いいもの見ぃ~つけた!

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< 郷土料理 > 宮城 ほっきめし

2024-02-23 09:33:36 | 郷土料理

 「ほっきめし」

 主な伝承地域 宮城県

 主な使用食材 ホッキ貝、米

 歴史・由来・関連行事
 ホッキ貝(北寄貝)は、正式名をウバガイという大型の二枚貝で、その大きさと美味しさから「貝の王様」と呼ばれている。
 ホッキ貝にはビタミンB12が豊富に含まれており、その含有量は魚介類の中ではトップクラスを誇る。ビタミンB12は赤血球中のヘモグロビン生成を助けるほか、脳から神経伝達を正常に保つ働きがある。また、タウリンも豊富で、コレステロールを減らす、心臓や肝臓の機能を高める、視力の回復、インスリン分泌促進、高血圧の予防などが期待されている。
 旬は冬から春である。国内での生産量は北海道が最も多いが、山元町の磯浜漁港は、古くから県内一の水揚げを誇っている。山元町では漁協の資源管理によって捕獲できるサイズを9.5センチ以上と決めており、大ぶりなホッキ貝は高級寿司ネタとして珍重されるほか、旨みたっぷりの「ほっき飯」が郷土料理として食べられている。
 「ほっき飯」は生のホッキ貝を醤油ベースのタレで煮て、その煮汁で炊き込んだご飯の上にのせたもの。ホッキ漁が盛んな山元町ならではの家庭料理の一つ。この家庭料理は次第にご当地グルメとして飲食店でメニューに載るようになっており、今では町を代表する郷土料理の一つとなっている。

 食習の機会や時季
 12月から5月ごろまでの旬の季節に食される。この時期には県南の山元町や亘理町のほか、仙台市内の飲食店などでも提供される。また、スーパーマーケットや鮮魚店でもむき身が売られるようになるので、家庭でも簡単につくれることから、季節に一度は食卓に上ることが多い。

 飲食方法
 剥いたホッキ貝を醤油ベースのタレで煮こみ、その煮汁で米を炊く。炊きあがった米を個々の茶碗や丼に盛り、調理したホッキ貝をのせて提供する。彩りで三つ葉をのせることもある。

 保存・継承の取組(伝承者の概要、保存会、SNSの活用、商品化等現代的な取組等について)
 山元町、亘理町の飲食店で提供され、宮城の冬を代表する冬から春にかけてのご当地グルメとなっている。

*https://www.maff.go.jp/j/keikaku/syokubunka/k_ryouri/search_menu/menu/hokki_meshi_miyagi.html より

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<おせち> 鹿児島 芋きんとん

2024-02-23 09:29:57 | おせち

 「芋きんとん」

 さつま芋の産地のため、きんとんにしてお重にたくさん詰める。

*https://www.kibun.co.jp/knowledge/shogatsu/database/2010local/index.html より

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うまいッ! NHK「デカさも味も横綱級!新しょうが~熊本・八代市東陽町~」

2024-02-23 09:25:58 | うまいッ!NHK

 うまいッ!「デカさも味も横綱級!新しょうが~熊本・八代市東陽町~」 2013年10月20日

 番組内容
 生産量全国2位の熊本県で“しょうがの里”として知られる八代市東陽町では、棚田を利用して大きくみずみずしいしょうがを栽培している。しょうがは非常にデリケートな作物。生産者は病気から守るため、畑では専用の靴に履き替え、山奥の水源から雑菌の少ない水を引くなどなみなみならぬ手間と愛情を注いでいる。番組では、みそ漬けやきんぴらなど地元ならではのしょうが料理も合わせ、しょうがの魅力をたっぷりと紹介する。

*https://www.nhk.or.jp/archives/chronicle/detail/?crnid=A201310200615001302100 より

 詳細不明につき、勝手に調べてみました。

 「東陽のしょうがについて」
 八代市東陽地区は平野と山地をつなぐ典型的な中山間地です。
 東陽で生姜栽培が始まったのは大正時代末期の頃。1931年に新規作物として導入され、東陽地区全域に広がりました。
 その後1970年の米の生産調整をきっかけに転作作物として栽培面積が拡大し、1980年には120haまで生産面積が伸びました。
 その後、栽培農家の高齢化や輸入生姜の増加による価格低迷などで減少傾向となりました。しかし近年安心安全志向が強まるなか国産の生姜が注目され、現在は約60ha前後で推移しており東陽地区の基幹農作物となっています。
 また東陽地区を中心とする熊本県の生姜生産は高知県に次いで国内2位の生産規模を誇ります。

 現在は安定して高品質の生姜を生産できるよう、優良種子の確保、防蛾灯による防虫対策、圃場ごとの作業靴の履き替え、効率的灌水法の確立など、生産部会で様ざまな技術の向上と実践を図っています。

 当地の生姜栽培の特徴は、中山間の段々畑を利用することから大規模に基盤整備した圃場がないこと。350㎡以下の小規模圃場が殆どで、圃場の傾斜もあることから栽培管理は小型の機械導入や手作業が中心であること。
 効率は悪いのですが、その分、病気など不具合を早期発見でき、また細かな手当てを施す機会が増えるなど、全体的に品質の向上につながっています。

