小田原周辺のマイナースポットや些細な出来事を少しずつ
小田原の端々



富士山を望み、自然豊かな曽我丘陵は古墳時代からの遺構や横穴墓が点在している。また、江戸時代には多くの僧がこの地で修行を行った伝承が残っている。澄禅上人も江戸時代にこの曽我の地で修行した僧の一人で、各地を転々としながら座禅に徹し阿弥陀の名号を唱えることを実践していた。その澄禅上人がこの曽我丘陵で修行したのは元禄年間で、今から300年以上前のこと。澄禅上人が曽我丘陵で修行をするにあたり拠点にしていた場所が弓張の滝の近くの澄禅窟という洞窟である。澄禅上人ゆかりの場所である澄禅窟は弓張の滝の近くにあるが、案内板は少ないので分かりづらい場所にある。上の写真は弓張の滝の手前の案内板のある場所。弓張の滝方面はまっすぐ、右の道は六本松方面。ここを右の六本松方面へ進む。六本松方面に進むと道が二股に分かれる。ここでやっと澄禅窟の案内板が設置されているが、手書き風の案内板なので見落としやすい。右に進むと六本松。左側の道を進む。道の両側は梅林やみかん畑。上り坂をしばらく進むと農道が行き止まりになっている場所へ到着。そこから山へ続く作業道沿いに澄禅窟がある。作業道を登るとすぐに澄禅窟の案内板が立っている。その奥に2基の石塔が見える。右側の石塔は澄禅上人の没後に建てられた供養塔で享保6年(1721年)の造塔。左側は六字名号塔。供養塔の前を通り奥に進むと洞窟がある。ここが澄禅窟でもともとは横穴式古墳だった場所に元禄年間に澄禅上人が住み着き、朝夕に富士山を拝し修行していたとの伝承が残っている。この場所で澄禅上人が修行をしていたのは上人が36,7歳の頃の数年間だったようで、食べ物は周辺の村人が供していたらしい。上人ゆかりの品は曽我の法輪寺などに伝わっている。今は木々が邪魔をして富士山があまりよく見えないが、300年前にはどんな風景のなかで修行をしていたのだろうか。

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