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いいもの見ぃ~つけた!

「いいもの」は探せばいっぱいあります。独断と偏見による個人的「いいもの」情報発信所です。

< 郷土料理 > 岩手 そばかっけ

2024-01-11 08:19:11 | 郷土料理

 「そばかっけ」

 主な伝承地域 県北地域

 主な使用食材 そば粉、小麦粉、くるみ、しょうゆ、みりん

 歴史・由来・関連行事
 岩手県北部は東からの冷風である「やませ」の影響もあり寒さが厳しく、かつては水田が少なく米が貴重だった。それを補うため古くから小麦、そば、雑穀などの生産が盛んであり、それらを粉にしたものを使う文化が発達した。「そばかっけ」は南部藩がこの地を治めていた時代から伝承される料理である。
 そば粉をこねて平らに伸ばしたものを小さく三角形に切り、それをだいこんや豆腐などと一緒に煮て、にんにく味噌をつけて食べる。来客など特別な日の、体の温まるもてなし料理として親しまれてきた。かつては「かっけ」と言えばそば粉で作る黒い「そばかっけ」だったが、近年では小麦粉で作る白い「麦かっけ」のつるりとした食感も好まれている。
 「かっけ」の由来は、そばを打つ際にできる切れ端=「かけら」のことであるとか、この地方の方言である「さぁ食べてください」と言う意味の「かぁ、けぇ」からであるとも伝えられている。

 食習の機会や時季
 来客など特別な日の、体の温まるもてなし料理として家庭で作られ、親しまれてきた。

 飲食方法
 そば粉を切りそばよりやわらかめにこね、薄くのばしたものを三角形に切る。だいこん、豆腐、しいたけを入れただしにかっけを入れて軽くゆで、にんにく味噌をつけて食す。卓上コンロでゆでながらしゃぶしゃぶのように食しても良い。くるみ味噌をつけることもある。近年は揚げて塩コショウをしておつまみにしたり、焼いてピザにしたりするなど新たなアレンジの研究がされている。

 保存・継承の取組(伝承者の概要、保存会、SNSの活用、商品化等現代的な取組等について)
 家庭で作られるほかに、地元の製麺会社が生かっけや干しかっけを製造しており、気軽に買って食すことができる。また飲食店で食すこともできる。九戸村では新そばの季節に「そばかっけ」を食すイベントが開催されたり、商工会により新たなアレンジメニューの開発がされたりしており、広い年代に「そばかっけ」を広める活動をしている。岩手県は郷土料理を伝承する人や団体を「岩手県食の匠」として認定しており、「そばかっけ」についても「岩手県食の匠」がいる。

*https://www.maff.go.jp/j/keikaku/syokubunka/k_ryouri/search_menu/menu/28_16_iwate.html より

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<おせち> 福島 豆数の子

2024-01-11 08:11:08 | おせち

 「豆数の子」

 枝豆と数の子を漬けたもの。

*https://www.kibun.co.jp/knowledge/shogatsu/database/2010local/index.html より

 主な伝承地域 郡山市、いわき市、福島市

 主な使用食材 ひやし豆、数の子

 歴史・由来・関連行事
 福島県では大豆が多く生産されており、「おおすず」や「ふくいぶき」「里のほほえみ」など多様な品種が栽培されている。生産された大豆は納豆や豆腐、味噌、醤油などの加工品はもちろんのこと、郷土料理にも使われている。
 大豆を使った郷土料理の一つとして、大豆の一種「ひやし豆」を、醤油漬けにした数の子と合わせて作る「豆数の子」がある。ひやし豆は青大豆の一種で、ほかの大豆に比べて平たく、黄色みを帯びているのが特徴。ひやし豆と数の子の食感が心地よい、行事食となっている。
 ちなみに一部の地域では青大豆をだしで煮る「浸し豆」を「ひやし豆」と呼ぶこともあるが、豆数の子とは別の料理を指す。

 食習の機会や時季
 豆数の子は基本的に、正月に供される郷土料理として親しまれ、福島県内で作られるおせちに含まれている。ひやし豆自体は、もともと一部の地域で保存のきく食材、気軽に食べられるおやつとして親しまれていた。

 飲食方法
 ひやし豆と数の子はそれぞれ別々に調理する。ひやし豆はひと晩水に浸しておき、その後茹でる。数の子は薄い塩水に数日浸してから酒と醤油に漬けておく。食べる際にこの二つを和えて完成。