*https://www.toyo-seseragi.com/touyoumachi/ginger.html より

 

 熊本県 八代地域農業協同組合(しょうが) ~しょうが産地(八代地域)の紹介~

 八代地域農業協同組合 北部営農センター 生姜選果場長 関本 和裕

 ◆①産地の概要
 八代地域におけるしょうが栽培の主産地である東陽町は、熊本県中南部、八代平野と九州山脈に挟まれ、熊本市から40キロメートルの地点に位置しています。東西12.15キロメートル、南北15.27キロメートル、総面積64.56平方キロメートルで、年間平均気温15.3度、年間降水量2,437ミリと、比較的温暖多雨な気候です。

 同産地の共販農家数は132戸、作付面積50ヘクタール、年間取扱荷受数量1,500トン(種子含む1,900トン)ですが、大規模に基盤整備しているほ場はなく、中山間地特有の小規模なほ場での作付けが主体で、1ほ場あたりの平均面積は350平方メートル以下がほとんどです。渓谷状の段々畑に広がるしょうが畑は、地域によっては棚田百選にも選出されていますが、傾斜があるため栽培管理は小型の機械や手作業が中心となり、ほ場としては作業効率の悪い土地条件となっています。

 当地では、古く大正末期から種しょうがの産地として一部の地域で栽培が始まっていましたが、70年の米の生産調整を契機に急激に水田を利用した作付けが増加し、しょうがの産地が形成され、現在では県内の出荷量の39パーセントを占める町の特産品となっています。毎年10月の第4日曜日には、しょうがの収穫作業を告げるしょうが祭りが、作柄を見極める品評会と共に開催されています。この祭りは今年で37回を数え、全国各地から3万人を超える人々が集まる、町をあげての一大イベントとなっています。

 ◆②山地栽培カレンダー


 ◆③生産・栽培上の特色
 しょうが生産で最も重要な種子として、オリジナル培養株を導入しました。現在は増殖を行っており、生産性や貯蔵性の高い品種の育成と優良系統選別による品質、収量の向上を図っています。

 収量への影響が大きい夏場のかん水対策として、ボーリングにより確保した水源や谷間の湧水、貯水槽などの利用順番や時間、使用料金などを地区ごとに割り当て、円滑なかん水作業が行えるように取り決めています。

 土作り対策としては、毎年土壌分析を実施し、適正施肥を行いながら他地域との耕畜連携を行い、御礼肥と土作りをかねて、例年収穫後に完熟堆肥を10アールあたり2トン以上投入し、連作体系に耐えうる土壌の管理を励行しています。

 病害対策においては、特にしょうがの病害で最も甚大な被害を及ぼす根こん茎けい腐ふ敗はい病びょうの予防を徹底しています。過去(昭和44~46年)には、集中豪雨と多湿条件が続いて根茎腐敗病が発生し、産地存続の壊滅的な被害が発生したことがありました。この要因調査を行った結果、罹病しょうがの河川投棄が病気まん延の一要因とされたため、それまでかん水源となっていた河川への罹病株の投棄防止と、ボーリング掘削やしょうが栽培地域外からの水源確保が行われ、無病菌のかん水が行われるようになりました。さらに土壌消毒技術の導入や、しょうがのほ場へ進入する際はほ場ごとに作業靴を履き替え、消毒ホースを交換するなど、徹底した予防管理を行っています。

 ほ場での排水対策としては、定植前の排水対策の徹底と、小間隔での小溝排水を充実させることで排水が行えるようにしています。

 また、近年では害虫対策として防蛾灯の設置を行い、主要害虫である夜蛾類の薬剤防除の削減を行い、より安全で安心なしょうが生産を行っています。

 棚田百選のしょうが畑

 ・しょうが栽培のポイントとして、
 ① 無病の種しょうがを確保すること。

 ② 適期に定植すること(降霜がなくなったら早めに定植し、霜が降る前に収穫する)。

 ③ 夏場の乾燥期にしょうがの肥大を促すために土壌水分を適切に保持すること。

 ④ しょうがの重要病害である根茎腐敗病を出さないこと。

 ・その中でも重要な根茎腐敗病の対策として、
 ① 土壌消毒を行っています。

 ② 地下水を利用したかん水を行っています。

 ③ 排水溝を多くとることや心土破砕を行うことで排水を良くし、停滞水がないよう土壌環境改善を行っています。

 ④ ほ場ごとに履き物を変え、病気を外部から持ち込まない、広げないよう細心の注意を払っています。

 ⑤ 発病の症状が見られたら、早期防除、早期抜き取り処分を行い、病害の被害拡大を防止しています。

 ⑥ 無病種しょうがの確保と植付けのため、一般栽培ほ場から離れた畑地に種しょうが専用の生産ほ場を設け、無病種しょうがの確保に努めています。

 ◆④ 出荷の工夫
 出荷形態としては、土付き、水洗い(バラ・パック・袋詰め)、漬物用があり、出荷の周年体制として、新しょうが、囲いしょうが(水洗いしょうが)、親しょうがなどの時期別出荷を行っています。また、生産者から選果場へ持ち込まれる荷受規格に応じて貯蔵を行い、新しょうがについては低温貯蔵庫で最大13ヵ月(11月~翌年12月)の貯蔵出荷を行いながら、取引先ごとの出荷規格に応じて選果場内でカット作業などの加工を行い、販路に応じた販売出荷体制をとっています。

