「ブレッド&バター」
メンバー
岩沢幸矢(いわさわ さつや)
1943年7月11日生まれの77歳
岩沢二弓(いわさわ ふゆみ)
1949年2月23日生まれの72歳
デビュー50周年! 湘南育ちの兄弟デュオ「ブレッド&バター」って、どんな人たち?前編 2020年01月16日ライター:山本航
デビュー50周年を迎えた、兄弟デュオグループのブレッド&バター。
戦後初の国民的ヒット曲と言われている『りんごの唄』が主題歌の映画『そよかぜ』の脚本家としても有名な映画監督である、岩沢庸徳(いわさわ・つねのり)を父に持つ。幼少から茅ヶ崎で育ち、茅ヶ崎の海を見守ってきた彼らが奏でるのは、まさに茅ヶ崎の海のような爽やかでロマンティックなハーモニー。長く湘南を代表するアーティストとして愛されてきたが、そのキャリアと自然な生き方から音楽業界にもファンが多い。
1969(昭和44)年にデビュー後、現在までにシングル41枚、オリジナルアルバム24枚をリリース。茅ヶ崎をベースにマイペースな活動を続け、加山雄三(かやま・ゆうぞう)とサザンオールスターズとともに、「湘南サウンド」御三家と呼ばれてきた。
70年代の活動停止中には、茅ヶ崎の仲間と手作りで「カフェ・ブレッド&バター」を開業し、多くのミュージシャンと交流を深める。
インタビュー中もさまざまなアーティストの名前があがり、日本音楽界の重鎮とのエピソードから、Suchmos(サチモス)など若者に支持される層まで幅広く語られた。そしてボブ・ディラン、スティービー・ワンダー、B.B.KINGといった超大物レジェンドのビッグネームが飛び出すのは、彼らの魅力が引きつけた証。
今回は、その生い立ちから現在までを茅ヶ崎の風景の変遷とともに振り返って頂き、湘南が育んだ彼らの魅力を紐解いてみた。
加山雄三さんは飾らなくてバンカラな方でした
――まずお父様が東京の方で、幸矢(さつや)さんが東京生まれ。引っ越しをされて、二弓(ふゆみ)さんが横須賀生まれ。ご兄弟が大所帯になったので、茅ヶ崎に引っ越したとか。何才頃ですか?
幸矢さん(以下S)僕が2歳くらいのときに横須賀に引っ越して、幼稚園後半からは茅ヶ崎ですね。日本橋で生まれたから、小さい頃は橋の下で生まれたってよくからかわれました。
――日本橋だから(笑)。普通は地方から東京に引っ越してきたらからかわれるのに、逆だったんですね。
(S)僕らは東京から引っ越してきたし、父が映画人だから、ハイカラな服を着ていたりして、雰囲気が違ったんですよね。
(S)茅ヶ崎の子どもたちは、農家や漁師の子とかが多かったし。方言も全然違うしね。「違かんべよー」とか。まあ、そういうのは覚えてしまったけど。でも、慣れるまではいじめられたりしましたね。
――神奈川県って東京の隣りなのに、独特のローカルな文化が根付いていますね。
(S)当時の茅ヶ崎は東京の人や大使館関係者の別荘がたくさんあって、その周りは農家や漁師さんも生活し、さらにはベッドタウン化で湘南から東京に通勤している人たちがいて、その3種類の生活スタイルが混在していたんです。それが混ざり合って、独特の文化が誕生したんですよね。
――今の湘南文化のルーツですね。
(S)東京から越してきた僕らには、漁師とか憧れでしたね。冬の荒々しい海に飛び込んでいく姿とか見ていると、雄々しくてかっこいいなーと思いました。無い物ねだりというか。そんな中、加山雄三さんも茅ヶ崎で育ったんです。
彼は若くして映画スターになったけど、飾らなくてバンカラな感じでした。いわゆるドカベン(大きな弁当箱)をかっ喰らっていたり、下駄で撮影に出かけたり、地元でも豪快で目立ってましたね。
――もともと加山さんのお父様の上原謙(うえはら・けん)さんが有名人なので、地元では名の知れたファミリーですよね。
