いいもの見ぃ~つけた!

「いいもの」は探せばいっぱいあります。独断と偏見による個人的「いいもの」情報発信所です。

< 郷土料理 > 宮城 ずんだ餅

2024-01-29 10:10:26 | 郷土料理

 「ずんだ餅」

 主な伝承地域 県全域

 主な使用食材 もち米、枝豆

 歴史・由来・関連行事
 宮城県では餅を食べる機会が多く、正月、婚礼、法事、葬儀などの年中行事には欠かさず餅が食べられているという。昔は家庭で餅がつくられてきたが、近年は出来上がった餅を購入する人が多くなってきている。
 餅がよく食べられるためか、種類も豊富である。どじょうを使ったふすべ餅、くるみを使ったくるみ餅、他にもごま餅や、納豆餅、ずんだ餅などがある。ごま餅やくるみ餅、ずんだ餅は来客用として出されることが多い。
 その中でもずんだ餅は宮城県を代表する郷土料理の一つである。ずんだ餅という名前にも諸説あり、甚太という農夫が創作したという説、伊達政宗公が陣太刀の柄で枝豆を砕いた説…とさまざまである。江戸末期にはこの和え衣がずんだとして定着していったということで、すでに枝豆が利用されていたという。また、豆を打つ音「ずんだ(豆ん打)」を表したとの説もある。ずんだはつくるのに手間がかかるため、かつては子どもたちがさやから豆を取り出す作業をおこなうなど、家族総出でつくっていたという。
 緑色の鮮やかなずんだ餡は、砂糖や塩で味付けされるが、餅にからめるときは砂糖のみで味付けをされることが多い。

 食習の機会や時季
 正月、婚礼、法事、葬儀などの行事には、餅を食べる習慣がある。

 飲食方法
 つきたての餅に絡めて食べる。串にささった団子にずんだ餡をのせたものも人気。

 保存・継承の取組(伝承者の概要、保存会、SNSの活用、商品化等現代的な取組等について)
 郷土料理としてすでに定着しており、ずんだを使用した菓子などの応用商品も多数出ている。また、「ずんだつくり」を体験させるツアーなども組まれている。なお枝豆は未成熟大豆のことを指し、収穫時期の早い品種の改良がおこなわれている。

*https://www.maff.go.jp/j/keikaku/syokubunka/k_ryouri/search_menu/menu/zunda_mochi_miyagi.html より

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<おせち> 奈良 柿なます

2024-01-29 09:27:13 | おせち

 「柿なます」

 主な伝承地域 県内全域

 主な使用食材 大根、人参、干し柿、酢

 歴史・由来・関連行事
 奈良県では古くから大根と人参を使用した紅白なますに、干し柿を入れた柿なますが正月の定番おせち料理の一つとしてとして食されてきた。
 白い大根と赤い人参を混ぜた紅白の色は、水引を意味し、平安の願いが込められている。「柿なます」に柿を入れることで、柿の甘み、旨味が加わり、味わい深い酢の物になる。

 食習の機会や時季
 正月に食べられるなますは大根と人参を使ったものが多いが、奈良のなますは特産品である柿を使用した「柿なます」である。干し柿を使うことが多いが、生の柿を使った「柿なます」も美味しい。昔から正月に食べる料理として受け継がれている。

 飲食方法
 大根、人参、干し柿を合わせ酢にまぜたシンプルな料理であるが、柚子の皮を千切りにして飾る時もある。砂糖が高価だった時代、干し柿は砂糖の代わりに、料理などに使われており、酸味のある紅白なますに柿が入ることで食べやすく美味しくなるという。

 保存・継承の取組(伝承者の概要、保存会、SNSの活用、商品化等現代的な取組等について)
 現在も家庭でよくつくられ、親から子へと継承されている。

*https://www.maff.go.jp/j/keikaku/syokubunka/k_ryouri/search_menu/menu/kaki_namasu_nara.html より

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うまいッ! NHK「かむほど美味!近江牛~滋賀 近江八幡市~」

