織田信長に対峙して敗れた石山本願寺の跡地に豊臣秀吉によって建てられた大阪城。
その大阪城も慶長20年(1615年)の大阪夏の陣で落城し、豊臣家は滅亡します。
1620年になると徳川2代将軍秀忠によって豊臣色を払拭する形で大阪城の再建築が始まりました。
そのため、現在目に見える遺構はほとんどが徳川時代のもので、豊臣時代の遺構はその地中に眠っています。
豊國神社
今となっては数少ない豊臣家にゆかりの場所を探してみましょう。
本丸の南にあるのが豊國神社。
京都東山の豊国神社の大阪別社として創建された後、京都・豊国神社から独立して豊國神社に改称されました。
京都の豊国神社は「とよくに」と読み、豊臣秀吉のみを主祭神としているのに対して、ここは豊臣秀頼、豊臣秀長も合祀することから、「ほうこく」と読みます。
秀吉に因んで出世のご利益があるとされる神社です。
境内に建つ豊臣秀吉公像。
秀吉の陣羽織の胸に蜻蛉(トンボ)の意匠がありますね。
トンボは前にしか進まず退かないことから、戦国時代には縁起の良い「勝ち虫」とされ、武具などの意匠によく使われました。
醍醐の桜
秀吉が慶長3年(1598年)に京都醍醐寺で行った有名な醍醐の花見の宴。
醍醐寺 三宝院玄関前の大しだれ桜(秀吉が花見をした頃の桜の木の子孫)は樹齢160年を越え、従来の接ぎ木や挿し木では増殖が困難になり、住友林業がクローン技術でその増殖に成功しました。
この桜の若木はその大しだれ桜のクローン桜で、大阪夏の陣400年を記念して太閤ゆかりの地に植樹されました。
豊臣秀頼 淀殿ら自刃の地
大坂夏の陣で、徳川軍に追い詰められた豊臣秀頼とその母 淀殿が本丸の北側にあった山里丸の櫓に潜み、自害したと多くの記録が伝えています。
この地で豊臣家は滅亡しました。。。
つづく
過去記事<【大阪城散策】門と巨石(2)>
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