(S)そうですね。ほかにもうちのすぐ近所に岩倉邸(岩倉具視〈いわくら・ともみ〉の家系)があったんで、うちのオヤジとつきあいがあったりとか。
歌手の尾崎紀世彦(おざき・きよひこ)さんは、中学の時、水泳部の先輩でした。一緒に県大会に出場しましたね。
――岩倉家といえば、一族が経営に関わっていた湘南のシンボル的存在だった「パシフィックパーク茅ヶ崎(パシフィックホテル、1965〜1988年営業)」を思い出します。ユーミン(松任谷由実)がのちに『Hotel Pacific』という曲の歌詞をおふたりにご提供され、今でも代表曲のひとつになっている思い出のホテルです。世間一般では共同オーナーの上原謙さん、加山雄三さんのイメージも定着されていますね。サザンオールスターズもこのホテルをモチーフとしたヒット曲『HOTEL PACIFIC』を生み出し、今でも茅ヶ崎市民の脳裏に残るホテルですよね。
(S)大人の社交場で、憧れだったよね。僕も学生時代はあそこでアルバイトをしてたんです。海でライフセイバーをしていたから、モテたくてプールの監視員で応募したけどもう募集はいっぱいで、ホテル客室のベッドメイキングに回されちゃったんだよな。
でもそこでの経験が充実していて、ホテルマンを目指すようになったほど楽しかった。それが元で、ニューヨークのヒルトンホテルに就職しに渡米したほどでした。
――その頃のパシフィックホテルは、まさに地方の海沿いにそびえ立つおしゃれな南フランス風のホテルという印象だったらしいですが、海辺はどんな雰囲気だったんですか?
(S)茅ヶ崎駅から、僕らの家があった東海岸9丁目あたりまでは徒歩で15分くらいなんですね。東京に出掛けて帰りが遅くなったときとかは母と兄弟で輪タク(自転車タクシー)に乗って帰ったんですが、窓から景色を眺めてるとなーんにもなかったです(笑)
田舎道に電信柱が立ってるだけで、そこに街灯が100メートルおきとかでポツポツと点いているだけ。夜は真っ暗。あの頃は、国道134号線もアスファルト舗装されていなかったし。
――当時の江の島周辺も、写真を見ると波打ち際からすぐに国道134号線のデコボコ道と切り立った崖や山道だったようですね。
(S)国重光熙(くにしげ・みつひろ、冒険家)さんは知ってます? 彼も茅ヶ崎出身で、彼の家は駅の反対側の本村だったらしいんだけど、そこからも海岸が見えたそうで。それくらいあのあたりは何にもなかったんだよね。
――藤沢駅からも、昔は江の島が見えたようですね。藤沢駅や辻堂駅周辺は随分と発展しましたが、茅ヶ崎駅周辺は今でものんびりしたローカル感があって、駅前をアロハと短パンとビーサンで缶ビール飲みながら歩いてるおじさんとかを普通に見かけます。
(S)もう今はどの駅前も賑やかになってるけど、例えば8月に開催された「茅ヶ崎ロックンロールセンターAGAIN」の会場だった柳島スポーツ公園や今宿のあたりは、それこそ何もないイモ畑ばっかりの田舎だったよ。あの辺に住んでた人から、芋団子をいつも食べていたって聞いたことがある(笑)
(S)ウチの近所も、農家や漁師が多かったし。たまたまウチのあたりが3軒くらい並んでいろんな職業だったけど。お隣りさんは竹屋さん、その隣は女優さんが住んでいたね。で、ウチが映画監督でしょ。映画人やアート系の人もかなりいましたね。
――お子さんのときはどんな遊びが流行っていたんですか?
(S)俺と二弓は歳が離れてるから少々違うだろうけど、俺の頃はやっぱりベーゴマとかビー玉とかかな。そのあたりは東京とかと変わらないけど、あとはやっぱり海! 家から歩いて7〜8分で海だったから、毎日行ったね。裸足で歩いてそのまま飛び込んだり、夜も毛布を持ってそのまま明け方まで寝ちゃったり。とにかく毎日、一日中海にいたね。
――二弓さんも海が中心の子ども時代でしたか?