 保存・継承の取組(伝承者の概要、保存会、SNSの活用、商品化等現代的な取組等について)
 正月の時期に各家庭で作られているほか、近年は商品化もされており、気軽に購入して食べることができる。また、県内の飲食店で郷土料理の一つとして提供されたり、小中学校の給食として振る舞われたりするなど、地域で保存・継承の取り組みが行われている。

*https://www.maff.go.jp/j/keikaku/syokubunka/k_ryouri/search_menu/menu/30_13_fukushima.html より

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うまいッ! NHK「香りよし!清流が育むアユ~岐阜 郡上市~」

2024-01-11 08:02:29 | うまいッ!NHK

 うまいッ!「香りよし!清流が育むアユ~岐阜 郡上市~」 2012年07月08日

 番組内容 
 アユは別名「香魚」とも呼ばれ、「キュウリ」のような“香り”が高いほど絶品とされる魚。中でも岐阜県郡上市、和良川のアユは、日本一のアユを競うコンテストで2度グランプリに選ばれたほど。番組では春香クリスティーンが和良川を訪ね、アユのうまみと密接な関係がある「藻」の秘密に迫る。さらに各地に残るさまざまなアユの漁法やふるさとの川でアユを増やそうという試みを紹介。日本人と深い関わりがあるアユの魅力を伝える。

*https://www.nhk.or.jp/archives/chronicle/detail/?crnid=A201207080615001302100 より

 詳細不明につき、勝手に調べてみました。

 鮎の中でも一級品!
 清流・和良川と地層が育む和良鮎
 初夏から夏の季節を代表する食材として、古来より知られる食材・鮎。きれいな水を好む鮎は、その美しさから「清流の女王」と呼ばれています。ここ郡上市・和良には、貴重な高級食材として有名な「和良鮎」があります。その最大の魅力は「香り」。涼しげな西瓜のような芳香は、夏の河原一帯を満たしてしまうほどと言われています。ここでは、日本一おいしい鮎が住む川を決定する「清流めぐり利き鮎大会」で史上初!4度のグランプリに輝いている和良鮎のおいしさの秘密に迫ります。

 清らかな水が流れる、和良川の豊かな生命力
 平成20年(2008年)に「平成の名水百選」(環境省)に選ばれた清流・和良川。天然記念物に指定されている、オオサンショウウオが多く生息している川としても有名です。この川で育つ鮎が特別おいしい理由はずばり!鮎の食べる藻類が最良であることにあります。つまり、藻類を育てる水、そして水を作りだす地形がよいということ。これこそ、生き物たちが住みやすい理由なのです。

 ミネラルたっぷり! 海洋由来の土地と
 豊かな自然が育む「生きた水」
 岐阜県は海のない県ですが、この和良町は海洋由来の地質です。さかのぼること数億年前、この付近一帯は熱帯の浅い海底でした。日本列島が作られるとき、海洋プレートは海底にあったサンゴ礁や石灰岩を少しずつ堆積させながら年間数センチほどの速さで移動し、海溝部で大陸の下へと沈み込んでいきました。その時、堆積されたものは一緒に沈み込むことができずに大陸側へ押し出され、長い年月をかけて陸地を形成していったのです。実際にこの和良町の地層には、海底火山島の上にできたサンゴ礁、フズリナ、石灰藻などの化石が数多く産出することが知られています。石灰岩帯である和良では、弱酸性の雨が石灰岩を溶かして形成された鍾乳洞が数多く存在。こうして炭酸カルシウムをはじめ、多くのミネラルを含んだ水が生み出されるのです。一方、山では朽ちた木々から溶け出る鉄分を含んだ湧き水が、複雑な流れによって揉まれるうちに酸素を取り込んでいく…。和良ならではの自然の条件が揃って初めて、ミネラルたっぷりの「生きた水」・和良川が生まれ、良質な藻類を育てるのです。この藻を食べて、和良鮎は育ちます。

 時を超えて人々を魅了し続けてきた、ブランド鮎「和良鮎」

 【明治】鮎釣りのはじまり
 この地で鮎釣りが盛んになった歴史は、はるか昔、明治時代までさかのぼります。明治40年代から大正初期にかけて、東京では夏の食材として鮎が珍重され始めました。東京へ出荷するため静岡周辺で鮎の友釣りが行われていましたが、更なる良質な鮎を求めて他県の川へ遠征する出稼ぎ漁師が現れ、和良で鮎釣りを始めたと言われています。つまり、現在の鮎の漁法を岐阜県内に持ち込み、根付かせたのは明治時代の漁師たちと言えるでしょう。そして、単なる出稼ぎではなく、この地に移り住んで生業とする人もいるほど、和良川は職漁師を魅了したのです。

