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いいもの見ぃ~つけた!

「いいもの」は探せばいっぱいあります。独断と偏見による個人的「いいもの」情報発信所です。

< 郷土料理 > 岩手 うす焼き

2024-01-17 08:42:15 | 郷土料理

 「うす焼き」

 主な伝承地域 盛岡市

 主な使用食材 小麦粉、紅しょうが、ねぎ、桜えび、海苔、ねぎ、天かす

 歴史・由来・関連行事
 小麦粉を水で溶いたものを薄くのばし、ねぎ、紅しょうが、桜えび、天かす、海苔などを乗せて焼いたものに、最後に表面にしょうゆを塗る。くるくると巻いて提供されることもある。もちもちとした食感で、桜えびの風味と紅生姜のアクセントが効いている。八幡宮のお祭りや初詣の際に屋台で販売され、特に佐々木のうす焼きが有名。八幡通りでは複数の屋台があり、テンポよく焼く姿も含め、お祭りでの風物詩となっている。それ以外で常時販売している店舗は少なく、市内の狭い範囲で親しまれていため、県内でも盛岡市以外ではあまり知られていない。

 食習の機会や時季
 八幡宮のお祭りや、初詣の際に屋台で販売される。お祭りのときの風物詩として愛されている。

 飲食方法
 小麦粉を水で溶いたものを丸く薄くのばし、ねぎ、紅ショウガ、桜えび、天かす、海苔などを乗せて焼く。表面にしょうゆを塗る。通常は業務用の鉄板で作るが、家で作る場合はフライパンやホットプレートでもよい。

 保存・継承の取組(伝承者の概要、保存会、SNSの活用、商品化等現代的な取組等について)
 現在は限られた店舗と、盛岡市内のお祭りの屋台で販売されている。子供から、お年寄りまで幅広い年代に人気。

*https://www.maff.go.jp/j/keikaku/syokubunka/k_ryouri/search_menu/menu/28_22_iwate.html より

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<おせち> 新潟 ニシンこうじ漬

2024-01-17 08:36:32 | おせち

 「ニシンこうじ漬-身欠きにしんの糀漬け」

 主な伝承地域 下越地方、阿賀町津川中心

 主な使用食材 ニシン、大根、白菜、人参、甘酒

 歴史・由来・関連行事
 北前船が運んだ物の中でも、大きな位置を占めたのが北海道のニシン。ニシンは、生の状態では日持ちしないため、冷蔵技術が発達していない時代には、内臓や頭を取り除いて乾燥させたり、肥料、魚油(ぎょゆ)などに加工され、北前船で各地に運ばれた。中でもニシンを乾燥させた「身欠きニシン」は、海がない内陸や山間地域の貴重なたんぱく源として重宝された。一般的に魚の干物は焼いて食されるが、身欠きニシンは米の研ぎ汁や米ぬかを溶いた水に漬けてもどしてから調理する。新潟県では、古くから身欠きにしんを使う料理も多く、「身欠きにしんの糀漬け」もそのひとつ。甘酒の甘みと塩が程良く絡み合って、独特の風味が美味しい一品。その他、身欠きニシンはぜんまいと一緒に煮物にしたり、酢の物に入れたり、山椒漬けなどにしても食べられる。

 食習の機会や時季
 お正月に食べる贅沢な料理だった。かるく炙って食べてもおいしく、酒の肴としても楽しんだ。

 飲食方法
 身欠きニシンは、ぬるま湯で洗い、米のとぎ汁や米ぬかを水で溶いたものにつけてもどす。切った野菜とニシンに塩をして下漬けしたら、出てきた水をしぼり、甘酒を混ぜ合わせる。多くの発酵食品に使われている糀には、でんぷんやタンパク質を分解する酵素があり、糀入れることで甘味が出る。また、生臭さが落ちて、ニシン本来の風味が引き立つ。