二弓さん(以下F)小学校まではね。中学からは、ローラースケートに夢中になってた。
――全国的にブームになっていた頃ですね。
(F)そうそう。茅ヶ崎はあの頃、ずーっと砂丘だったのね。一中(茅ヶ崎市立第一中学校)のあたりなんかは全部。それを整地して殖産住宅にしたり、宅地が増えたんで公道が整備されたりして、そこでローラースケートをみんなでやってた。外の世界なんか知らないから、そればっかりやってたよ。兄とは6歳離れてるから、遊びも随分違いますよ。高校は東京に通っていたんで、池袋が中心だったし。
――日本の文化やライフスタイルが大きく変わった時代ですよね。それにしても、おふたりから男の子の定番だった虫捕りや野球とかのお話しが一切出てこないですね。
(S)あー、そうね(笑)。でも、トンボはすごいいましたよ。いろんな種類がいたね。茅ヶ崎弁では、「オンジョ」とか「ナーコイ」と呼んで、捕まえたりしてた。オンジョはオスの銀ヤンマのことで、ナーコイは、その尻尾の色が濃いやつのこと。橋の下に行くと、壁中べったりとトンボだらけだったよ。
(S)昔は水がきれいだったから、川に鯉がいっぱい泳いでた。海沿いには、ヒバリがいっぱいいたし。そこら中で卵を探したりしたよ。もうヒバリなんか全く啼き声を聞かなくなったよね。
そうそう、美空ひばりの大ファンのおじさん知ってる?
当時、茅ヶ崎には地元で有名な人がいてね。自叙伝にもある話なんだけど、テーちゃんって呼ばれてた人がいて、いつも腕に時計の絵を描いていてね。夕方には消えかかってたりして。それを子どもたちがからかって、「今何時!?」と聞くといつも「んーと、だいたい3時」と答えてた、名物男(笑)。
(S)桑田(桑田佳祐)くんも当然知ってたから、確認はしてないけど、『勝手にシンドバッド』のあの「今何時!?」「そうねだいたいね」のフレーズは、テーちゃんがモデルだと思うよ(笑)
ほかにも、変わった有名な人はいたな。いつも腰におもちゃのチャンバラ刀をぶら下げて、夕方になると電柱にある電灯のスイッチを右手で居合抜きでバチーンって叩いて、左手でスイッチを入れて点灯させていたサダちゃんとかいたのね。そういう人って、昔はどこの街角にもいたでしょ。
――当時ならではの茅ヶ崎のピースフルな雰囲気が伝わりますね。世間的には加山さん、ブレバタのおふたり、サザンが湘南という名前とイメージを全国的に有名にさせ、憧れの場所になったと言われていますが、ご本人としてはどんな気分ですか?
(S)んー。どう?(二弓さんに振る)
(F)えー!? どうでもいいかなー(ふたりとも笑う)
無関心だったビーチクリーン活動が全国で行われた
――以前から東海岸ヘッドランドビーチでビーチクリーンのフリーライブをしてますが、そういった地元を盛り上げたり、これからも茅ヶ崎をこうしていきたいというものはありますか?
(S)1990(平成2)年からヘッドランドではベアフット(幸矢さんが会長を務めるNPO法人)のフリーイベントを開催しているんだけど、来年が30周年なのね。それに向けていろいろと考えてはいます。
――子どもの頃から見てきた海が汚れてきて、活動を始めて目に見えて改善されたことはありますか?
(S)意識はみんな高くなってきましたよね。今では全国でビーチクリーン活動が開催されるようになったし。最近ようやく、マイクロプラスチックの影響がヤバいと認識されてきた。
僕らはずっと言い続けてきたのに、今まで社会は全然無関心だった。タバコの吸い殻も、被害は何十年も残ったままになるのにね。それが今ようやく、みんな考えてくれるようになってきたよね。
――いつ頃から、海が汚れてきたと感じるようになりましたか?