 【昭和】川から消えた鮎 そして復活・衰退
 鮎は秋に下流域で孵化し幼魚期間を海で過ごし、春に遡上し一生の大半を川で生活する魚です。大正から昭和の初期、高度経済成長期に作れたダムによって海と川を繋ぐ道を閉ざされ、川から鮎の姿が消えました。そして昭和6年、旧和良村では村内有志が琵琶湖から1000匹の稚魚を買い付け、和良川へ放流したと記録(和良村史・近代百年)されています。当時、交通機関は発達しておらず手渡しでしか運ぶしか手段はありませんでした。酸素もなかったため、水桶に入れた鮎が酸欠しないよう水を柄杓でゆっくりと掻き混ぜ、時には沢の水を汲んで鮎に息をさせ、はるばる滋賀県の琵琶湖から険しく急な峠道を越え、和良川まで届けたのです。 鮎にかけた時間・労力は現在ではとても考えられないほど過酷であったに違いありません。それほどに意味を持つ魚だったとも言えます。そして3年後の昭和9年(1934年)、和良川漁業組合が設立され、初めて計画放流が実施されました。

 昭和20、30年代には、捕れた鮎のほとんどが和良川漁業組合集荷所へ集められ、東京市場にも出荷。盛んな時期には養蚕に次ぐ農家の大きな収入源となっていたこともありました。しかし、時代の移り変わりと共に鮎を釣り生業とする人はいなくなり、鮎釣りはレジャーとしての位置づけに変わっていったのです。

 【平成】ふるさとの宝・和良鮎ブランド誕生
 和良鮎に転機が訪れるのは、平成14年(2002年)の夏のことでした。全国の河川を釣り歩く鮎釣りの名手が和良川を訪れたのです。日本各地の鮎を食べ尽くしていた名人が「和良の鮎は別格だ」と言い、品評会への出品を薦め、その年に出品した鮎が平成14年(2002年)の「清流めぐり利き鮎会」においてグランプリに選ばれたのです!和良鮎こそ「ふるさとの宝」として守るべきもの…と再認したきっかけになりました。そして、平成27年(2015年)には「和良鮎」が地域団体商標に登録されています。

 「清流めぐり利き鮎会」って何?
 高知県友釣連盟が主催する「清流めぐり利き鮎会」では、全国の味自慢の鮎を河川ごとに出品。この会では、同じ条件で鮎が塩焼きにされ、約300人の一般審査員、料理研究家やワインソムリエなど食の専門家による食べ比べが行われ、グランプリを決定します。令和元年(2019年)に開催された第22回では63河川が参加。そして、和良川が前人未到の4回目となるグランプリを獲得しました!この大会で4度のグランプリに輝いた河川は過去になく、どのブランド鮎も成し得なかった快挙です。

 鮎の香りに包まれ、明るい茶褐色へ変貌を遂げる、夏の和良川
 鮎たちが川底の石に着いた藻類を食み始めると、川全体が明るい茶褐色に変わり、川原一帯が鮎の芳香に包まれる…。それが和良の夏の風物詩。鮎の焼き上がる芳香と金色の美しい姿、口の中に入れた時に広がるハラワタの旨みは、この和良の大自然が造り出した宝であり、奇跡なのです。

 捕れた場所・時期によって旨味が異なる、奥深い味わい
 和良鮎の商標の文字はこの美しい鮎を象ったもの。和良鮎の最大の魅力は、別名「香魚」と呼ばれているのでもわかるように「香り」です。良質な藻類をいっぱいに詰め込んだその「腹ワタ」は、食べた瞬間に、清涼感のある芳香が口の中いっぱいに広がります。ほろ苦さの中に甘さと旨味があり、この絶妙な風味が人々を魅了してやみません。藻によって風味が変わり、同じ和良鮎でも和良川の上流、源流に近い場所で捕れたものは風味が違います。また、時期によっても味わい方が異なるのも大きな魅力。解禁直後の6月は骨がやわらかく頭まで丸ごと食べられ、8月になると身が引き締まる一番おいしい時期に、そして秋には「落ち鮎」と呼ばれ、夏の鮎とはまた異なる味わいを楽しめます。落ち鮎とは、秋の産卵期に川を下ってきた鮎のことを言います。身の締まりや甘みに成熟した味が加わり、その短い一生分の旨味が凝縮されているように思えます。ぜひ食べ比べて、違いを確かめてください。