 荷受期間:新しょうが 10月下旬~11月中旬、囲いしょうが 3月中旬~6月中旬
 販売期間:周年
 ① 年間販売数量および販売価格提示(月別出荷計画提案)
 ↓
 ② 取引先より週間注文
 ↓
 ③ 注文数量に応じ水洗い加工
 ↓
 ④ 取引先出荷
 上記の流れにより生産者の出荷時期に関係なく一定した価格が確保され、市場の価格変動に左右されない安定した販売体制を構築しています。

 ◆⑤ 販売戦略
 貯蔵しょうがの周年販売の特性を活かし、全量予約相対取引を実施し、年度産の水洗い出荷開始時期に合わせ、全国的な相場の推移を検討しながら周年の値決め、オーダー受注による出荷を行い、年間を通じた安定取引を行っています。
 また、商品性においても他産地との差別化を図るため、出荷者全戸の生産履歴記帳と定期的な残留農薬分析を行いながら、安心安全なしょうが生産を行っています。出荷する際の調製作業は、しょうが特有の不要なこぶなどのカット作業を行うことで、消費者が家庭で調理しやすいよう心がけています。
 出荷は、取引先ごとにパックや袋の量目を調整し、100~150グラムまでの範囲で消費地域のニーズや価格形態に合わせた、キメ細やかな出荷体制を構築しています。
 また、消費拡大の一貫として、女性部を中心に取引スーパーでの試食宣伝会を実施しており、しょうがを利用した料理レシピなどの提案を行っているとともに、関係機関と一体となってしょうが加工品の商品化にも取り組んでおり、八代市東陽町ブランド商品として、JA直売所「かあちゃん市場」、町内直売施設「菜さい摘てき館かん」や「ふるさと直送便」などで販売しています。

 ◆⑥ 生産者の取り組み
 根茎腐敗病、優良種子確保、効率的かん水法の確立などの生産者の技術向上や、共販体制のなかで有利販売を確立するため、生産組織を設立してさまざまな取り組みを行っています。
 生産面では、主要土壌消毒剤として使用していた臭化メチルの代替薬剤試験の実施や、使用方法の検討、優良種子確保のための品種選抜、生産者間の代替出荷などを行いながら、安定した種子確保に努め、かん水・土づくりにおいてもJA組織の有利性を働かせながら、年4~5回の現地検討会・講習会のなかで情報交換を行っています。
 販売においては、貯蔵庫設置による周年販売を行うことで価格の安定化が図れるため、出荷方法を検討し、貯蔵施設によるしょうがの周年販売特性を活かしながら、予約相対取引を実施し、取引市場および取引量販店と年間値決めを行うことで、生産者手取り価格の維持に努めています。
 今後の取り組みとして、生産面においては主要土壌消毒剤であった臭化メチルの全廃により、新たな代替薬剤の開発および使用方法の確立と、高齢化に伴う生産面積の維持拡大に努めるよう、新たな生産地の開拓と輪作体系の確立が目標となっています。また、販売面においては国産需要が高まる中、水洗い出荷の安定的数量確保のため、生産量と出荷処理能力の向上が課題となっています。
 今後は、これらを克服しながら八代産しょうがのさらなるブランド強化を図り、全国へ届けていきたいと考えています。

 ◆ 一言アピール
 しょうがは香辛料などの薬味として用いられるのはもちろんですが、薬用としても広く使用され万病に効果があるといわれています。特に、体の新陳代謝を活発にし、保温効果も良いため、風邪、腹痛、下痢、冷え性、夜尿症に効果を発揮します。また、健胃、解毒、解熱、鼻づまり、せき止め、吐き気、しゃっくり止めなどにも有効とされています。
そんな特長を生かしたしょうが料理をおかずの一品やおやつなど、さまざまな場面でぜひお役立て下さい。

 ◆ しょうがの元気成分
 ○ジンゲロール
 しょうがには多種多様の成分が入っています。特に強力な殺菌殺虫効果があり、保温効果がある辛味成分がジンゲロールです。
 このジンゲロールは、大腸ガンの予防効果や、胃液の分泌を促し、消化を助ける働きもあります。
 ○クルクミン
 しょうがには過酸化脂質の発生を抑える抗酸化作用があり、この抗酸化物質の一つがクルクミンで、体内の活性酸素を除去する働きがあります。
 しょうがは、中国の漢方薬の50パーセント程に含まれているというほど優れた食材なのです。

 ◆ お問い合わせ先  八代地域農業協同組合 生姜選果場

*https://vegetable.alic.go.jp/yasaijoho/santi/1111_santi1.html より

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<伝統野菜> 福岡 本葉四葉胡瓜

2024-02-23 08:54:45 | 伝統野菜

 「本葉四葉胡瓜-ほんばすうようきゅうり」

 【生産地】朝倉市(現在不明)

 【特徴】白イボ系のきゅうり。四葉(すうよう)キュウリともいう。表面にシワが寄り一見細いゴーヤーのようにも見えるが、触るとトゲのようにイボが出ている。果実は一般的なキュウリと比べ1.5倍ほどの大きさになるが、28~30cmになったころが収穫適期。