(F)ベアフット運動は1981(昭和56)年に辻堂で始めているので、その頃にはもうひどかったね。
(S)81年の初開催のときからムッシュ(かまやつ・ひろし)さんとか、友人のミュージシャンを呼んで。で、裸足で砂浜に立って、安全に楽しく無料でコンサートを体験しようと呼びかけて。「君の汗と集めたゴミが入場料だよ」とね。それで行政が協力してくれてきちんとした形になったのが1990年で、そこから30周年を迎えるのね。
――そういう背景だったんですね。当時はそれだけ環境破壊が気になる状態でしたか?
(S)当時はゴミで砂浜を歩けるところがないくらいでしたよ! 76〜77年くらいは、ひどかったな。あの頃はサーファーが海に入るのに、砂浜を歩くたびに足を切ったりしたくらいでした。浜降祭もみんな裸足で神輿を担いで海に入るから、危なかったですよ。
ボブ・ディランとビートルズが音楽に目覚めたきっかけ
――そういえば、幸矢さんは、パシフィックホテルでアルバイトをしたことでホテルマンを目指すようになり渡米されたということですが、どこでミュージシャンになりたいという気持ちに傾いていったんですか?
(S)それはもう、ボブ・ディランですね。彼がニューヨークへ出てきて、フォークロアセンターという場所で寝泊まりするようになったの。
で、彼がそこを離れた後、1967年に僕が同じ部屋に3ヶ月ほど寝泊まりしてたんだけど、そのディランが毎晩寝ていたベッドで僕が寝ていたというのを、そこから出て行くときに聞かされたんだ。
それで、そうだったのかー! と衝撃を受けて。なにか運命的なものを感じて、そこからもう「ホテルマンになってもしょうがないや、俺は音楽の道に進もう」と決心しちゃった。
で、オヤジがいつも言っていた言葉があって。それが、「好きなように生きなさい」という言葉。だからもう、音楽しか見えなくなっちゃいましたよね。
――それはもう、座右の銘ですね。二弓さんは音楽を生業にしようとしたきっかけは、何だったんですか?
(F)いやー、何にも考えないで今になっちゃいましたよ(笑)。いつのまにかってやつですね。
(F)まあ、東京で暮らしていたし、兄の影響もあるでしょうしね。アメリカからいろんな手に入らないレコードをたくさん送ってくれたので。でも一番は、ビートルズでしょうね。あれを聞いたら、もうその気になっちゃった(笑)
――ビートルズを初めて知ったときの衝撃ってどんなものでした?
(F)きっかけは、映画館で『ビートルズがやってくる!ヤア!ヤア!ヤア!』だったんですよ。あれを観て、こんなカッコいいことやってみたい! と思ったんですね。武道館のライブも見ました。誰かに譲ってもらったり連れてってもらったんじゃなくて、自力で抽選で当てました(笑)
(F)前座で日本人の演奏もあったけど、当時はまだあんな風にプロになろうとも決心してなかったな。客席にも有名な人はいましたね。さっちゃん(幸矢さん)は、つきあいある人いたんじゃない? ACB(老舗の有名なライブハウス)に出入りしてたし。
(S)ああ、モップス(鈴木ヒロミツなどが在籍した人気GSグループ)とかはね。陽水(井上陽水)がモップスと仲良くて、僕は陽水と仲が良かったから。
――日本のポップス史の源流ですね。おふたりは50年やってこられたし、誰よりも交友関係が広いので、出会ったアーティストの方々との時系列やお互いのキャリアの長さ、年齢差などバラバラですよね。長年ご一緒することが多い、歌手の南佳孝(みなみ・よしたか)さんも、後から茅ヶ崎に越して来られたんですよね?