2024-01-29 08:55:01 | うまいッ!NHK

 うまいッ!「かむほど美味!近江牛~滋賀 近江八幡市~」 2013年01月20日

 番組内容
 琵琶湖のほとりにある牧場で育てられる近江牛は、脂の味はもちろん、赤身が自慢。その秘密が「健康に育てる」こと。農家の木下その美さんは、牛の体調に合わせて自らエサをブレンド。さらに生まれた子牛は、半年間母乳で育て、病気になりにくい体質を目指す。番組では、農家や豆腐業者と協力し、国産の飼料を中心に牛を育てようという新たな試みも紹介。「究極の牛肉」を作ろうと奮闘する生産者に密着する。

*https://www.nhk.or.jp/archives/chronicle/detail/?crnid=A201301200615001302100 より

 詳細不明につき、勝手に調べてみました。

 「近江牛」

 近江牛(おうみうし)または(おうみぎゅう)は、黒毛和種の和牛が滋賀県内で最も長く肥育された場合に許される呼称であり、そのウシからとれる牛肉にも用いられる呼称である。日本での肉用牛としての史実として残る歴史が400年と圧倒的に長く、三大和牛の1つとされる。他のブランド牛が限られた狭い地域あるいは個人の飼育であるのに対して近江牛は滋賀県全体での生産の為、年間出荷頭数は圧倒的に多く優れた肉質が特徴である。

 定義
(品種)黒毛和種 現在は但馬牛を素牛としなくともよい。
(地理的表示)JAS法に定める原産地表示が「滋賀県産」と表示できるもの 滋賀県内で最も長く飼育されたもの。
 日本食肉格付協会の格付けに基いた定義がないため、上記の2つを満たせばどの肉質等級および[なお、A-4、B-4以上の格付けの枝肉には認定書や認証シールが発行される。

 歴史
 1590年(天正18年)に秀吉の小田原攻めのとき、高山右近が蒲生氏郷と細川忠興に牛肉を振る舞ったとされる史実が残っている。その蒲生氏郷が領地である近江蒲生日野の地で食肉牛を飼育し、食用としての近江牛の普及には蒲生氏郷が貢献したともいわれている。また、その後、氏郷は松坂(現・松阪市)および会津(現・会津市)に封じられ、その際、近江から招き入れた多数の技術者が畜産の発展に寄与し、現在の「松阪牛」「会津牛」の礎を築いたと考えられる。1586年(天正14年)、豊臣秀次は自らが築いた八幡山城(現・近江八幡市)の山下町(城下町)に住地を設けて牛馬商人を住まわせ、牛馬商に対する保護政策をとったとされる。

 江戸時代、彦根藩は幕府に太鼓を献上しており、その太鼓に使う牛革を確保するため、牛の畜産を営み、その屠殺を許可されていた。この事から、牛肉を食べる文化が発達した。江戸時代後期、「養生薬」の名目で、干し肉に加工された牛肉が彦根藩から将軍家へ献上されたことが2回ある。その他松平定信、徳川斉昭などの大名に味噌漬・粕漬などの加工品が贈られたと彦根藩の記録に残っている。

 1863年(文久3年)ごろに来日した写真家、フェリックス・ベアトが撮影した厚木宿(神奈川県厚木市)の風景写真に「江州 彦根 生製 牛肉漬」との看板 が店に掲げられており、幕末の頃には牛肉が販売されていたことがわかる。 また、彦根市史によると、1855年(安政2年)、彦根魚屋町の勘治が、江戸の神田、両国、日本橋、四ツ谷で彦根牛肉の看板を掲げて開業したと伝えられている。

 1850年頃(嘉永年間)には、尾張藩領であった蒲生郡内で藩士の指導により、牛の肥育が開始された。

 明治時代になって西洋文化の影響で牛肉食が始まるとともに近江牛の消費も拡大した。1869年(明治2年)には、蒲生郡苗村(現蒲生郡竜王町)の家畜商が陸路で17、8日かけ、牛を追いながら東京に送り、多くの取引を行ったとの記録がある。さらに同じく苗村出身の竹中久次は、1872年(明治5年)に生牛の東京出荷を開始、1883年(明治16年)には、東京浅草で牛肉問屋「米久」を開業した。しかし、1882年(明治15年)頃になると、汽船の発達に伴い、近江牛は神戸港から首都圏他へと出荷されるようになったが、他の地方産の牛肉とまとめ、神戸牛と呼ばれていた。当時、出荷地銘柄としての神戸牛が確立され、有名になったため、産地銘柄としての近江牛はその影に隠れてしまったとされる。