 保存・継承の取組(伝承者の概要、保存会、SNSの活用、商品化等現代的な取組等について)
 「身欠きニシン」や「ニシンの糀漬け」は、鮮魚店や漬物店で販売している。スーパーマーケットでも取り扱っている店舗もあり、ネット通販でも手に入れることができる。津川地区には製造販売する糀屋もあり、ネット通販で購入できるものもある。

*https://www.maff.go.jp/j/keikaku/syokubunka/k_ryouri/search_menu/menu/migaki_nishin_no_kouji_zuke_niigata.html より

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<伝統野菜> 高知 十市(なす) -追記あり-

2024-01-17 08:22:23 | 伝統野菜

 「十市-とおち(なす)」

 果実丸形、加温促成、小なす、果実の艶をよくするため開張性の仕立てとし、摘葉を十分に行う。栽培面積10.6ha(野菜の地方品種より)
 【見た目】
 収穫される若い果実は卵形で愛らしく、光沢が強く濃い黒紫色の果皮とヘタ下の白い果皮のコントラストが大きな魅力である
 【食味】
 25~30gの一口サイズで収穫され、天ぷらや煮物に適する。最近では漬物加工用としての需要も伸びている
 【由来】
 昭和10年に南国市十市の山本浅吉氏によって加温促成栽培用品種として育成された。品種の維持は主に自家採種によって行われ、各生産者あるいは生産者グループの中で優良個体が親株として選抜されて種子が採種されている
 【調理法・加工品等】
 主に煮物や揚げ物で食されている
 【生産の見通し】
 現状維持  

*http://g-foods.info/zukan/product/product_828.html より

 「十市(とおち):高知県の小なす」

 ◆十市なすとは
 京阪神の市場で「小なす」と言えば高知県産のものが主流となっていますが、この高知県で作られている卵型の小なすは十市(とおち)なすという品種が主に使われています。この十市(とおち)なすは形や色艶がよく、京都の料亭などでもよく使われています。

 ◆十市なすの来歴
 十市なすは南国市十市地区で作られてきたナスで、1935年頃に高知市初月地区の在来種「初月なす」と果皮の色が濃い「真黒(しんぐろ)なす」とが自然交雑して生まれたと考えられています。

 ◆十市なすの特徴
 十市なすは小なすに適した品種とされ、20~30gで収穫されます。果実は短卵形で揃いがよく、果皮は黒紫色で光沢があります。

 果肉はぎゅっと締まっていて硬く、皮もしっかりとしているので輸送性に優れているのも現在でも広く栽培されている理由の一つです。

 果肉がしっかりとしているので、煮るなどの加熱調理でも煮崩れしにくく、皮の色が濃く、漬物にした時の色も綺麗に仕上がります。

 ◆小なすの収穫時期と旬
 十市なすは露地物が初夏から秋口に収穫されますが、冬から春にかけてもハウスによる促成栽培物が収穫され、周年市場に出荷されています。

 収穫の盛期であり、季節的にも美味しい旬の時期は6~7月です。

*https://foodslink.jp/syokuzaihyakka/syun/vegitable/nasu-tochi.htm より

 「十市なす(とおちなす)」

 【生産地】南国市十市、四万十市、津野町、梼原町

 【特徴】一口サイズで収穫される小茄子(こなす)の仲間。果実の大きさは25~30gで小さく締まって硬く、卵型。果皮は、光沢が強い濃い黒紫色だがヘタ下は白い。

 【食味】果肉がしっかりしており歯ごたえがある。

 【料理】主に煮物、天ぷらで食されている。浅漬け、塩もみにも適している。最近では漬物加工用としての需要も伸びている。

 【来歴】1935年頃に高知市初月地区の在来種「初月なす」と果皮の色が濃い「真黒(しんぐろ)なす」とが自然交雑して生まれたと考えられている。1935(昭和10)年に南国市十市の山本浅吉氏によって加温促成栽培用品種として育成された。品種の維持は主に自家採種によって行われ、各生産者あるいは生産者グループの中で優良個体が親株として選抜されて種子が採種されている。ハウス栽培と雨よけ及び露地栽培で一年中出荷されている。