(S)そうですね。確か、活動休止中にカフェ・ブレッド&バター(地元の若者たちで手作りで建てたカフェとライブのショップ。以下、Cafe B&B)をやっているときに東京から近所に越してきて、たまたまカフェにやって来たお客さんだったんだよね。
(S)ユーミンは、アルファレコードに移籍してからだね。同じプロデューサーの村井邦彦(むらい・くにひこ)さんを介して。でも、ユーミンとは1972〜73年くらいの、彼女のデビュー直後あたりで一度、共演してるんだよね。渋谷のライブハウス「ジァンジァン」で。
(F)当時からすごい人気で、会場がぎゅうぎゅう詰めの満席だったからジァンジァンのスタッフらも驚いてたね。ユーミンに誰の客だろうねと話したら、「私の」とサラッと言ってた(笑)
Cafe B&Bは2〜3回しか来てないけど、彼女もサーフィンや湘南の感じが好きだったんで、作品に反映されたり逗子マリーナのライブを続けていたり、茅ヶ崎の影響は大きかったんじゃないかな。
取材を終えて
昭和ののどかな田園風景が浮かぶ思い出、環境破壊によるビーチクリーン活動、そしてたくさんの大物アーティストとの交流お宝話しなど。50年の歴史が生み出した、深く広いお話しの数々。それら日本の音楽史にも残る秘話を、世間話しのようにさらっと語られる。このナチュラルさが、長きに渡って愛されてきた所以なのだろう。
そして、自分たちが育った湘南の海が汚染されていくことに真剣に立ち向かい、未来の子どもたちのために取り組む姿勢に、アーティストである以前にひとりの人間であり、茅ヶ崎で生まれ育った住民である、という凛とした生き方に強く感銘した。
次回、1月17日更新の後編では、桑田佳祐さんとの仰天秘話が飛び出したり、50年間の音楽活動でのオフコースや細野晴臣(ほその・はるおみ)さんなどとの交流、そしてスティービー・ワンダーとの友情秘話、ビージーズやB.B.KINGなど海外レジェンドの前座などなど、驚きのエピソードを語っていただく。
デビュー50周年! 湘南育ちの兄弟デュオ「ブレッド&バター」って、どんな人たち?後編 2020年01月17日 ライター:山本航
加山雄三(かやま・ゆうぞう)、サザンオールスターズとともに湘南の名を全国区にしたブレッド&バター。前編では、おふたりの生い立ちからデビューまでの青春時代と、茅ヶ崎の海や街の変遷を辿った。
後編では、茅ヶ崎の土地柄が育んだデビュー後の多種多様な交流を振り返りながら、これからの茅ヶ崎への思いを語っていただく。
桑田佳祐が恋のキューピッド
――桑田佳祐(くわた・けいすけ)さんと知り合ったのはどんないきさつだったんですか?
幸矢さん(以下S)サザンがデビューするかしないかくらいの時期に鵠沼でライブがあって、僕がたまたま犬の散歩で通りかかったのね。で、僕もお世話になっていたアミューズ(芸能事務所)の大里さんが、新人がやるから誰か誘って遊びに来てくれって呼ばれたのが知ったきっかけ。
茅ヶ崎繋がりだしね。彼も確か、一中(茅ヶ崎市立第一中学校)でしょ? それで鎌倉学園だよね。学園に行っていた友達からも話しは聞いたことあるし。
(S)で、Cafe B&Bの2号店がGODDESS(つるの剛士さんの回にも登場した、湘南の草分け的サーフショップ)の店内にあって、そこから桑田くんがラジオ(ニッポン放送『オールナイト・ニッポン』)の中継を、同じアミューズだったウチのカミさん(MANNA、歌手)とやってたのね。
それで桑田くんと飲みに行ったのがつきあいはじめだね。桑田くんが、僕と彼女がお似合いだから結婚しちゃえば? と言ったのが、カミさんとの結婚のきっかけなんです。
――すごい逸話! 桑田さんがキューピットだなんて素敵ですね。オフコースとも深いエピソードがあると聞いたのですが。