 1890年(明治23年)、前年の東海道本線の開通により近江八幡駅から近江牛の輸送を開始した。1893年(明治26年)、牛疫が蔓延したため、国内の生牛の輸送が禁じられた。そこで、滋賀県下で生産され、現地で屠殺して枝肉となった牛肉が多く市場に出回った。消費者側からみて、それは出荷量が多かったのみならず、非常に美味であったので、生産地が調べられた。その結果、それが滋賀県近江八幡市の近江八幡駅から出荷された牛肉であることがわかり、それがきっかけで滋賀県が牛の生産において生産量・味ともに優れているとして近江牛の名が知れ渡ることとなった。1906年(大正3年)には、東京上野公園で全国家畜博覧会が開催され、蒲生郡の牛が優等一位となる。関東大震災が発生した際には、全国から東京への貨物輸送の一時禁止が行われたが、宮内省から陛下御用の近江牛だけは積み出すよう、近江八幡駅長に指示されたといわれている。

 戦後になり、1951年(昭和26年)、地元の家畜商と東京の卸業者が協力し、近江牛ブランドの確立を目的とする近江肉牛協会が発足した。この頃に近江肉牛協会が東京で繰り広げた「大宣伝会」は今も語り継がれる。国会議事堂で生きた近江牛を披露したり、東京日本橋のデパート(白木屋)屋上で競りを市民に公開した。

 かつては、定義の一つの「滋賀県産」を満たすのに必要な期間の基準がなかったため、県外産の牛を一晩県内に置き、翌日に市場に出しても「近江牛」と呼称できた。しかし、2005年(平成17年)に牛の肥育履歴偽装事件で近江肉牛協会の幹部が逮捕されたのを機に、同年12月に「滋賀県産」とみなす基準を含めた近江牛の定義が決められた。

 2007年(平成19年)5月11日、地域団体商標に登録された。また、同年、近江牛の生産者や流通事業者により、「近江牛」生産・流通推進協議会が設立された。

 2010年(平成22年)、滋賀食肉センターを通じた近江牛の輸出が開始された。

 2017年(平成29年)12月15日、地理的表示法(特定農林水産物等の名称の保護に関する法律)に基づく地理的表示(GI)に登録された。

 2021年(令和3年)、ふるさと納税の返礼品として滋賀県が近江牛の取り扱いを県内全市町に認めたことに対し、主要産地の近江八幡市は肉の品質管理が徹底できずブランド価値が低下しかねないとして自治紛争処理委員による審査を申し立てた。

 生産
 主に滋賀県東部の蒲生・神崎・愛知の各郡(現在の近江八幡市、東近江市、竜王町など)において生産されてきた。これら一帯は米の生産やその他の農業も盛んな地域で、牛を肥育するための飼料と気候に恵まれたためともいわれている。多くの近江牛畜産農家ではオレイン酸やリノール酸を多く含む近江米の藁や米糠を飼料として与えている。霜降り度合いが高く、芳醇な香りと、脂質の口溶けのよさが特徴である近江牛は、融点が低く、牛肉の香りや風味に関与しているといわれる不飽和脂肪酸であるオレイン酸含有率が他の産地の黒毛和種より比率が高く、このことが香りの良さや脂質の口溶けの良さ、またサシが多いにもかかわらずしつこさがないといった近江牛の特徴につながっている。 年間出荷頭数は5000頭。

 その他
 近江牛を扱う駅弁には、「食べ物の恨みは恐ろしい」とのキャッチコピーが書かれている。これは、近江牛を楽しみにしていた水戸藩士が、江戸幕府への近江牛の献上を断った近江彦根藩藩主・井伊直弼を恨んで桜田門外の変で討った、とする俗説に基いている。

*Wikipedia より

 <ブランド和牛> 滋賀 近江牛

https://blog.goo.ne.jp/admin/editentry/?eid=63e7f553640d27133f5da2fd260f1e33&sc=c2VhcmNoX3R5cGU9MSZsaW1pdD0xMCZzb3J0PWRlc2Mma2V5d29yZD0lRTglQkYlOTElRTYlQjElOUYlRTclODklOUImcD0x