 【時期】通年

*https://tradveggie.or.jp/%e6%97%a5%e6%9c%ac%e3%81%ae%e4%bc%9d%e7%b5%b1%e9%87%8e%e8%8f%9c%ef%bc%8d39-%e9%ab%98%e7%9f%a5%e7%9c%8c/#i-17 より

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うまいッ! NHK「ちゅら海の恵み“塩”~沖縄 粟国島~」

2024-01-17 07:58:43 | うまいッ!NHK

 うまいッ! 「ちゅら海の恵み“塩”~沖縄 粟国島~」 2012年09月23日

 番組内容
 沖縄県粟国島で作られる塩は、強いうまみと深いコクがあり、海外でも評判の塩。生産者の小渡幸信さんは、20年にわたり製塩を研究。「自然の力」にこだわって塩を作る。自然風を使って海水を濃縮、30時間かけて、じっくり煮つめるのだ。味を左右するのが「にがり」の量。煮詰めて出来た塩を細かくかき混ぜ、微妙に「にがり」を残している。番組では料理の出来を左右する「塩の使い方」も紹介。「塩」の魅力を徹底紹介する。

*https://www.nhk.or.jp/archives/chronicle/detail/?crnid=A201209230615001302100 より

 詳細不明につき、勝手に調べてみました。

 

 沖縄「美(ちゅ)ら海の塩」

 沖縄の海を島の人々は“美(ちゅ)ら海”と呼んでいます。青く澄んだ珊瑚礁の海にはさまざまな生命をはぐくむ生物の宝庫。この美ら海という言葉には、沖縄の人々の豊かな海の恵みへの感謝と誇りがこめられています。

 温暖な黒潮を“真潮”といい、そのきれいな海水から塩職人たちの手によってつくられるシママース(島の真塩)は、沖縄の人々の暮らしに深く溶け込んで、沖縄独自の食べものの文化を育んできました。

 わが国の塩業史では、沖縄・西南諸島の塩作りの歴史について、史実が極めて少ないですが、沖縄に本格的な塩づくりが発祥したのは、『湧川製塩伝説』によれば、12世紀、源為朝が伊豆の大島から逃れ、今帰仁の運天港に漂着し、湧川村の方法を浜の老人に製塩法を教えたという伝説があります。

 一方、1609年、薩摩の島津義久が琉球侵略を命じた折、運天港に上陸した年寄りの僧侶が、島民が海水で味付けするのを見て、竹の笊に泥を塗って天日で乾かし、塩鍋をつくり、海水を天日で晒して塩をつくる方法を村人たちに教えたという伝説が残っています。当時、鹿児島湾や天草の沿岸では、直径150㎝ほどの竹篭に石灰、砂を苦汁で練った粘土で塗り固めた「網代釜」が使われていましたが、竹富島の民具博物館に展示されていた大きな竹籠をみて、網代釜を連想した覚えがあります。

 沖縄における塩田は、1694年に薩摩の弓削次郎衛門が干潟や自然浜を利用して入浜式塩田を教えたのが始まりとされ、泊の塩浜から琉球諸島の島々に伝播していったという史実があります。

 四方を海に囲まれた沖縄では、泊、泡瀬、豊見代、美里、具志川、今帰川など、各地にある入浜式塩田の土地の名をとって、泡瀬マース、泊マース、与根マースなどとよばれ、戦前は本土にも移出した良質な塩がつくられていました。                    

 太平洋戦争の戦火で200年の歴史を持ち、島の塩の消費量の75%を占めていた泡瀬の塩田と製塩工場が焼失しましたが、戦後すぐに塩業組合、沖縄製塩が設立され、念願のシママースが復興しました。島民のシママースへの強い思いがその原動力になったのです。

 シママース復活の「青い海」

 島民の間から、「ヤマトマース(本土の塩)はおかしい」という疑問の声があがり、シママース復活の期待が一挙に盛り上がってきたのです。マーケットでは専売の並塩を海水で炊き直した密造塩が飛ぶように売れたといわれます。