(S)オフコースとはデビューが近いし、横浜と茅ヶ崎というのもあってね。それで僕らが一時期音楽活動を休止していたとき、小田和正(おだ・かずまさ)くんと鈴木康博(すずき・やすひろ)くんのライブが横浜で行われたので、楽屋に会いに行って。
それで、もう一度活動再開しようと思うんだけど、できるかなーと相談したの。そしたらふたりが「大丈夫だよ、君らならやれるよ」と言ってくれて、勇気づけられてまた始めた記憶があります。
二弓さん(以下F)休止する前は、辞めるとか休むとか考えなかったし。アルバムを6枚くらい作って、やりたいことはやりきったような気持ちだったんだよね。その時期にカフェを始めたから、そっちが楽しくなって、歌わなくてもいいかなって思ってた。ソロを作ろうかなとも思ってたけど、毎日飲んでて結局作らなかったね(笑)
――Cafe B&Bでの青春の日々は、連ドラと映画(連続テレビドラマ『サンシャインデイズ』、同名映画も2008〈平成20〉年に公開。舞台はそのまま「Cafe B&B」)のモデルにもなりましたね。そこから復帰後のアルファレコード時代の3枚は、今でも代表作ですよね。
(S)まさにね。あの3枚がなかったら、その後は続けていなかった。カフェはミュージシャンだけでなく、モデルの卵やサーファーなど多くの仲間たちと、一から手作りで仕上げて、マイペースで音楽活動を続けられたから。まあ、いろいろあったりもしたけど、そこでまたたくさんの交流があって、音楽シーンに戻る気持ちが芽生えたね。
オフコースに励まされたり、ユーミンがカフェでの日々を基に復帰作『あの頃のまま』を書いてくれたりして、「再デビューだ!」ってね。
海で育った環境が音楽となった
――今の若い世代でも、この時代の曲はたくさんカヴァーしてますよね。これだけ長いキャリアで続けていると、デビュー当時から音楽性がずいぶん変わったりいろんな冒険をすることが多いですが、ブレバタはデビューから一貫して茅ヶ崎の香りがする音楽を続けているイメージが確立されている印象です。そのあたりは意識されてきましたか?
(F)1979年頃のアルファでの3枚は、プロデューサーがかなり意識してました。むしろそれ以前はあまり考えてなかったよね。海が出てくる歌詞もそんなにないし。でも、周りはいつも僕らが歌うと海を感じるとは言ってましたね。
1969(昭和44)年のデビュー曲だって、設定は軽井沢だけどやっぱりリゾート地でしょ。だから曲を書いてくださった橋本淳(はしもと・あつし)さんと筒美京平(つつみ・きょうへい)さんも、そういう匂いを感じて書いたんでしょうね。
(S)デビューからずっと僕らはカテゴライズされてなくて。それでアルファで有賀さんというプロデューサーが初めて海というカテゴリーを打ち出したんだよね。それが僕らの看板となったんだよ。
――それが外部から押しつけられたという反発心ではなく、そもそも生まれ育った環境だったから受け入れやすかったんですね。
(S)そう。だからそういう育まれたバックボーンがしっかりあるのに、なんでそれをちゃんと表現しないんだ、と指導されたんだよ。
――なるほど。再始動した今はもう、茅ヶ崎をベースにマイペースにやっていくようなお気持ちですか?
(F)どうなんだろうね。歳も歳だしね。今さら急に忙しくなることもないしねー。
――Cafe B&Bをもう一度、何らかの形でやってほしいという声が上がっているようですが、どうですか?
(F)あれは時代が良かったよね。今やろうとすると、すごいお金がかかるよ。当時だって全部自分たちで資材を調達して組み立てたけど、もうそういうのは難しいでしょ。
(S)数年前に、銀座で1週間くらい限定でやったかな? ゲストとか呼んで。ああいう期間限定で、誰かが企画してくれればやれそうだよね。
和製サイモン&ガーファンクルと呼ばれたルーツ
――はっぴいえんどやYMOなどで知られる細野晴臣(ほその・はるおみ)さんとは、いつ出会ったんですか?