 <地理的表示(GI)保護制度> 登録番号 56. 近江牛

https://blog.goo.ne.jp/admin/editentry/?eid=56af652553bc35abc6ade93ca93a2173&sc=c2VhcmNoX3R5cGU9MSZsaW1pdD0xMCZzb3J0PWRlc2Mma2V5d29yZD0lRTglQkYlOTElRTYlQjElOUYlRTclODklOUImcD0x

 こちらもご参考に

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<伝統野菜> 高知 タマゴブロウ

2024-01-29 08:52:00 | 伝統野菜

 「タマゴブロウ」

 【生産地】大豊町

 【特徴】土佐在来いんげん。

 【食味】あっさりした味

 【料理】煮豆、スープ、羊羹など

 【来歴】約60年以上前から栽培されなくなったと言われていたが、2014(平成26)年、紫色のインゲンである「紫豆」や、幻の豆といわれていた「タマゴブロウ」(白いインゲン)が、大豊町西峰の一軒の農家によって保存・栽培されていたことが確認された。

 普及所では大豊町農業センターの協力を得て、「タマゴブロウ」の品種特性を調査した。「タマゴブロウ」は「銀不老」に比べて発芽率が悪い上、側枝の発生が少なく、1株当たりの着莢数が少ない結果であったが、1株当たりの収量では「銀不老」に対して約 15%増でなった。

 【時期】11月

*https://tradveggie.or.jp/%E6%97%A5%E6%9C%AC%E3%81%AE%E4%BC%9D%E7%B5%B1%E9%87%8E%E8%8F%9C%EF%BC%8D39-%E9%AB%98%E7%9F%A5%E7%9C%8C/#i-19 より

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<異名-人物> 夜叉玄蕃/鬼玄蕃

2024-01-29 08:32:43 | 異名

 「夜叉玄蕃/鬼玄蕃 佐久間盛政」

 佐久間 盛政(さくま もりまさ)は、戦国時代から安土桃山時代の武将、大名。織田氏の家臣。加賀金沢城(尾山城)主。通称は玄蕃允で、佐久間玄蕃の名でも知られ、夜叉玄蕃や鬼玄蕃の異名でも知られた勇将であった。

*Wikipedia より

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<料理用語-和食> 生揚げ

2024-01-29 08:14:59 | 料理用語

 「生揚げ-きあげ」

 日本酒のしぼりたて。生一本。

 ※同じ字の「生揚げ」は、〈なまあげ〉と読み、厚揚げ豆腐のこと

*https://temaeitamae.jp/top/t2/kj/6_G/02.html より

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<慣用句・諺> 袖反る など

2024-01-29 08:01:03 | 慣用句・諺

 「袖反る-そでかえる」

 袖や袂 (たもと) が風にひるがえる。

 

 「袖掻き合わす」

 「袖打ち合わす」に同じ。-かしこまって左右の袖を寄せ合わせる。相手に対する敬意を表す。袖掻き合わす。

 

 「袖片敷く」

 片袖を敷いて寝る。独り寝をする。袖を片敷く。

 

 「袖すり合うも多生の縁」

 「袖振り合うも多生の縁」に同じ。-道で人と袖を触れあうようなちょっとしたことでも、前世からの因縁によるものだ。袖すり合うも多生の縁。

 

 「袖褄を引く」

 異性に言い寄る。

 

*goo辞書 より

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<難読漢字-魚> 阿古屋貝

2024-01-29 07:57:31 | 難読漢字

 「阿古屋貝 あこやがい」

 アコヤガイ(阿古屋貝、珠母、学名: Pinctada fucata martensii)は、ウグイスガイ目ウグイスガイ科に分類される二枚貝の一種。真珠養殖に利用される「真珠母貝」の一つで、天然でも殻内に真珠を持つことがある。クロチョウガイやマベとともに「真珠貝」としてよく知られている。全体に膨らみが薄く、貝殻が柔らかい。

*Wikipedia より

 語源
 阿古屋は現在の愛知県阿久比町の古い地名で、この辺りで採れた真珠を阿古屋珠(あこやだま)と呼んだことから、真珠のことも阿古屋と呼ぶようになった。また江戸時代後期の武蔵石壽による『目八譜』第四巻の(二)に『真珠介』として図示され、『観文介譜』や『啓蒙』で『アコヤカヒ』と言われている貝で、和名類聚抄では『貽貝』(イガイ)と呼ばれていたと記されている。