 しだいに沖縄の海水を使った塩田を復活させて沖縄の食文化を守ろうという機運が高まってきます。こうした島民の思いを背景に、自然食のCI協会の知念隆一氏を中心にした有志が集い、シママース復活に立ち上がります。それが現在の「青い海」です。 

 政府にくりかえしシママースの製塩を求めて陳情しました。そして昭和49年(1974)に日本専売公社から「特殊用塩」として、公社が輸入する天日塩の使用を条件に、海水で溶解し再結晶する再製塩の生産が認められます。

 青い海は、沖縄の製塩工場「沖縄1号」として許可され、7年ぶりに宿願の沖縄の塩、シママースが再現しました。

 1997年4月に塩専売法が廃止となり、新たな塩事業法に変わり、海水から直接塩をつくることが可能になり、青い海の設立当初からの念願であった沖縄の海水100%を原料にした自然海塩が誕生したのです。

 糸満の沖合2000mのきれいな海水を引き込み、国内最大の平釜で一週間、じっくりと時間をかけて煮詰め濃縮する、塩本来の味をつくり上げていきます。こうしてできた粗塩は、杉の木箱に入れて寝かせ、にがりを切って、しっとりとした昔ながらの平釜仕込みの塩に仕上げられます。

 本土でも同時期に塩田復活運動が起きていましたが、それは純度の高いイオン塩の人体への安全性が論争の焦点になったのに対し、沖縄では「味の質」を問う、沖縄の食文化を守る「味の自決権」を主張する色彩が強い復活運動になっています。

 今日では、塩の自由化により、琉球諸島ではミネラル豊富な美の海の海水を使い、昔ながらの平釜焚きの塩、海水を噴霧してつくる塩など、多彩なシママースが塩市場を賑わせています。

 沖縄の海水を100%原料にした自然再製塩実現の道を開いたのは青い海です。「沖縄の豊かな食文化を支える」という塩の普遍的な価値を提唱する「味の自決権」の精神が、今も脈々と青い海に息づいています。

 身体に優しい「いのちの塩」

 “いのちを守る塩” 自然海塩を黒潮のきれいな海水から再現しようと、ひとりの塩づくりの匠が挑戦しました。粟国島に「粟国の塩」を創業した沖縄海塩研究所の小渡幸信所長です。昭和50年(1975)、自然塩復活運動の中心的な存在であった「食用塩調査会谷克彦(故人)が伝統的な製塩法の研究・開発に沖縄に移住したとき、読谷村都屋の用地700坪を借り、揚浜式塩田をつくり、彼と一緒に理想の塩づくりをしていた経験があります。

 その後、谷は熱エネルギーを使わないタワー式の製塩による自然海塩をつくるために沖縄を去り伊豆大島に移りますが、小渡氏はひとり沖縄に残り、タイル業を営みながら粟国島に風力による自然蒸発する立体式タワーを実現したのです。

 塩づくりに自然海塩をつくるには、なによりもきれいな海水が必須の条件だというこだわりをもっていたので、沖縄の島々を探し求めた結果、那覇から北西へ約60キロも離れた珊瑚礁のきれいな海水が採れる粟国島を選んだ理由です。

 小渡氏は、すでにこのときタイル職人の世界では名声を博していましたが、それを捨ててまで海づくりを始めた動機は、若いころ体が弱かったので自然食の療法をしていた過去があり、身体によい自然海塩への強い思いがあったからだといいます。

 塩づくりの作業場に一歩踏み込むと、白いタイルの清潔感が溢れ、タイル職人だからこそできた設備だと感じます。隣のブロックを積み上げた高さ10mのタワーの内部をのぞくと、水滴が太陽の光でキラキラと輝いて降り注いでいます。

 15000本もの竹の枝が逆さに吊るされ、海水をポンプでタワーの上まで汲み上げ天井から流すと、竹の枝を伝わって落ちる海水は、タワーを吹き抜ける海風で蒸発し、濃縮していきます。