 【食味】果皮が薄くて歯切れがいいのが特徴。

 【料理】生食、スティックサラダ、きゅうりのタタキ、冷や汁など

 【来歴】四葉きゅうりは中国華北系の品種で、1944(昭和19)年頃に韓国から導入されたと言われている。株に本葉が4枚ついた頃から実がなるのでこの名がついたとされる。イボはちょっと触っただけでポロポロと取れ、イボがとれたところから傷みやすいため、あまり流通しなくなった。種の入手先は久留米原種育成会。

 【時期】6月~10月

*https://tradveggie.or.jp/40-fukuoka/#i-13 より

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<異名-人物> 海道一の弓取り

2024-02-23 08:51:43 | 異名

 「海道一の弓取り 今川義元」

 海道とは東海道を指す。弓取りとは弓矢で戦うものから「武士」、転じて「国持大名」を指す。通常、以下の、東海道の国に拠点を置いた戦国大名を指す。

 「今川義元」

 今川 義元(いまがわ よしもと)は、戦国時代の武将。駿河国および遠江国の守護大名・戦国大名。今川氏第11代当主。姉妹との婚姻関係により、武田信玄や北条氏康とは義理の兄弟にあたる。「海道一の弓取り」の異名を持つ東海道の広大な地域の支配者。姓名は源義元。

 駿河国、遠江国を支配し、三河国の松平氏(のちの徳川氏)を服属下においた。

*Wikipedia より

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<料理用語-和食> 黄身返し

2024-02-23 08:37:14 | 料理用語

 「黄身返し」

 「逆卵」とも言う。

 ゆで卵の卵白と卵黄を逆転させるゆで方。

 伝来の方法は複雑で成功率も低い。

 ※というよりも、出典の『萬宝料理秘密箱』の仕方で成功するとは思えず、この本の記述自体が冗談であった可能性も高く、どこまで信じてよいか分からない。あったとも無かったとも断言できない困った伝承である。(現在の科学を使えば可能だが、そうした科学や機器は江戸時代に存在していない)

 中身を小穴から抜き出し、黄身だけを殻の中に戻して大根等を差し込み蒸す。その後大根を抜き取りその穴に白身を入れて再び蒸す。などの強引な仕方もあるが、これが料理といえるかは意見が分かれるところ。

*https://temaeitamae.jp/top/t2/kj/6_G/025.html より

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<慣用句・諺> 大木の下に小木育つ など

2024-02-23 08:34:35 | 慣用句・諺

 「大木の下に小木育つ」

 大きな勢力をもつもののもとには、その庇護 (ひご) を受けているものが多くいることのたとえ。

 

 「大木は風に折られる」

 大木は風当たりが強く折られやすい。高い地位にいる人は、他人からねたみや非難を受けやすいことのたとえ。

 

 「体もない-たいもない」

 くだらない。つまらない。らちもない。

 

 「大勇は怯なるが如し-たいゆうはきょうなるがごとし」

 《蘇軾「賀欧陽少師致仕啓」から》真に勇気ある人は、むやみに人と争うようなことはしないから、一見おくびょう者に見える。

 

 「大勇は闘わず」

 《「淮南子 (えなんじ) 」説林訓から》真に勇気のある人は、むやみに人と争わないということ。

 

*goo辞書 より

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<難読漢字-魚> 金頭

2024-02-23 08:29:07 | 難読漢字

 「金頭 かながしら」

 カナガシラ(金頭、方頭魚、火魚、学名:Lepidotrigla microptera)は、カサゴ目・ホウボウ科に分類される魚。ホウボウに似た魚で、ホウボウと同じく食用に漁獲される。

*Wikipedia より

 由来・語源-頭が硬いところから。昔から日本各地で使われてきていた呼び名である。市場などでは仮名頭(最初)、すなわちイロハの始まりが「イ」であることから、荷に「イ」と書かれていたりする。

*https://www.zukan-bouz.com/syu/%E3%82%AB%E3%83%8A%E3%82%AC%E3%82%B7%E3%83%A9 より

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<日本酒メーカー> 岩手 南部美人

2024-02-23 08:24:41 | 日本酒

 「南部美人」

 株式会社南部美人(なんぶ びじん)は、岩手県二戸市にある日本酒の蔵元。社名・銘柄名は、所在地が江戸時代に南部藩領(南部地方)だったことと、淡麗な味わいの酒を美人にたとえたことに由来する。

 概要
 地元岩手県産の酒米(「吟ぎんが」「ぎんおとめ」など)を中心に使っている。こうした地産を重視した高品質な酒造り、輸出や海外コンテストへの出品のほか、南部杜氏が酒造りのノウハウ(酒米の種類や精米歩合、気温に合わせた吸水時間の決定など)を人工知能(AI)に学ばせて継承するといった新しい取り組みを行っている。

 5代目蔵元である久慈浩介・代表取締役が、酒造りのかたわら、PR・プロモーション、海外市場開拓など渉外活動に熱心に取り組んだ結果、岩手の清酒では知名度の高い銘柄の一つとなった。

