キリスト教が行うバプテスマは、バプテスマのヨハネに始まるように見える(イエスもヨハネから受けた)が、厳密にはイエスキリストの宣教とともに原始キリスト教会が、その意義、形式ともに始めたと考えるのが妥当と思われる。バプテスマのヨハネが行っていたのは、ユダヤ教の清めの儀式の延長線上にあったものと考えるのが自然であろう。
キリスト教以前のユダヤ教でも清めの目的と異教徒がユダヤ教に改宗する時に水で清める儀式があった。旧約の時代、ミクバと呼ばれる水槽に入る清めの儀式は、個人が必要に応じ何度も受けて神の御前に行く用意をした。律法の上で穢れたと見なされる場合が細かく規定されていた。例えば、女性のメンス、出産、男性の夢精、あるいは男児に割礼を施すに際してなど。
バプテスマの儀式はある時点で急に始まった、あるいは太古に起源があったというより、水で身を清める儀式が時間の経過とともに変化を遂げ、キリスト教が登場し更に発展して、罪の赦しとキリスト教に改宗するという意味で、「一度」受ける儀式になったと理解するのが正しいように思われる。
クムランの共同体は水で清める儀式を重視していたが、共同体加入時に求められる(initiatory rite)だけでなく、繰り返し行われていたものと考えられている。そしてクムランの共同体で育ったのではないかとされるバプテスマのヨハネは、罪の赦しを得るためではなく体を清めるためにバプテスマを行っていた(ヨセフス「古代誌」xviii, 116-19) 。このヨハネのバプテスマはある程度古代の先行する儀式に負うところがあったが、イスラエルで新しいものであった。
(バプテスマが旧約の時代、それも時の初め以来すでに行われていたとするldsの考えは、「自分たちが今日正しいものとして受け入れている制度や慣行は、当然昔もあったはずとする」考えで、ある著者は旧約聖書のモルモンによるキリスト教化と呼んでいる(Melody Moench)。これは旧約聖書を自分たちの信仰に都合のよいように解釈して読む [例、イザヤの言葉をイエス降臨の予言と取る] キリスト教徒の姿 [OTのキリスト教化] に重なるものである。)
参考:
http://gracethrufaith.com/ask-a-bible-teacher/jewish-origin-of-baptism/
http://en.wikipedia.org/wiki/Mikveh
F.F.Bruce, “New Testament History,” Anchor Books 1972
G. Vermes, “The Dead Sea Scrolls in English,” Penguin Books 1973
| Trackback ( 0 )
|
☆と祭司やレビ人から尋ねられた裏には、祭司やレビ人の間でバプテスマの儀式が存在したと考えても不思議はないと思うのです。
いかがでしょうか?
これは伝道中、同僚と聖典勉強していた時に発見し、意見を交わした中で出てきたことですが、、。