 風と太陽熱で7日間、自然蒸発させて海水の六倍ほどの濃度になると、平釜に入れて15時間かけてゆっくり薪で炊きあげるのです。普通、小規模な平釜では、重油がつかわれるケースがありますが、粟国の塩は、薪でじっくり焚かれます。

 薪の炎は、なべ底をなめるように広がっていき、その遠赤外線の効果が結晶の育ち具合や味に微妙に影響するからだといわれます。

 濃縮塩水の沸いてくると、平釜に向かって塩の結晶を育てるように、木の柄で休みなく丹念にかき混ぜる作業を黙々と続けます。浮き上がってくる石膏などを取り除かれた塩の結晶が釜から採りだされ、木箱に入れて7日間かけて脱水・自然乾燥してできあがります。やや湿り気を帯び、わずかに木成り色をした塩で甘味のある塩で、塩づくりでとくに気を配っているのは、にがりの度合いだといわれています。

 小渡所長が敬愛する谷は、「塩の生命は海水に含まれている多くの微量ミネラルのバランスにあり、専売のイオン交換膜の塩は、塩に似て非なるものだ」という言葉を遺し、それを常に心に刻んで塩づくりをしているとのことです。

 小渡氏は「いのちは海からという言葉は、私の塩づくとりの原点です。自然に感謝しながら、できるだけ海水に近いミネラルバランスをもった自然海塩をつくっていきたい」と熱く語ってくれました。

 「海は身体の中でいのちの海となる」。粟国の塩のパンフレットに書かれている一節です。長い歳月にわたり塩づくりを支えてきたのは、身体に優しい塩への熱い思いであったのではないでしょうか。わが国の「美味ししい塩の系譜」を伝承している、塩の歴史に刻んでおきたい伝説の塩職人です。  *粟国の塩 伝統的な平釜焚きする小渡幸信所長

*https://saltstory.wordpress.com/2014/01/14/%E6%9C%80%E7%B5%82%E7%AB%A0%E3%80%80%EF%BC%92%EF%BC%91%E4%B8%96%E7%B4%80%E3%81%AE%E5%A1%A9%E3%82%92%E6%B1%82%E3%82%81%E3%81%A6/ より

 

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<異名-人物> 悪右衛門

2024-01-17 07:42:55 | 異名

 「悪右衛門 荻野 直正/赤井 直正」

 荻野 直正(おぎの なおまさ)は、戦国時代から安土桃山時代にかけての武将。赤井 直正(あかい なおまさ)とも呼ばれる。通称は悪右衛門。赤井氏の実質的な指導者として、氷上郡(現在の兵庫県丹波市)を中心に丹波国で勢力を誇った。

 江戸時代に湯浅常山が著した説話集『常山紀談』に「赤井悪右衛門」として登場し、要害に陣取る敵将をそこから誘い出して討ち取ったとの逸話が記される。

*Wikipedia より

 「丹波の赤鬼 赤井 直正」

 近隣の豪族らより「丹波の赤鬼」と恐れられたとされる(『丹波志』)。また直正は東国にもその名が聞こえ、『甲陽軍鑑』では4大将(北条氏康・武田信玄・上杉謙信・織田信長)に次ぐ「名高き大将衆」13人の筆頭に「丹波ノ赤井悪右衛門」として挙げられている。

*Wikipedia より

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<料理用語-和食> 丸

2024-01-17 07:27:33 | 難読漢字

 「丸-がん」

 材料を団子のように丸めること。

 つぶして調味した魚や肉を小さく丸める。

 こうして材料を丸くすることを「 丸(がん)にとる」と言う。

*https://temaeitamae.jp/top/t2/kj/5_F/028.html より

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<慣用句・諺> 善に従うこと流るるが如し など

2024-01-17 07:19:58 | 慣用句・諺

 「善に従うこと流るるが如し」

 《「春秋左伝」昭公一三年から》善と知れば、それに従うことが少しも滞ることなく速やかであること。

 