 南部美人によれば、2007年からは日本航空のファーストクラス、2013年からはエティハド航空とエミレーツ航空の機内酒として採用されているという。

 2011年には東日本大震災による花見自粛ムードがある中、同じ東北地方のいくつかの蔵元とハナサケ!ニッポン!の共同サイトを立ち上げた。そしてYouTubeに、過度の消費自粛による東北地方の経済的二次被害の惨状を訴える動画を投稿した。

 2017年には、INTERNATIONAL Wine CHALLENGE 2017 SAKE部門 特別純米酒:総合最高位 チャンピオンサケを受賞。

 沿革
 1902年(明治35年) - 創業(初代蔵元・末太)銘柄は「堀の友」。
 1916年(大正5年)- 久慈酒造合名会社設立。
 1951年(昭和26年) -「南部美人」発売。
 1997年(平成9年)- 日本酒の輸出を開始。
 2008年(平成20年)- 8月、リキュールの「糖類無添加梅酒」を発売。
 2009年(平成21年)- 8月6日、糖類無添加リキュールの製造方法で特許(特許第4415072号)を取得。
   10月27日、「農商工連携事業計画」の認定を受ける(黒石梅の里・JA新いわて)。
 2013年(平成25年)- 4月17日、コーシャ(kosher)の認定を取得。
 2020年(令和2年)12月 - ANA国際線ファーストクラス機内酒に採用。

 株式会社 南部美人 岩手県二戸市福岡上町13

*Wikipedia より

 代表銘柄

南部美人 純米大吟醸  最高峰の日本酒

純米大吟醸は、南部美人の日本酒の中でも最高峰に位置する日本酒で、JALのファーストクラスで機内酒にも採用されたこともあります。
純米大吟醸の芳醇な香りと濃密な味わいがバランス良く表現された格調高い日本酒です。
特別な日に飲んでいただきたい日本酒です。

原料米山田錦
精米歩合35%
仕込水折爪馬仙峡伏流水(中硬水)
酵母ジョバンニ・他
日本酒度+1
アルコール度数16~17度
酸度1.4

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<西国三十三所> 西国三十三所とは

2024-02-23 08:15:40 | 巡礼

 「西国三十三所」

 西国三十三所(さいごくさんじゅうさんしょ、さいこくさんじゅうさんしょ)は、観音巡礼の大本である。観音菩薩を祀る近畿地方2府4県と岐阜県の三十三箇所の札所寺院と三箇所の番外寺院からなる観音霊場。日本で最も歴史がある巡礼であり、現在も多くの参拝者が訪れている。札所である三十三箇所の寺院が西国三十三所札所会を設立している。

 「三十三」とは、『妙法蓮華経観世音菩薩普門品第二十五』(観音経)に説かれる、観世音菩薩が衆生を救うとき33の姿に変化するという信仰に由来し、その功徳に与るために三十三の霊場を巡拝することを意味し、西国三十三所の観音菩薩を巡礼参拝すると、現世で犯したあらゆる罪業が消滅し、極楽往生できるとされる。

 平成29年(2017年)一般社団法人日本記念日協会により4月15日が「日本巡礼文化の日」として認定された(認定日は同年3月13日)。

 令和元年度(2019年)に選ばれた「日本遺産」(文化庁)の16件の一つに、『1300年つづく日本の終活の旅〜西国三十三所観音巡礼〜』が認定された。

 成立と歴史
 伝承
 三十三所巡礼の起源については、中山寺の縁起である『中山寺来由記』、華厳寺(三十三番札所)の縁起である『谷汲山根元由来記』などに大略次のように記されている。

 養老2年(718年)、大和国の長谷寺の開基である徳道上人が62歳のとき、病のために亡くなるが冥土の入口で閻魔大王に会い、生前の罪業によって地獄へ送られる者があまりにも多いことから、日本にある三十三箇所の観音霊場を巡れば滅罪の功徳があるので、巡礼によって人々を救うように託宣を受けるとともに起請文と三十三の宝印を授かり現世に戻された。そしてこの宝印に従って霊場を定めたとされる。上人と弟子たちはこの三十三所巡礼を人々に説くが世間の信用が得られずあまり普及しなかったため、機が熟すのを待つこととし、閻魔大王から授かった宝印を摂津国の中山寺の石櫃に納めた。そして月日がたち、徳道は隠居所の法起院で80歳で示寂し、三十三所巡礼は忘れ去られていった。

 徳道上人が中山寺に宝印を納めてから約270年後、花山院(安和元年〈968年〉 - 寛弘5年〈1008年〉)が紀州国の那智山で参籠していた折、熊野権現が姿を現し、徳道上人が定めた三十三の観音霊場を再興するように託宣を授けた。そして中山寺で宝印を探し出し、播磨国圓教寺の性空上人の勧めにより、河内国石川寺(叡福寺)の仏眼上人を先達として三十三所霊場を巡礼したことから、やがて人々に広まっていったという(中山寺の弁光上人を伴ったとする縁起もある)。仏眼が笈摺・納め札などの巡礼方式を定め、花山院が各寺院の御詠歌を作ったといい、現在の三十三所巡礼がここに定められたというのである。

 開創
 しかしながら、札所寺院のうち、善峯寺は法皇没後の長元2年(1029年)創建である。また、花山院とともに札所を巡ったとされる仏眼上人は、石川寺の聖徳太子廟の前に忽然と現れたとされる伝説的な僧で、実在が疑問視されている。以上のことから、三十三所巡礼の始祖を徳道上人、中興を花山院とする伝承は史実ではない。