*Wikipedia より

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<日本酒メーカー> 青森 西田酒造店

2024-01-29 07:52:51 | 日本酒

 「西田酒造店」

 株式会社西田酒造店(にしだしゅぞうてん)は、青森県青森市大字油川に本社および工場を置く日本酒の蔵元。

 概要
 油川大浜に1878年(明治11年)創業の青森市唯一の酒蔵で銘柄「喜久泉(きくいずみ)」、「田酒(でんしゅ)」の醸造元である株式会社西田酒造店がある。1970年(昭和45年)、日本酒の原点に戻り、本物の風格ある酒を造りたいという一念で、昔ながらの手造りによる純米酒の醸造に着手した。3年後の1974年(昭和49年)10月1日、『田酒』純米酒が完成し発売を開始した。

 銘柄「喜久泉」は、幾久しく喜びが続く様にとの願いが込められていて、淡麗にして軽快な味わいとなるため醸造用アルコールを必要最低限に添加、糖類は使用していない。銘柄「田酒」は、酒の元となる米が獲れる田んぼを意味し、日本の田以外の生産物である醸造用アルコール、醸造用糖類を使用していないことを主張した酒である。

 「田酒 純米大吟醸 百四拾」は、青森県奨励の県産酒造好適米「華想い」を使用、華想いは山田錦に匹敵する良質な酒造好適米育成の研究の末に誕生した。麹米、掛米すべてに華想いを使い、青森の地酒として完成した。銘柄「百四拾」とは、華想いと命名される前の青森県農業試験場系統名「青系酒140号」に由来している。

 かつての幻の米といわれる、青森県産初代酒造好適米「古城錦」を復活する目的で、特定の米農家に栽培を依頼して、1991年(平成3年)から仕込みを開始し銘柄「田酒 古城乃錦」として発売した。

 沿革
 1878年(明治11年) - 創業
 1974年(昭和49年) - 「田酒」純米酒発売
 1984年(昭和59年) - 「田酒」山廃仕込、純米酒発売
 1985年(昭和60年) 「喜久泉」大吟醸発売 「田酒」純米吟醸発売
 1991年(平成3年) - 「田酒」純米大吟醸発売
 1992年(平成4年) - 「田酒」純米吟醸、「古城乃錦」発売
 2003年(平成15年) - 活性炭ろ過廃止
 2007年(平成19年) バストライザー設置による瓶火入れ自動化 アルコール添加酒をすべて吟醸酒に変える
 2013年(平成25年) 在庫倉庫新設 瓶詰め工場・ライン新設
 2014年(平成26年) 精米工場新設 瓶詰工場・充填機をレベルセンシングフィラに交換 充填ラインをクリーンルーム化
 2015年(平成27年) - 新酒母室、新醪蔵、新上槽室設置

 株式会社西田酒造店 青森県青森市大字油川字大浜46番地

*Wikipedia より

 代表銘柄

純米大吟醸 斗壜取り 田酒

鑑評会出品用の吊り下げ雫酒。華やかな吟醸香と、上品な味わいが特徴。
原料米 山田錦
精米歩合 40%
日本酒度 ±0
酸度 1.4
アルコール度数 16.5度

大吟醸 雫しぼり 喜久泉

鑑評会出品用の吊り下げ雫酒。華やかな吟醸香と、上品な味わいが特徴。
原料米 山田錦
精米歩合 40%
日本酒度 +2.8
酸度 1.28
アルコール度数 16.4度

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<大阪-観光> 金熊寺梅林

2024-01-29 07:47:55 | 観光

 「金熊寺梅林-きんゆうじばいりん」

 江戸時代から愛されてきた梅の名所「金熊寺梅林」
 始まりはお告げから?「金熊寺梅林」の成り立ち
 泉南市の山間部、東信達地区にある金熊寺(きんゆうじ)の梅林は、古くから泉州の梅の名所として知られています。
 その歴史は古く、江戸時代初期(1647年)、金熊寺に隣接する信達神社の神主・矢野氏に「この地に梅樹を植えると神領益々隆盛となる」とのお告げがあり、矢野氏一族と土地の人々の手によって白梅を中心とした梅が栽培されました。