 「善に強い者は悪にも強い」

 善を熱心に行う者はいったん悪に向かえば、悪をも熱心に行うものである。

 

 「膳に上る」

 食べ物として食卓に出る。

 

 「善人猶以て往生を遂ぐ況んや悪人をや-ぜんにんなおもておうじょうをとぐいわんやあくにんをや」

 《親鸞「歎異抄」から》他力をたのみとしない善人でさえ往生できる。ましてや、悪業に苦しみ、ひたすら他力をたのむ悪人が往生できないわけがない。

 

 「善の裏は悪」

 よいことには必ず悪いことがついて回るということ。

 

*goo辞書 より

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<難読漢字-魚へん> 𩸽

2024-01-17 07:17:07 | 難読漢字

 「𩸽 ほっけ」

 ホッケ(𩸽、Pleurogrammus azonus)は、アイナメ科ホッケ亜科に属する冷水性の魚。成長にしたがって、アオボッケ、ロウソクボッケ、マボッケ、ネボッケと呼び名が変わる。地方名にはタラバホッケ、チュウホッケ、ドモシジュウ、ホッキ、ボッケアなどがある。

 呼称
 漢字では、(魚へんに花、「𩸽」Unicode: U+29E3D, JIS X 0213: 2面93区44点)と書く。俗説によれば、鎌倉時代、日蓮宗の日持上人が、蝦夷に渡って布教活動をした折、当地を去る礼として、新たな種類の魚の豊漁をもたらした。地元の人はその魚を「ホッケ(法華)」と呼び、日持が滞在した村落を「トドホッケ(唐渡法華)」と名づけたとされる。だが、北海道南部・渡島半島に実在する椴法華村の地名は、実際にはアイヌ語のトゥー・ポㇰ・ケ(tu-pok-ke 山の根の下の所)に由来する。『別に日持上人由来説もある。松浦武四郎の「初航蝦夷日誌」には「土人の話しニ峠法華は近来の字二而唐法華と書よし。其ゆへは日持上人此処より入唐し玉ひしと。其故ニ此処二古跡有と云り。又ホッケと云魚は此村より取れ初而他国に無魚也。日持上人の加持を得て此地二而此魚ども成仏セしと云伝ふ」』(角川地名大辞典)

*Wikipedia より

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<日本酒メーカー> 北海道 箱館醸蔵

2024-01-17 07:13:02 | 日本酒

 「箱館醸蔵」

 ~老舗酒屋の女将が叶えた長年の悲願~
 令和3年春。古くは箱館と称された道南の地で 実に84年ぶりとなる唯一の蔵元として『箱館醸蔵』は誕生しました。
 道南スギがふんだんにあしらわれた木の温もりを感じられる酒蔵では、一年を通して醸造する四季醸造を取り入れており、季節を問わず しぼりたての日本酒が味わえます。
 代表銘柄「郷宝」は“道南テロワール”をキーワードに、米、水、人、すべてを郷の宝で醸すまじりなき酒として、郷土の食文化と交わることを意識した「淡麗旨口」な味わい。
 この淡麗と旨口という相反する酒質は、アルコール度数の高さではごまかせない、造り手の高度な技術なくしては醸せない味わいであり、口に含むとほのかに広がるフルーティーな香りとやわらかな旨味、飲み飽きしないスッキリとしたキレの良い飲み口が特徴です。

 箱館醸蔵有限会社 北海道亀田郡七飯町大中山1-2-3

*https://www.goshu-pro.jp/hokkaidotohoku/hokkaido/4560 より

 代表銘柄

郷宝 純米 壱火 扁平磨き六割五分

北海道酒造好適米『吟風』特有の、コク深い芳醇な旨味と心地よい後味の余韻をしっかりと感じながらも、扁平精米法の効果によってキレのある爽快なのどごしを兼ね備える、食中酒としておすすめの旨辛口な純米酒です。