 捕れた場所・時期によって旨味が異なる、奥深い味わい
 お値打ちにブランド鮎を味わえる!
 和良鮎まつりを開催
 毎年、道の駅和良で「和良鮎まつり」を開催しています。焼き方にこだわった数量限定の塩焼き、鮎ごはん、鮎雑炊など、日本一おいしい鮎に輝いた和良鮎を味わうことができます。なお、ブランド鮎「和良鮎」をお値打ちに食べられるイベントはここだけなので、ぜひお出かけください。開催日はHP( http://gujo-wara.jp/)にて確認を。

*https://tabitabigujo.com/appeal/waraayu-sweetfish/ より

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<伝統野菜> 愛媛 紫 長大葉たかな -追記あり-

2024-01-11 07:49:05 | 伝統野菜

 「紫 長大葉たかな」

 いくつかの「愛媛の伝統野菜」として紹介されていますが・・・

 詳細不明です。

 「紫長大葉高菜-むらさきながおおばたかな」

 【生産地】

 【特徴】

 【食味】

 【料理】

 【来歴】愛媛県固有の伝統野菜にも関わらず、県内での知名度は他の品目ほど高くない。

 また、文献や資料はほとんどない。しかし、栽培農家の間では、「まんば」とも呼ばれ、根強い人気がある。由来は戦後に九州方面や山口県などから導入された品種を地元で選抜・改良したものとされる。

 【時期】11月下旬~3月下旬

*https://tradveggie.or.jp/%e6%97%a5%e6%9c%ac%e3%81%ae%e4%bc%9d%e7%b5%b1%e9%87%8e%e8%8f%9c%ef%bc%8d38-%e6%84%9b%e5%aa%9b%e7%9c%8c/#i-15 より

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<異名-人物> 残酷王

2024-01-11 07:35:37 | 異名

 「残酷王 ペドロ1世」

 (1334〜1369)

 カスティーリャ王。多くの王族や貴族を処刑したので残酷王と言われることになるが、後に正義の為に残酷なことをしたと評価があり「正義王」とも呼ばれることになる。

*https://www.chickennoneta.com/entry/%E7%95%B0%E5%90%8D%E3%81%A8%E8%8B%B1%E9%9B%84#%E6%AE%8B%E9%85%B7%E7%8E%8B%E3%83%9A%E3%83%89%E3%83%AD%EF%BC%91%E4%B8%96 より

 ペドロ1世(Pedro I, 1334年8月30日 - 1369年3月23日)は、カスティーリャ王国の国王(在位:1350年 - 1366年、1367年 - 1369年)。そのふるまいから残酷王(Pedro el Cruel)または正義王(Pedro el Justiciero、古い綴りではPedro el Iusteçero)ともいわれる。名前もあだ名も同じで混同されやすいが、同じく「正義王」「残酷王」と呼ばれるポルトガル王ペドロ1世は叔父にあたる。

*Wikipedia より

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<料理用語-和食> 辛子揚げ

2024-01-11 07:32:20 | 料理用語

 「辛子揚げ」

 ・卵黄に溶き芥子を混ぜ込んで衣を作る

 ・淡白な材料(白身魚、えび、いか等)に粉を打つ

 ・からし衣につけて揚げる

*https://temaeitamae.jp/top/t2/kj/5_F/022.html より

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<慣用句・諺> 千慮の一得 など

2024-01-11 07:29:37 | 慣用句・諺

 「千慮の一得」

 愚かな者でも、多くの考えの中には一つぐらいよい考えがあるということ。愚者も千慮に一得あり。

 

 「先を越す」

 相手よりさきに物事を行う。さきんじる。

 

 「選を殊にする-せんをことにする」

 別の部類に属する。

 

 「先を取る」

 先手を打つ。機先を制する。

 

 「枘鑿相容れず-ぜいさくあいいれず」

 二つの物事が、互いに食い違っていて合わないことのたとえ。

 「枘鑿」-ほぞと、ほぞを受ける円い穴。

 

