Precious Parts
「ひとつ」「愛」「御国」「地獄」「救い」「復活」などの神学的な用語において、確かに伝統的キリスト教では混乱させるような定義に変わっている可能性は感じられます。
それが本当であるならば、ジョセフスミスが福音を回復したという主張は、使用されている言葉の定義を元に戻したという主張になりますね。
だいたい「聖書の文言を除去することなく行なわれた」とはニーファイ書の以下の記述とは全く合致しません。
『あの書物があの大きな忌まわしい教会の手を経て出て来てからは、神の小羊の書物から分かりやすくて貴い多くの部分が取り去られている』
仮にウェルチが言うように本来の意味を「忌まわしい教会」が取り替えたのだとして、じゃあそれはいったい何をですか?
「聖餐会が行われなくなった」ですか?それは噴飯ものですよ、だってカトリックは毎週ミサを行っていますよ。しかもちゃんと聖書に倣って種入れぬパンと葡萄酒を使っています。モルモン教会のように食パンと水道水ではありません。儀式を取り替えているのはどちらの教会?
まぁはっきり言ってしまえば「原始キリスト教会が本来持っていたものが失われた」と言うこと自体がモルモン教会の勝手なデタラ・・・いや、モルモン教会独自の主張ですね。(汗)
では逆にモルモン教会の主張「原始キリスト教会が本来持っていたものが失われた」を正しいとして考えましょう。
それでモルモン教会設立から180年以上経つわけですがこの間に組織の拡大、世情の変化に合わせて様々な変更が行われましたね。一夫多妻の導入と廃止、黒人への神権、同性愛への対応・・・こうした変化を見ればモルモン教会ですら「本来持っていたもの」が失われていますよ。
キリスト教会も2千年経てば変化が起こるのは当然でそれを「本来持っていたものが失われた」とは酷い言いがかりとは思いませんか?立場を変えて考えてください。モルモン教会が一夫多妻を廃止した時に、神の神聖な制度が失われたと主張するグループがいましたがモルモン教会は彼らを破門しました。彼らは末日聖徒に数えられていますか?
彼らを末日聖徒ではないとしているモルモン教会の姿勢と、モルモンをクリスチャンではないとしている伝統的キリスト教会は全く同じ構造なのですよ。
ですから「愛を説きながらモルモンを排斥している伝統的キリスト教会はけしからん」などとお怒りになるモルモン会員がたまにおられますが、事実関係を全く存じない無知な人か、甚だ自分本位で身勝手な人なのだと思う次第であります。
そんなわけでウェルチだとかボーゲルだとか、このところしばしば取り上げておられますが、いずれも簡単に論破されうる護教的こじつけの感が否めないず物足りないなぁと思う日々です。
この度のブログ記事は、[メモ]と書いていますように一情報として掲載したもので、小生の姿勢とか主張を表す周到な研究をへた声明のようなものではありません。むしろ、lds保守派の方々を頭においた「ウェルチでさえこう言っていますよ」というメッセージでした。記事中、( )内の文が私の声です。
なお、ボーゲルは超批判派の筆頭でウェルチとは対極的な位置にいる人です。
そして、その毛糸を使って、また手袋やセーター等を作るんですね。
子供の成長に合わせて、編みなおすのは物のなかった時代には必要な生活の技術だったのでしょう。
私は年上の兄弟が居たので、上のものが着たセーターの編み直しを良く着せられました。
それは嫌じゃなかったんです。
母も、私も、兄弟もみんな、編み直しだって知っていましたし、それでいいと認めていました。
喜んで着ていました。
でもね、もしその時に、母が編み直しを「新しいセーターだよ」って私に着せようとしたら、すごく嫌だったでしょうね。
私自身は、もし聖典の一部分が除去されたり、変質がおこなわれているのであれば、その当時に行われたある種の改革(悪く云えば都合に合わせた)であったと好意的に捉えています。
どの写本を比べても、文言上では聖書はそんなに変化していないようですが、教会の教義や考え方、習慣、儀式、捉え方、生活習慣等、聖書以外の外的な要素で変化があったように感じます。
<取り去られた>という表現の解釈について、ウェルチの見解はまっとうな意見であると感じています。
>近年になって聖書の古代の写本がいくつも発見されましたが、その内容は現代に伝わっている聖書とそう変わらなかったのですね。
>だいたい「聖書の文言を除去することなく行なわれた」とはニーファイ書の以下の記述とは全く合致しません。『あの書物があの大きな忌まわしい教会の手を経て出て来てからは、神の小羊の書物から分かりやすくて貴い多くの部分が取り去られている』
事実関係からして、その次々発見された古代の写本の一部しか聖書に選ばれなかったことも考慮されているのだと思います。 まあ異様で異端すぎるテキストをことごとく全部聖書に入れるべきだったとまでは言いませんけど。
『神の小羊の書物から分かりやすくて貴い多くの部分が取り去られている』ことは否定しきれないでしょう。
それから、変化は悪いこと(退化)ばかりでないと思われます。
ミサの回数の増減したとか、聖餐のぶどう酒が水道水に変わったとかは些細だし、もしかしたら全身礼か滴礼かの問題も実は些細な問題なのかも知れません。
確かに黒人差別については、根底に一般的キリスト教も認めている「ノアの呪い」や「聖絶」という教義がからんでいて、当教会が神権の運用に失敗した不名誉な例なのかも知れません。
しかし死者のバプテスマの儀式の意義が2000年の長い歴史の中で良くわからなくなった例など見れば、「本来持っていたものが失われた」は酷い言いがかりばかりとは思われません。
>彼らを末日聖徒ではないとしているモルモン教会の姿勢と、モルモンをクリスチャンではないとしている伝統的キリスト教会は全く同じ構造なのですよ。
外圧として法律ができて犯罪行為と指定されてなお、これを行うので、理由を問わず破門されてしまうのは仕方がないと思います。
一方「モルモンはクリスチャンではない」発言は酷い差別発言でしかないのです。たとえ思っていても言うべきではなく、全く同じ構造などではありません。
お返事ありがとうございます。ボーゲルって本当に『超』批判派なのですか?