 梅林はお寺の南側(写真の左側)にあります。東信達区の金熊寺。金峯・熊野の両神を勧請し、信達神社と合祀したのが寺名の由来。
 飛鳥時代の呪術者「役行者(えんのぎょうじゃ)」が金峯・熊野の両神を勧請し、本殿に合祀されたもので、古くは金熊寺大権現宮と称し、金熊寺の鎮守社でした。お告げのあった神社「信達(しんだち)神社」。大阪府指定天然記念物のナギの木があります。
 往事には広範囲に梅林が広がっており、一大行楽地となっていたそう。
 明治期にはのちの内閣総理大臣にして、当時大阪毎日新聞の編集総理の職にあった政治家 原敬(はらたかし)が、開業まもない南海電車に乗って観梅に訪れた事もあるそうです。

 この地だけの特別な梅。レアな梅干しは絶品!
 金熊寺梅林で多く見られる白梅「金熊寺梅」は、この土地でしか見られない特有の梅。小さな白い花を咲かせ、実も小ぶりながらも肉厚で梅干しづくりにぴったり!
 花の時期には小さな白い花がキラキラと輝くように咲き誇ります。
 そしてその梅から作られる梅干しは、生産量が非常に少ないレアな逸品。無農薬で作られた梅の実に、塩と赤しそのみを加えて作られる昔ながらの酸っぱい梅干しは、市場にはほとんど出回りません。
 地産地消で、地元の学校給食などでも愛される金熊寺梅の梅干し。現地で手に入れるほかには、近年ではふるさと納税の返礼品として入手することもできます。

 金熊寺梅林特有の梅の花。古い種ですが、素朴な可憐さがあります。金熊寺梅。小ぶりな白い花が咲きます。
 地元農家さんが大切に育てている梅の木です。見物の際は、むやみに木に触れないようお願いいたします。「金熊寺梅」は背が低く、横に枝を張る白梅で、肉厚で種が小さく良質な梅の実が収穫できます。
 

 春の「金熊寺梅林」へ行ってみよう。
 梅の開花時期。さっそく梅林へ出かけよう。
 「金熊寺梅林」への交通手段は、JR阪和線・南海本線それぞれの最寄り駅から泉南市のコミュニティバスを利用するか、自家用車でのおでかけが中心。
 自家用車でお出かけの際は、梅の開花時期にだけ約20台ほどが駐車できる梅林の駐車場が設けられます。
コミュニティバスのバス停も、この駐車場の近くに設置されています。(コミュニティバスは通年利用OK)
 今回はこの駐車場から、遊歩道を通って梅林の広がる丘を登っていきましょう。

 イベント時には、「金熊寺梅の梅干し」や地元の新鮮野菜を販売するほか、ドラム缶で焼くピザや、金熊寺梅干しを使ったおにぎりなども食べられます。
 梅林駐車場。2023年は駐車場料金が無料となりました。
 梅の時期の日曜日には、駐車場前でイベントを行っていることもあります。
 花咲く遊歩道を通って梅林へ。
 金熊寺梅林の遊歩道は、畑と畑の間を縫うように進んでいきます。
 遊歩道は道に沿って「金熊寺梅林」ののぼりが立っていたり、看板などで丁寧に案内されています。
 梅の時期には菜の花も咲いていて、春らしいぽかぽかとした陽気を感じられる、のどかな道です。

 ここからしばらくは畑の間を進んでいきます。梅林遊歩道への入口。
 もとはもっと大きな枝垂れ梅だったのですが、梅林組合会長のオーナーさんが立て直し、懸命に世話をして復活させたそう。2018年の台風で倒れてしまった枝垂れ梅も、美しい花を咲かせるほどに復活していました。
 ノスタルジックでどこか懐かしい校舎が、里山の風景に溶け込んでいます。遠くに見える赤い屋根の建物は地元小学校の校舎。
 しばらく畑の中を進んでいき、遊歩道の中程を過ぎたころから梅林へと入っていきます。
 梅林は山の斜面に作られているため、遊歩道は常に登り坂ですが、傾斜は緩やか。地面も舗装されているので歩きやすくなっています。
 触れられそうなくらいの間近で梅の花を観賞できますが、すべての木は農家さんが育てている大切な木です。
決して触らず、近づきすぎないようご見学ください。