*goo辞書 より

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<難読漢字-魚へん> 鮃

2024-01-11 07:25:35 | 難読漢字

 「鮃 ひらめ」

 ヒラメ(鮃、英名:Bastard halibut、学名:Paralichthys olivaceus)は、カレイ目カレイ亜目ヒラメ科に属する魚の一種。広義には、ヒラメ科とダルマガレイ科に属する魚の総称である。有眼側(目のある方)が体の左側で、日本では「左ヒラメに右カレイ」といってカレイ類と区別する。また口と歯が大きいのが特徴で、ヒラメ類のことを英語ではLarge-tooth flounders という。

 ヒラメという名が現れたのは14世紀ごろだが、日本では19世紀以前にはカレイとヒラメは区別されておらず、大きいものをヒラメ、小さいものをカレイと呼んでいた。はっきりと別種として扱った文献は小野蘭山の『本草綱目啓蒙』(1803年)が初出である。

 地方名
 日本での別名は地方によって異なり、カレ、オオグチガレ、ソゲ(ゾゲ)、オオクチ、テックイ、ハス、オオガレイ、メビキ、ホンガレイなど。北海道では「てっくい」、東京湾では1kg以下の物を「そげ」と呼んでいる。青森県、茨城県、鳥取県の県の魚に指定されている。

*Wikipedia より

 ヒラメは、カレイ目ヒラメ科に属する魚。広義には、ヒラメ科とダルマガレイ科に属する魚の総称。眼が体の左側であり、日本では「左ヒラメの右カレイ」といってカレイ類と区別する。

 「ヒラメ」の名前は、体が平たいことに由来する。昔、漢字表記は「平目」と書いていたが、やがて魚へんに「平」の「鮃」と書くようになった。「鮃」の漢字も名前と同様に「平べったい魚」という意味。他にも、眼の位置に着目して、「眼の側ひら」→「ひらめ」となったという説もある。

*https://zatsuneta.com/archives/001833.html より

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<日本酒メーカー> 北海道 高砂酒造

2024-01-11 07:16:18 | 日本酒

 「高砂酒造」

 高砂酒造株式会社(たかさごしゅぞう)は、北海道旭川市にある酒造会社。日本酒が主力で、甘酒も生産している。日本清酒の関連会社。

 概要
 辛口清酒「国士無双」と創業以来の伝統と醸造技術を結集した「旭神威」などの銘酒があり、北海道内の酒造メーカーの中では屈指の特定名称酒比率になっている。忠別川流域の地下水を使用し、北海道産米の醸造に力を注いでいる。

 沿革
 1899年(明治32年)創業の「小檜山酒造店」が前身であり、小檜山鐵三郎が知り合いの酒造場から酒造道具一式を譲り受けて醸造業に着手したことに始まっている。1909年(明治42年)には酒蔵(現在の明治酒蔵)を建造。1926年(大正15年)に『全国新酒品評会』において北海道内初となる金賞を受賞し、1929年(昭和4年)には当時としては珍しい鉄筋コンクリート構造の酒造工場が竣工し、1935年(昭和10年)に壜詰工場を増設した。太平洋戦争が勃発すると戦時統制となる「企業整備令」によって「旭川酒類工業」第2工場として再編を余儀なくされたが、1949年(昭和24年)に旭川酒類工業から分離して再開した。1953年(昭和28年)に法人成りして株式会社となり、1965年(昭和40年)に石崎酒造と合併して社名を「高砂酒造」と改称した。1975年(昭和50年)発売の「国士無双」は全国的なヒット商品になり、広くその名が知れ渡ることになった。1990年(平成2年)には雪氷室(アイスドーム)搾りの大吟醸「一夜雫」を発売した(2016年最終販売)。1997年(平成9年)からは雪の中にタンクを埋めて封じ込め、100日間低温熟成させる雪中貯蔵を始めている。

 2002年(平成14年)、傘下のゴルフ場(旭川メモリアルカントリークラブ)倒産による多額の焦げ付きが会社を経営難に追い込み、2004年(平成16年)に「民事再生法」適用を申請した。2005年(平成17年)に日本清酒の子会社となった。