(S)アルファレコードに移る頃だったね。彼は復帰後にアレンジしてもらっただけじゃなく、実現しなかったけどいろんな構想でいっしょにやろうと思ってたんだよ。
僕らはノンジャンルで活動していたから、昔からいろんなミュージシャンと付き合いがあるんだよね。エイプリルフールの小坂忠(こさか・ちゅう)とかはフォークと接点がないけど、僕は『旅立ちの歌』で知られる、当時のフォークユニットを代表する「六文銭」に参加したので、フォークの人ともつきあいがあるしね。
それで、フォーク・クルセダーズの加藤和彦(かとう・かずひこ)くんとも繋がっていたり。彼は人一倍、音楽性も人脈も幅が広かったね。ロンドンでレコーディングしていたとき、道でバッタリ会ったんだけど、背が高くてオシャレな着こなしをしていて、すぐにわかった(笑)
そんなこんなで、ビリーバンバンから南佳孝(みなみ・よしたか)やムッシュまで、それぞれが交わらないようなとこが全部繋がっていたよね。
――六文銭のときはこの音楽をずっとやるとか、別の表現を模索したとかありましたか?
(S)あんまりそういう考えは持っていなかったけど、フォークの世界はメッセージ性を重要視するから、メロディやリズム的にもっとこういう音楽をやろうよと言っても、あまり興味を持ってくれなかったな。練習するのに、みんなで集まっても、楽器をケースから出さないで一日中いろんな議論をして終わったりとか、しょっちゅうだったよ。
(S)そういう人たちとも付き合ってたし、同じようにその後もスティービー・ワンダーとかニューヨークの連中とか海外のミュージシャンとも繋がって、海外の大物ミュージシャンの前座も経験できた。いろんな音楽の影響を受けて、いろいろな大物アーティストの前座ができたのも大きいよね。
――すごいラインナップですよね。ビージーズやフリーなど。どういういきさつなんですか?
(F)フリーは、ベーシストの山内テツさんとおつきあいがあったんで。ビージーズは、当時所属してた渡辺プロダクションのブッキングだったのと、同じレコード会社のポリドールだったから。
(S)B.B.キングともやってるんだよ。サンケイホールだったかな?
スティービー・ワンダーとのかけがえのない友情
――海外との交流で最も有名な、スティービー・ワンダーとのエピソードを改めて教えてください。
(S)1973(昭和48)年にロンドンでレコーディングしたときのプロデューサーが、スティービーのエンジニアだったんで、会わせてもらえました。
そこで自分たちがレコーディングをしている間に、彼がLA(ロスアンジェルス)へ帰ってしまったことを聞いて、後からお礼を兼ねてLAまで追いかけてスタジオ訪問したんです。そしたら、「今録っている曲を聴いて感想を聞かせてよ」と言われて、聴かせてくれたのがあの名曲『You Are The Sunshine of My Life』でした。
(S)で、毎日通いつめてタイミングを見計らって、曲を書いてとお願いしたら、いいよって。その後、活動再開の頃にスティービーから曲が届いて、ユーミン作詞、細野くんアレンジで復帰作として出す予定だったんだけど、「この曲が映画の主題歌に決まったから発売しないでくれ」と連絡が来て、急遽、発売中止になっちゃった。
それでユーミンが代わりに、『あの頃のまま』を作ってくれたの。
――ユーミン自身も、数ある提供曲の中で最も好きなのが、『あの頃のまま』とおっしゃってますね。
そしてそのスティービーがプレゼントしてくれた曲こそが、ジーン・ワイルダー監督・主演の1984(昭和59)年公開映画『ウーマン・イン・レッド』の主題歌『I Just Called To Say I Love You』ですね。全米1位になり、アカデミー賞を獲得した名曲。
(S)まあその後、無事に発売できたし、スタジオに行けたおかげでスティービーとスティーブン・スティルシュと3人でコーラスできたしね。
――すごい財産ですね。今まで見てきたアーティストで、スティービー・ワンダー以外で最も影響を受けたのは誰ですか?
(S)僕はサイモン&ガーファンクル(以下、S&G)かな。渡米して彼らのステージを生で観て感動して、それからあのボブ・ディランのくだりがあって、もう自分には音楽しかないと決心したきっかけだから。でも、アメリカでプロ活動が出来るとは思っていなかったから、帰国してS&Gのような音楽をやろうと決めたの。
――1969(昭和44)年のメジャーデビューが決まったとき、日本のS&Gと謳われていましたが、それも割と合点がいってたんですね。デビュー曲『傷だらけの軽井沢』も垢抜けたものではなく、ノスタルジックなタッチですよね。
(S)まあ、和製S&Gというのはプロデューサーらが決めたことだけどね。あのデビュー曲も、どちらかというとメロディラインがロシア民謡っぽいよね。
――二弓さんは、ビートルズに衝撃を受けてからはどんな影響を受けましたか?