 西国三十三所の前身に相当するものは、院政期の観音信仰の隆盛を前提として、11世紀ごろに成立していた。史料上で確認できる初出は、近江国園城寺(三井寺)の僧の伝記を集成した『寺門高僧記』中の「行尊伝」の「観音霊場三十三所巡礼記」と「覚忠伝」の「応保元年正月三十三所巡礼則記文」である。行尊の巡礼を史実と認めるか否か、異論が存在するが、これに次ぐ覚忠の巡礼は確実に史実と考えられている。行尊と覚忠の巡礼記を比較すると、三十三所の寺院の組み合わせは一致するものの順番が相違し、両者とも三室戸寺で巡礼を終えているが、行尊は一番札所を長谷寺、覚忠は那智山としている。行尊自身はさておき、行尊伝の伝える順番での巡礼が確かに行われていたと見え、栂尾山高山寺に伝わる「観音丗三所日記」(承元5年〈1211年〉)に収められたある覚書は、長谷寺伝の書物に依拠しつつ、行尊伝と同じ順番での巡礼を伝えている。この時期の三十三所の順序や寺院の組み合わせは様々で、何種類もの観音霊場巡礼が併存し、ひとつの寺院がいくつもの観音霊場に数えられていた。

 庶民が11か国にもまたがる33の霊場を巡礼することは、中世初めにはきわめて困難である。中世初めにおいては、三十三所すべてを巡る巡礼が主として各種の聖や修行者によって行われていたとはいえ、観音信仰の性格からして、一般俗人を排除することは考えにくいことであり、一国のみ、ないし限られた区間のみを辿る巡礼を重ねて、三十三所に結縁・結願することを願っての巡礼が行われていたと考えられている。

 西国三十三所の確立
 長谷寺は平安時代初期頃から霊験著しい観音霊場寺院として、特に朝廷から崇敬を寄せられただけでなく、摂関期には藤原道長が参詣するなど、重要な観音霊場であった。こうした長谷寺の位置付けゆえに三十三所の一番となったと見られることから、11世紀末頃(1093年 - 1094年頃)と見られる行尊の巡礼が長谷寺から始まることは自然なことと考えられる。しかし、12世紀後半の覚忠の巡礼において、長谷寺から遠く隔たった那智山が第一番となるには大きな変化があったと見なければならず、それには熊野詣の盛行と西国三十三所における熊野那智山の位置という2つの点を見なければならない。

 前者の例として挙げられるのは、後鳥羽院の13回、後白河院の27回といった参詣であり、こうした盛行に影響されて三十三所の順路が影響を受けて、12世紀後半には那智山を一番札所とするようになったと考えられている。

 後者の西国三十三所における熊野那智山の位置付けであるが、熊野那智山には三十三所の開創や巡礼との関係が多数ある。伝説上の開創を裸形とし、奈良時代以前から特別な聖地であった那智山には、三十三所の伝説上の開創である花山院が寛和2年(986年)に参詣をしたことに由来して、多数の伝承が見られる。それらの伝承には、例えば那智滝で花山院が千日滝籠行を行ったとするほか、滝元千手堂の本尊を花山院に結びつけたり、妙法山に庵や墓所があったとするものが見られ、那智山における花山院伝承は非常に重要である。また、中世には諸国を廻国遊行する廻国巡礼行者が多数いたが、三十三所を巡る三十三度行者なる行者に那智山の住僧が多数なっていただけでなく、その往来手形もまた那智山が管掌するところであったと青岸渡寺伝来の史料は伝えている。こうした点から分かるように、当初摂関期の観音信仰をもとにしていた三十三所は、院政期に熊野詣の盛行の影響下で熊野那智山を一番札所とするようになり、花山院の伝承の喧伝や三十三度行者の活動を通じて、熊野那智山により広められていった。三十三所が固定化し、東国からの俗人も交えて民衆化するのは15世紀半ばを下る時期のことであった。

 中世三十三所寺院における信仰と巡礼

 西国三十三所に算えられる寺院は、第一番の那智山青岸渡寺から第三十三番の谷汲山華厳寺までに番外三か寺を加えて36あり、その組み合わせは『寺門高僧記』以来、変化が無い。これら36の寺院は、規模をもとに4つに分類される。一つ目は権門寺院に相当する有力寺院であり、興福寺(南円堂、第九番)、醍醐寺(上醍醐准胝堂、第十一番)、石山寺(第十三番)、三井寺(観音堂、第十四番)、泉涌寺(今熊野観音寺、第十五番)、清水寺(第十六番)の6か寺が該当する。これらの寺院のうち、清水寺と石山寺は三十三所に先立つ貴族の観音信仰において対象とされた各寺院の本尊がそのまま三十三所の信仰対象となっているが、他の4か寺では対象となっているのは寺の本尊ではなく、子院の本尊であることから、たまたま庶民信仰を集めた堂舎が三十三所に連なったと見られている。