おススメ温度帯◎冷酒 〇常温 〇ぬる燗

■原  料  米 北海道産契約栽培米 吟風100%
■原材料名 米(七飯町産)、米こうじ(七飯町産米)
■精米歩合 扁平精米65%
■A    L    C.      16%

 

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<大阪-観光> 花園中央公園

2024-01-17 07:04:50 | 観光

 「花園中央公園」

 花園中央公園(はなぞのちゅうおうこうえん)は、大阪府東大阪市に位置し、同市が所有・整備する都市公園(総合公園)である。南東部を除き恩智川の遊水地となっており、その部分は「花園多目的遊水地」と呼称される。東大阪市花園ラグビー場に近接する。

 2015年に以下の施設に関して指定管理者を採用している。

 花園中央公園野球場・多目的球技広場 2018年4月1日~2023年3月31日 指定管理者・株式会社美交工業
 東大阪市市民美術センター 2015年4月1日~2020年3月31日 指定管理者・公益財団法人東大阪市文化振興協会
 ドリーム21 期間同上 指定管理者・公益財団法人東大阪市文化振興協会&NTT-F共同事業体
 ※東大阪市花園ラグビー場は東大阪市から管理委託業務をHOS株式会社(旧・株式会社東大阪スタジアム)が受けて実施している。
 2020年10月1日から、東大阪市を本拠地とするサッカーのクラブチーム「FC大阪(運営・一般社団法人FC大阪スポーツクラブ、株式会社FC大阪)」を中心とする「東大阪花園活性化マネジメント共同体」グループが指定管理者として花園ラグビー場を含む公園全体の管理・運営を実施することになった。なお引き続き野球場と多目的球技広場については指定管理契約期間満了まで株式会社美交工業が運営を行う。

 施設概要

 計画面積は36.3haと広大であり、市民の憩いの場の公園として桜の広場、花菖蒲園などが整備されている他に、公園内に以下のような施設がある。

 多目的球技広場(トライスタジアム)
 日本陸上競技連盟の第3種公認陸上競技場。別名、東大阪市花園ラグビー場第3グラウンド。ラグビーの試合では大学の下部リーグや小・中学生の試合など、入場無料の試合で主に使用される(全国高校ラグビーフットボール大会など有料の試合もある)。
 花園中央公園野球場
 愛称:花園セントラルスタジアム。恩智川治水事業の一環として整備し、2006年4月30日に完成した。両翼97m、センター120mで、1,600人収容のスタンド、開場当初は内外野全体に天然芝が敷設されていたが、現在では外野のみ天然芝となっている。遊水地の一部でバックスクリーン裏側に増水の流入口があり、そこからグラウンドに水を流入させるためスコアボード下側に位置する外野フェンスはほぼ金網フェンスのみとなっている。当初は老朽化が進んでいた藤井寺球場に代わり、大阪近鉄バファローズのファーム(二軍)チームのホームスタジアムにする構想もあったが、近鉄球団が2004年にオリックス・ブルーウェーブ(現・バファローズ)との合併で消滅したことにより立ち消えとなっている。
 2013年6月16日にはオリックス・バファローズ対福岡ソフトバンクホークスの2軍公式戦が行われ、ソフトバンクが10-5でオリックスに勝利した。
 2012年より独立リーグ球団06BULLS→大阪ゼロロクブルズ(2012 - 2013年は関西独立リーグ (初代)、2014年以降はBASEBALL FIRST LEAGUE→関西独立リーグ (2代目)に所属)が本拠地として使用している。
2014年より全国高等学校野球選手権大阪大会の会場の一つとなる。
 東大阪市立児童文化スポーツセンター「ドリーム21」
 プラネタリウムやスポーツホールなどがある。
 東大阪市民美術センター
 絵画や書道などの展覧会などが行われている。
 Family Garden Hanazono
 花園中央公園のPark-PFI事業の一環として、2022年9月に開業した商業施設。スポーツジム「HOS花園スポーツスクエアー」とスーパーマーケット「ライフ花園中央公園店」が入居している
 ひとつなぎカフェ
 花園ラグビー場第1グラウンド1階に2022年9月竣工した喫茶店。ソフトドリンク・軽食などを提供