(F)自分の中で強く残っているのは、トラフィックですね。兄と一緒にライブを観たんだけど、ステージ袖で観ることが出来て。いや、すごかったですね。それにスティーブン・ウインウッドは、何をやっても上手いねー! キーボードだけじゃなくて、ギターはエリック・クラプトンより上手いと思えるし、歌も白人離れしてるよね。
(S)今度、シカゴのドキュメンタリー映画をやるよね。あれ、楽しみなんだよね。
(F)エルトン・ジョンの『ロケットマン』も良かったけど、エイミー・ワインハウスのドキュメンタリーがすごい良かったね。ドキュメンタリーだから、作りものじゃなくてなおさらよかった。こないだ、テレビでウッドストックのドキュメンタリーもやってたけど、すごい時代だったよね。
――ウッドストックは今年、おふたりと同じ50周年なんですよね。あれだけいろんなジャンルやスタイルのミュージシャンがひとつのイベントに集まるなんて有り得ないですもんね。
(F)有料だったのが、オーディエンスが殺到しすぎてフリーライブになっちゃったんだよね。すごいよねー。日本の音楽界は、ジャンルが違うと交流が少ないよね。日本はロックフェスも偏ってるから、みんながみんな楽しめないよね。
――そういう意味では、茅ヶ崎とか湘南界隈って、いろんな音楽や文化が混在してて、老若男女や家族で楽しんでますよね。
(F)ホントにそう! ロックもサーフミュージックもレゲエもDJも何でもありで、誰もがそれを楽しんでるよね。だからキマグレンやSuchmos(サチモス)みたいな、若いけど80年代のようなテイストの音楽も生まれるんだよね。
――では最後に、はまれぽ読者に一言お願いします。
(S)自分は海のそばで育って、庭が海のようなものだったから一年の半分以上を海で過ごしていたので、あの頃のブラックサンドビーチでゴミのないきれいな海をとても強く覚えてます。だから、茅ヶ崎があの頃のきれいな海に戻ってくれればいいなと思っています。
これからもみなさん、海をきれいにしないと、という気持ちをなくさないでもらえると嬉しいです。
(F)地元出身歌手の宮手くん(TEMIYAN)が最近、森戸におせっかい食堂というお店を作って、料理人をやってるんですよ。ほかにも逗子のSurfers(サーファーズ)とか、友人が鵠沼にお店を作ったんで僕もそこで内装を手伝ったりとか、湘南のあちこちでそういう横の繋がりが広がってきたんで、そこからいろいろ何か新しいものが生まれてきたらいいなと思っています。
――50周年なのに、おふたりとも全くご自分たちの活動のPRがないんですね(笑)
(F)ほんとだね(笑)
(S)あはは、いいんじゃない(笑)
取材を終えて
今までの音楽活動や奏でてきた音楽のように、終始、肩の力を抜いてリラックスした和やかなインタビューとなった。
半世紀以上共に生きてきた兄弟ならでの阿吽の呼吸による掛け合いが、通常のインタビューとは異なる楽しい取材で、まるで海にいるかのような穏やかな時間だった。
次から次へと出てくる、日本を代表する超大物アーティストの名前と逸話! さらには海外レジェンドとの交流。
そんな話しもサラッと流してしまう、自然体の姿こそが、彼らの魅力なのだろう。名だたるアーティストやディレクターの方々も、そんな人間性に惚れ込んだのだと思う。
数年間のソロ活動を経て、50周年イヤーを駆け抜ける。まだまだ今後もマイペースにライブの予定が決まっているので、ぜひゆったりと波音に耳を澄ませるように、彼らの音に触れに出かけてみては。
*https://hamarepo.com/top.php?page_no=1
*https://hamarepo.com/story.php?page_no=2&story_id=7443 より