 二つ目は地方の有力寺院で、青岸渡寺(第一番)を始めとして24か寺と、数的に全体の3分の2を占め、三十三所の中心的存在である。これらの寺院は多数の子院を従えた一山寺院であり、数百人、時には千人を越える僧を擁する地方の有力寺院であった。寺院の本尊と三十三所の信仰対象とは多くの場合において一致するが、三十三所巡礼寺院であることは寺の性格全体にとってあまり重要ではなかった。

 例えば、一番札所である那智の本尊は今日に至るまで那智滝の本地仏たる千手観音であるが、三十三所としての本尊は如意輪観音である。千手観音とならんで如意輪観音が信仰の対象となるのは、12世紀初めごろと見られ、藤原宗忠の『中右記』にその様子が見える。宗忠は、熊野権現本殿の前に設けられ、参詣者が参籠礼拝する「礼堂」に導かれ、社僧から如意輪験所の由縁を説かれたのち、滝殿とその傍らの千手堂に参詣しており、如意輪堂は古くからの観音霊山内の新たな霊場であった。

 三つ目は京都市中の中小寺院で、六波羅蜜寺(第十七番)ほか、行願寺(第十九番)、頂法寺(第十八番)に番外の元慶寺を加えた4か寺が該当する。これらの寺院は平安時代から盛んになった京都近郊の洛中洛外七観音霊場巡礼に由来する寺院である。六波羅蜜寺、行願寺、そして頂法寺は三十三所寺院であるとともに、洛中洛外七観音の一角であり、こうした京都近郊の観音巡礼寺院としての性格は清水寺や石山寺にもあてはまる。こうしたことから、三十三所の成立は、京都近郊の観音巡礼を歴史的前提とし、それらと地方の著名な観音信仰寺院との融合によるものであることが分かる。

 四つ目の地方の小規模寺院は番外の菩提寺および法起院の2か寺が該当する。これら寺院はいずれも小規模な寺院であるが、三十三所巡礼の縁起にまつわる寺院であり、三十三所の隆盛とともに花山院の縁起が広く知れ渡り、参詣者を集めるようになったことで番外に加えられた。

 各寺院で三十三所を支え、三十三所巡礼を行じた三十三所の担い手は、当初、山伏や前述の三十三度行者のような廻国巡礼行者、熊野比丘尼、各種の勧進聖、一般の僧侶といった宗教者の集団であって、こうした聖に導かれる形で民衆も巡礼を行っていた。こうした宗教者は、各地で勧進を募っては、集めた願物によって堂舎の造営・修造、燈明料の維持にあたっており、勧進聖としての活動を通じて一山の経済を支えていた。とりわけ室町幕府の支配の弛緩する15世紀以後、各地の寺社はかつてのように公権力の保護に依存しえなくなる。かわって、各地の寺社が依存したのが、勧進聖による本願所であった。なかでも、那智山の勧進聖たちは、各地を巡って三十三所の組織化に努めた。青岸渡寺を第一番とし、華厳寺を第三十三番とする順序が史料上に初見されるのは、勧進聖の活動が定着するのと同じ15世紀中頃のことである。さらに勧進聖たちは、巡礼の庶民を対象にした宿所を設けるなど、より多くの巡礼を招き、さらに多くの奉加や散銭を獲得することを目指した。こうした過程を経て、当初、もっぱら修行僧や修験者らのものであった西国三十三所巡礼は、室町時代中期には庶民による巡礼として定着していった。

 庶民への勧進活動に当たって三十三所寺院であることが大きな効果を持つことから、一山における勧進聖の経済的役割は大きく、寺院側も堂舎の造営・修造にあたって巡礼からの奉加に期待を寄せていた。そのため、室町時代中期(戦国時代)から中世末期にかけて発された、寺院修覆のための勧進状や縁起では三十三所寺院であることが強調されるとともに、勧進状や縁起を携えて勧進を担った聖の拠点たる子院群が一山を支える状況が生み出された。しかしながら、こうした勧進聖の集団の寺院内における地位は低く、あくまで下僧としてもっぱら扱われたために正式の法会や祭礼に参加することはできなかった。有力とはいえ寺院内の一勢力に過ぎない勧進聖集団にもっぱら支えられていたという事情は、各寺院における三十三所の位置付けを低いものにとどめさせた。三十三所諸寺院の蔵する中世古文書は数千点に達するが、縁起や勧進状の類を除くと、三十三所に関係する古文書の数はわずかに十数通にすぎず、三十三所寺院であることは各寺院の持つ多様な性格の一つに過ぎなかった。

 近世における庶民化
 江戸時代には観音巡礼が広まり、関東の坂東三十三観音や秩父三十四箇所と併せて日本百観音と言われるようになり、江戸時代初期からは「巡礼講」が各地で組まれ団体の巡礼が盛んに行われた。地域などから依頼を受けて三十三所を33回巡礼することで満願となる「三十三度行者」と呼ばれる職業的な巡礼者もいた。これら巡礼講や三十三度行者の満願を供養した石碑である「満願供養塔」は日本各地に残っている。江戸からの巡礼者は、まず伊勢神宮に参拝した後で第一番の青岸渡寺へ向かい、途中高野山・比叡山などにも参拝しつつ、結願の33番谷汲山を目指した。そして帰途にお礼参りとして信濃善光寺を参拝するのが通例となっていた。三十三所で巡礼を終わらせずに別の寺院にも参拝している理由としては、江戸からの行程の途中に善光寺があること、観音の本地が善光寺阿弥陀如来とされたことなどが指摘されている。一方、お礼参り(=巡礼の終了)の善光寺を敢えてしない巡礼者もいた。「巡礼の終わりは死に急ぐ」という俗信に依ってだという。