ボーゲルについては以前のNJさんの記事(2008-12-20)で、以下のような紹介がありました。
>聖書の偽典書が古代の預言者の名を冠して著されているのと同様、
>モルモン書も偽典書に列するもので、書中に登場する
>数々の預言者の名を借りて当時の読者に語りかけている、
>しかし、あくまで著者の意図はキリスト教を改革・推進し、
>人々を救いに導こうとする善意に基づいているという。
このことから、ボーゲルと言う人は、モルモン書はジョセフの創作ですよと批判派のそぶりをしながら、結局モルモン護教に回っている人物と思っておりました。私に言わせていただければ、今の時代になって『モルモン書は創作』などと書いても何ら目新しさはなく、それで批判派と言われてもどうかなと思うのですが。
しかしせっかくの機会ですのでアマゾンで買って読んでみることにします。
Unknown様へ
どこのどなたかは存じませんが、はっきり言うとあなたは不勉強すぎて話相手になりません。
>『神の小羊の書物から分かりやすくて貴い多くの部分が
>取り去られている』ことは否定しきれないでしょう。
「可能性が全くなかったとは言えない」は「あったに違いない」でありませんよ。
モルモン会員は往々にしてこの二つを恣意的に同一視して護教しますね。
>確かに黒人差別については、根底に一般的キリスト教も
>認めている「ノアの呪い」や「聖絶」という教義
何かにつけモルモン会員は伝統的キリスト教会のせいにするのですね。回復されたまことのキリスト教会を標榜する潔さは無いのですか?
伝統的キリスト教会は間違ったことを信じてきたり教えてきたことを認識するたびに謝罪しています。キリスト教会のそういう姿を見てあげつらうモルモン会員を何人も見てきました。しかし彼らは、モルモン教会自身のことになると謝罪など必要ないと頑迷になります。
>死者のバプテスマの儀式
そんなものは元々のキリスト教にありません。
>外圧として法律ができて犯罪行為と指定されてなお、これを行うので、
>理由を問わず破門されてしまうのは仕方がないと思います。
では教会が多妻結婚を導入した際にそんな不道徳なことはできないと、多くのモルモン会員が離れましたが、彼らは末日聖徒に数えられますか?
逆に教会が公式の宣言を出した後も一部のモルモン会員(幹部を含む)はメキシコに行って多妻結婚をしていることが、神殿の系図記録に残っていますが、彼らは末日聖徒に数えられますか?
まぁそれよりあなたの考え方の幼稚さが気になります。末日聖徒であるなしの条件が法律を破った犯罪者だからかどうか、などとは聖典にありません。法律と言う外圧があるから仕方ないなどの理由で破門され、神の国に入れないのであれば、それはキリスト教以前に宗教ですらありませんよ。差別とはまた違った酷い話ですね。
>一方「モルモンはクリスチャンではない」発言は酷い差別発言でしかないのです。
いえいえ、モルモン教会が伝統的キリスト教会に言ってることこそが「酷い差別発言」です。
モルモン教義を思い出してください。神が現れて『キリストの教会はどこにもない、ことごとく神の目に憎むべきもの』と告げられたのでしょう。この示現が真実であることの証人が末日聖徒なのですから。これほどの教義を信じていながら、どの面さげて、私たちをクリスチャンの仲間に入れろと言うことができますか?
こんな聖文を発見しました。
第2テモテ4:3―4
「人々が健全な教に耐えられなくなり、耳ざわりのよい話をしてもらおうとして、自分勝手な好みにまかせて教師たちを寄せ集め、そして、真理からは耳をそむけて、作り話の方にそれていく時が来るであろう。」ぺテロの話。
その後、幾つかの派に分派していると書いてありました。
真のキリストの教義から作り話にそれる時に背教が起こると言うことでしょうか。
また別なところで、その国のトップにの意向によって、弾圧などにより、教義など変えられたり、燃やされたり、自分を神としたり、古代から続いているとも、ネットで読みました。
それ以上の要求は、プロテスタントの信者をカトリック教徒としなければ、差別主義だみたいな強引でナンセンスな議論となるでしょう。
教会が正当性を主張するのは当たり前です。
ジョセフスミスの示現で神が現れて『キリストの教会はどこにもない、ことごとく神の目に憎むべきもの』と言ったことを信じることと、他のキリスト教信者に向かって、当教会の信者がお前たちの教会は神に憎まれているとかあちこちに投稿したり、教会の看板に掲げて宣伝して回ることは別ですよね。
われわれは伝統的なキリスト教の信者をクリスチャンであると信じています。 また聖書に記述されている大背教の教義を曲げはしませんが、面と向かって失礼な態度をとらないようにしています。
ことあるごとに『ことごとく神の目に憎むべきもの』発言を持ち出して、他教会同士いがみ合わそうとするのはおやめになったらどうですか。
われわれ教会員は伝統的なキリスト教会の信者をクリスチャンとして認めています。 伝統的ではありませんから異端といわれるのは仕方がないとしても、我々をクリスチャンではないという発言は侮辱表現であり、明らかな差別発言です。
それと死者のためのバプテスマは古代の教会にありました。 伝統的教会からはなくなっていると思いますが。