 遊歩道は舗装されていますが、梅林全体では舗装されていない場所もあります。運動靴でお出かけされると良いでしょう。遊歩道は緩やかな登り坂になっています。
 甘く爽やかな梅の香りを堪能しながら遊歩道を進みます。梅の木の密度が高くて、満開時には圧巻の景色を楽しめます。
 どの木も農家さんが大切に管理し、育てている木。同じく大切にご鑑賞ください。金熊寺梅は背が低いので、遊歩道を歩いているとすぐそばに梅の花が現れる感じです。
 丘の上から梅林を一望!
 遊歩道の先には階段があり、登るといよいよ丘の頂上へ。
 梅林は山の斜面に沿って作られており、金熊寺・信達神社側へ登ると、丘陵に広がる梅林全体を眺めることができます。
 レトロでノスタルジックな雰囲気の校舎が、可憐な白梅や里山とマッチしていて、なんとものどかな光景。とっても癒されます。

 階段も遊歩道と同等の道幅があり傾斜も緩やかですが、手すり等がありませんのでご注意を。階段も遊歩道と同等の道幅があります。昇り降りの際は譲り合い精神をお忘れなく。
 白く見える道が、梅林の遊歩道です。丘の上からの景色。のどかな春の里山に癒されます。
 かつてはおでんや梅ジュース、梅酒などを振舞っていたそう。丘の上の茶屋は閉鎖しています。
 丘からは遊歩道とは別に、広い梅林の縁をぐるっとまわってふもと(梅林および駐車場)へ向かって下る道もあります。
 15分ぐらいで梅林組合駐車場の前の舗装道路を少し和歌山寄りに進んだところまで降りられる道で、舗装されておらず細い部分もある道ですが、遊歩道とは違った角度から梅林を見下ろすこともできます。

 矢印の反対方向に進むと、金熊寺・信達神社方面に降りる道がありますが、急坂となっています。こちらの道は未舗装ですので、運動靴など歩きやすい靴でどうぞ。
 足元には十分ご注意ください。遊歩道とは違った角度から梅林を見下ろし、坂を下っていきます。
 道を下っていくと、養魚池のそばへ出ます。この池の周りも梅の花がたくさん咲いており、ピクニックをしている方も。
 ただし、池の周りは柵の設置や舗装などされていませんので、側へ行かれる際は十分お気をつけください。
池を左手にさらに進むと、駐車場へ至ります。

 写真のように池の水位がかなり低い日もありますが、中へは入らないようにお願いします。釣りも禁止です。梅林裏の養魚池。
 池の周りを歩く人の姿も見られますが、歩く際は足元には十分気を付けて。池の周りもたくさんの梅の花でいっぱい。
 おでかけ情報
 金熊寺梅林の開花時期について。
 開花状況は毎年の天候に大きく左右され、見ごろを見極めるのが難しいものです。
 泉南市では「泉南市観光ガイド 恋するせんなん」公式ウェブサイトおよびSNSにて、花の名所の案内と毎年の開花状況についての更新を行っています。
 金熊寺梅林のほかにも、様々な花の名所が存在する見どころいっぱいの泉南市。
 遊びに行く際には、是非公式ウェブサイトやSNSをチェックしてみてください!

 泉南市観光ガイド 恋するせんなん
 恋するせんなん 公式インスタグラム

 金熊寺梅林へのアクセス。
 公共交通機関をご利用の際は、泉南市コミュニティバス「さわやかバス」(山回り)をご利用ください。

*https://yado.sangimi.com/kinyuji-bairin/ より 写真・画像は削除しています。

 

 古くから泉州の梅の名所として知られ、花の時期は小高い山の上の桟敷席から眼下の梅林を眺めながら一服することができます。歴史は古く、江戸時代初期(1647年)、隣接する信達神社神主「矢野氏」に、この地に梅樹を植えると神領益々隆盛となる」のお告げがあり、矢野氏一族および土地の人々の手によって白梅を中心とした梅が栽培されました。その金熊寺梅は肉厚で種が小さく良質な梅の実が収穫できます。

*https://osaka-info.jp/spot/kinyuji/ より

 

 今年の開花情報はまだ出ていないようですね。

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