 近世には、幕藩体制が整えられて社会が安定し、寺社の経済的再建が進むにつれ、本願への抑圧と寺社運営からの排除が進んだ。こうした排除は、例えば那智山では、延享元年(1744年)の裁許状をもって本願所から造営修理権・勧進権が剥奪されるまでに至った。しかし、本願所によって募られていた庶民の奉加と散銭は、寺社の造営に依然として欠かせないものであった。例えば、勧進活動に替わるものとしての本尊開帳も享保年間(1716年 - 1735年)には、幕府により、寺社焼失のような例外を除いて33年に1度のみとする規制が加えられた。そこで寺社の側では、いっそう増加する庶民巡礼から奉加・散銭を得るべく、寺院全体を三十三所の巡礼寺院として宣伝した。

 巡礼者側も三十三所に加え、坂東三十三観音や現在では新西国三十三箇所観音霊場に入っている別の観音霊場を参拝することもあった。例えば文化年間に西国巡礼を行った益子広三郎は、伊勢神宮→1番青岸渡寺→(現在の新西国5番)道成寺→得生寺→2番紀三井寺…という順序で巡礼しており、四国の金毘羅宮などの何の関係のない神社まで参拝しているという。益子の場合、帰途には坂東18番の日光山まで参拝している。これは、観光旅行が自由にできなかった江戸期においても、伊勢参りや霊場参拝を理由とすれば、比較的容易に通行手形を得ることができたため、金銭や時間に比較的余裕がある場合は、できるだけ多くの寺社を参拝し、札所も熊野那智や奈良・京都、天橋立など各地の名所に立ち寄れるような場所に配置されているため、観光旅行を兼ねていた面もある。

 巡礼

 霊場は一般的に「札所」という。かつての巡礼者が本尊である観音菩薩との結縁を願って、氏名や生国を記した木製や銅製の札を寺院の堂に打ち付けていたことに由来する。札所では参拝の後、写経とお布施として納経料を納め、納経帳に宝印の印影を授かる。写経の代わりに納経札を納める巡礼者もいる。その納経札は白地に黒印刷の紙製の白札のみであったが、現在は四国八十八箇所に模して同じ規定で色札を使用する者が出てきた。

 巡礼の道中に、開基である徳道上人や再興させた花山院のゆかりの寺院が番外霊場として3か所含まれている。新西国三十三箇所観音霊場に入っている、三十三所ではない観音を祀る寺に参拝する人もいる。

 第一番から第三十三番までの巡礼道は約1,000kmであり四国八十八箇所の遍路道約1,400kmと比較すれば短いが、京都市内をのぞいて札所間の距離が長いため、現在では全行程を歩き巡礼する人はとても少なく、自家用車や公共交通機関を利用する人がほとんどである。1935年3月から1か月間「西国三十三ヶ所札所連合会」が阪急電鉄とタイアップして「観音霊場西国三十三ヶ所阪急沿線出開扉」を開催した。これには33日間で40万人以上が訪れたと言われている。

 現在でも鉄道会社やバス会社によって多くの巡礼ツアーが組まれており利用者も多い。ただし、ツアーによって林道しか通じていない山上の寺院に行く場合、山麓の駐車場にバスを置いて山道を歩くものや、オプションでタクシーなどの小型車に乗り換えて林道の終点まで行くもの、全員が小型車に乗り換えて林道の終点まで行くものなどがあるので、よく確認して予算や体力に合わせて選択する必要がある。

 お礼参り
 結願のお礼参りとして、最後に信州の善光寺に参拝し、33箇所と番外の3箇所に加えて計37箇所を巡礼するとされているが、関西の人にとって善光寺は遠く、江戸の人々が谷汲山での結願後に中山道を通って有名な善光寺参りをするためであろう。また、高野山金剛峯寺の奥の院、比叡山延暦寺の根本中堂、奈良の東大寺の二月堂、大阪の四天王寺をお礼参りの対象、あるいは番外霊場に含んでいる場合もあり、お礼参りは善光寺を含め5か所の中から一つを選べばよいとする説もある。もちろんこれらの2つ以上の寺院(これらのすべての寺院に参拝することも含む)にお礼参り、あるいは番外霊場として巡礼する場合もある。ただし、これらの寺院は、公式の番外寺院と異なり、番外札所ではなく番外霊場とされる。

 西国写し霊場
 西国霊場巡礼が盛んになると、地方の大名などが自分の居住する周辺に西国霊場を勧請して新たな観音巡礼を作るようになった。これを「西国写し霊場」という。最も早期の西国写し霊場は源頼朝創建と伝える坂東三十三観音であるが、これは鎌倉時代の天福2年(1234年)以前には既にあったという確実な史料があり、かなり古いものである。室町時代になると秩父に秩父三十四箇所も創建され、西国・坂東・秩父を合わせて「百観音」というようになり、百観音巡礼をする修験者なども増加した。

*Wikipedia より

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