 歴史
 そもそもは花園ラグビー場に近接した大阪外国語大学(現・大阪大学外国語学部)のグラウンドの敷地だったが、同校のグラウンドが箕面市に移転したため、その跡地を東大阪市が払い下げる形で整備されることになったものである。

 幻の「花園球場」整備計画
 この花園中央公園の敷地内に、近鉄バファローズの本拠地として使われることを念頭に置いた野球場の建設計画が具体化されたことがあった。

 近鉄球団は1958年以後、名目上は自社運営の藤井寺球場と日本生命保険所有の日本生命球場のダブルホームスタジアム(野球協約に定める専用球場も両方を登録していた)を取り入れていたが、藤井寺にはナイター設備がなく、実質日生球場をメインとしていた。しかし、日生球場はナイター照明の照度が非常に低いことや施設上の問題からパシフィックプロ野球連盟が問題視していた。そのため1973年に藤井寺球場を改修する際、ナイター設備を設置することを盛り込んだところ、周辺住民がナイター開催が騒音につながるとして建設の差し止めを大阪地方裁判所に行ったため、ナイター開催ができなくなった。この関係でナイターを中心に日生球場の「間借り」状態が続いていた。

 このため、当時近鉄の監督だった西本幸雄は、当時球団オーナーだった佐伯勇に、「花園に近鉄で球場を造って、本拠地にしたらどうでしょうか」と進言したところ、「いくらかかると思っているんだ」と建設費用の問題で単独での実施は困難として断られたことを後年述懐している。

 そのような状況を東大阪市が踏まえ、この大阪外大のグラウンド跡地に整備する公園の建設に際し、市の出資で野球場の建設を計画。それを近鉄球団の新しい本拠地にすることを提案した。具体的には以下のような理由が挙げられた。

 公園面積が大きく住宅街からも離れている
 ラグビー場と共に野球場が建設することになれば東大阪市のスポーツの一大拠点となる
 大阪市内からも電車で20分以内であることや、近鉄東大阪線の開通も近いとあって、交通アクセスの改善も見込める
 その事は1980年10月15日付け報知新聞(スポーツ報知)で大々的に取り上げられ、1982年完成、収容人員3万人以上、人工芝・ナイター照明塔などを設置する近代的な球場を作るという概況が発表された。だがその後、1983年に藤井寺球場のナイター照明塔の設置工事が再開されることになり(1984年竣工)、この花園球場の建設計画は結果的に幻となってしまった。

 近鉄が消滅した9年後にあたる2013年から、合併先のオリックス・バファローズのファームチームが当球場で年1-2試合の主催試合を開催するようになった。オープン戦を含めた一軍の試合の開催実績はまだない。

*Wikipedia より

 近鉄東花園駅の北側にある緑豊かな公園。桜の広場や花菖蒲池のほか、文化・スポーツ活動の拠点となる施設が点在する。児童文化スポーツセンター「ドリーム21」は地球の誕生から現代科学まで学べる体験型展示室、一球スターボール式のプラネタリウム、アスレチックタイプの大型遊具があるスポーツホールなどを備え、想像力が膨らむ夢いっぱいの空間として大人気。東大阪市花園ラグビー場の南にある市民美術センターは、市民による展覧会のほか、特別展や企画展、ロビーコンサートなども開催する。ほかにも公園内には、多目的球技広場、犬が自由に遊べるドッグラン、石のモニュメントや噴水などがあり、人々の憩いと交流の場になっている。「花園」の名にふさわしく桜や花菖蒲などの季節ごとの花が楽しめる。惑星都市のスポーツスタジアムをイメージした大型複合遊具で遊べる「ラガーステーション」は子供達に大人気。

*https://osaka-info.jp/spot/hanazono-chuo-park/ より

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