*Wikipedia より

 高砂酒造株式会社 北海道旭川市宮下通17丁目

 代表銘柄

大吟醸酒 国士無双

40%まで高精米して醸すこの酒は、「国士無双」の中でも最も贅沢な造り。長期低温発酵により豊かな米の旨みを引き出し、芳醇な吟醸香と旨味がありながら口当たりまろやかで、キレの良い後味の淡麗辛口酒です。
使用米/北海道産米 彗星 40%精米
日本酒度/+4 酸度/1.2
アルコール度数/15度

純米大吟醸酒 氷温貯蔵 旭神威

搾った生酒をそのまま氷温貯蔵し、出荷の際に一度だけ火入れをした氷温貯蔵酒。氷温で貯蔵することにより、フレッシュで爽やかな味わいを保ちつつゆっくりと熟成し、柔らかく旨みを増しています。

芳醇な香りと繊細でコクのある味わい、滑らかで柔らかな旨味のある飲み口が特徴です。

使用米/兵庫県産 山田錦 35%精米
日本酒度/±0 酸度/1.3
アルコール度数/16度

純米吟醸酒 大雪

北海道産米を45%まで精米し、丁寧に醸した北海道のお酒。優しく甘い芳香と、飲み口すっきりシャープな淡麗辛口酒です。
使用米/北海道産米 45%精米
日本酒度/+3 酸度/1.4
アルコール度数/15度

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<大阪-観光> 史跡新池ハニワ工場公園

2024-01-11 07:11:14 | 観光

 「史跡新池ハニワ工場公園」

 史跡新池ハニワ工場公園(しせきしんいけハニワこうばこうえん)は、大阪府高槻市にある史跡公園。新池埴輪製作遺跡(国の史跡「今城塚古墳 附 新池埴輪製作遺跡」の一部)を保存する公園である。

 概要
 新池埴輪製作遺跡は、5 - 6世紀の遺跡で、埴輪窯18基と工房、工人集落からなる全国最大級の埴輪工場跡である。一帯は『日本書紀』欽明天皇23年条にある「摂津国三嶋郡植廬(ハニイホ)新羅人之先祖也」と考えられている。今城塚古墳(高槻市郡家新町、6世紀前半)の埴輪は当工場で造られた。

 遺跡域では1988年(昭和63年)から調査がはじまり、1994年(平成6年)に「ハニワ工場公園」として整備された。1991年(平成3年)7月20日、遺跡域が既指定の国の史跡「今城塚古墳」に追加指定され、史跡指定名称が「今城塚古墳 附 新池埴輪製作遺跡」に変更。

 ハニワ工場の略年
 450年頃、太田茶臼山古墳の造営を目的として工場が開かれた。窯3基(A群)と工房3棟、住居7棟の規模。
 480年頃、窯5基(B群)と住居7棟を追加。番山古墳などのハニワを生産。
 530年頃、窯10基(C群)を追加。5棟の工房(住居兼用)、住居14棟。今城塚古墳向けのハニワを生産。
 550年頃、ハニワ生産を終える。

 施設

 プロムナード-動物、円筒、家形、武人埴輪などの複製品を20種類、21体設置。本物と同寸法。磁器製。素焼きの質感を模しており自由に触れる。
 ヨシトミヤスオの漫画による説明パネルを展示(陶板製)。
 工房2棟-3棟の内2棟を復元。竪穴建物で、母屋にあたる部分は茅葺き、周縁の下屋部分は杉皮葺きで復元されている。
 ハニワ窯跡2基-大小あわせて18の窯の内、2基を復元。また、1基を発掘中の状態で再現。
 ハニワ工場館-新池遺跡最大級の18号窯(530年頃)を覆屋で保護し、出土した埴輪3点も展示。

*Wikipedia より

 この公園は古代のハニワ工場だった新池遺跡をそのまま公園にしてしまったという、ハニワ工場公園なのだ。新池遺跡は、継体大王の墓といわれる今城塚古墳のハニワが作られていた日本で最古・最大級のハニワ工場跡で、今からおよそ1500年前、ハニワを焼く窯18基と工房(作業場)3棟、それにハニワ工人(職人)の住居まで整っていたという大規模なもの。そんな遺跡を保存し、整備公開しているこの公園には、ハニワ工房や450年頃に使われていたハニワ窯が復元されているだけではなく、発掘された窯がそのまま展示されているハニワ工場館もあって、無料とは思えないほどの充実ぶり。

*https://osaka-info.jp/spot/shinike-historic-haniwa-koba-park/ より

 史跡新池ハニワ工場公園 大阪府高槻市上土室1丁目

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