いいもの見ぃ~つけた!

「いいもの」は探せばいっぱいあります。独断と偏見による個人的「いいもの」情報発信所です。

< 郷土料理 > 秋田 ハタハタ寿し

2024-02-25 09:51:52 | 郷土料理

 「ハタハタ寿し」

 主な伝承地域 沿岸中心に県内全域

 主な使用食材 ハタハタ、米、麹、にんじん、ふのり

 歴史・由来・関連行事
 ハタハタは元来深海に住む魚で、海が荒れて雷鳴がとどろくような時に、産卵期の一時期のみ大群で近海に現れることから、雷光の古語である「霹靂神(はたはたがみ)」の名をとってこう呼ばれるようになった。別名カミナリウオともいう。ハタハタは民謡「秋田音頭」にも唄われ、「ハタハタなしでは正月を迎えられない」と言われるほど、県民生活に深く根づいている魚。昔は年間1万トンを超える漁獲量を誇っていたが、乱獲や日本海の水温の変化などが原因で漁獲量が減った現在では、高級魚として扱われている。米どころ秋田らしく、米飯と麹をふんだんに使って作られるハタハタ寿しは、ハタハタ料理の中でも秋田の食文化には欠かせない。地域によって作り方に少し違いがあり、ハタハタをすぐに塩漬けする方法は昔から伝わる作り方。水にしばらく漬けてぬめりと血を除いてから処理する方法は麹の甘みがほどよくのって臭みのないすっきりとした味のハタハタ寿しになる。その風土に合った作り方が今日まで受け継がれている。

 食習の機会や時季
 ハタハタの頭、えら、内臓を取りのぞいて漬けた一匹ずしは大みそかや正月のお供え用として、一口サイズの切り身にして漬けた切りずしは正月料理に欠かせない一品。

 飲食方法
 洗って一口大サイズに切ったハタハタを、調味料を加えた酢水に3日間漬け込む。 桶に笹、麴ご飯、ハタハタ、にんじん、ふのり、ゆず、の順に重ね冷蔵室で発酵させる。

 保存・継承の取組(伝承者の概要、保存会、SNSの活用、商品化等現代的な取組等について)
 ハタハタ漁は八森の岩館海岸も有名だが、にほか市の平沢漁港も盛ん。現在は昔ながらの純手作り製法で作っているのは、明治時代からハタハタ卸専門店として受け継がれている「三浦米太郎商店」と「永田商店」の2軒のみ。

*https://www.maff.go.jp/j/keikaku/syokubunka/k_ryouri/search_menu/menu/29_2_akita.html より

 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

<おせち> 沖縄 田芋田楽

2024-02-25 09:47:23 | おせち

 「田芋田楽-ターンムディンガク」

 主な伝承地域 県内全域

 主な使用食材 田芋

 歴史・由来・関連行事
 「ターンムディンガク」は田芋をきんとんのように甘く練り上げた料理で、「サーターダーンム」と呼ばれることもある。脂っこい豚肉料理の後によく合いデザート的に用いられることもある。田芋は沖縄の特産品で、水のきれいな水田で栽培される里芋の一種で、水芋とも呼ばれ、沖縄県では「ターンム」と呼ばれ親しまれている。親芋の周りに子芋や孫芋が育つことから子孫繁栄の縁起の良い食材とされ、お祝いの料理には欠かせない食材。沖縄県産の田芋は独特の香りと粘りが持ち味で、特にお正月やお盆などに使われるが、収穫までに一年近くかかるため、農家では逆算して植え付けているという。店頭では生ではなく、蒸した状態で販売されている。全国でも沖縄県が有数の産地で、金武町や宜野湾市の大山が有名。田芋を使った料理には、田芋、ムジ(田芋の茎)、豚肉、椎茸、かまぼこをあらら切りにし、豚だしでじっくり煮込み練り上げた「ドゥルワカシー」、出産祝いに作られた「ムジの汁(ムジ、豚肉、豆腐のみみそ汁)」などがる。近年はパイやスイーツ作りにも用途が広がっている。 18世紀初頭の首里王府では正月元日には田芋を供え物とするなど、儀礼食に用いていた。また、本島北部地区でも「芋折り目」が盛んに行われており、芋は重要な儀礼食材であったことがうかがえる。

 食習の機会や時季
 お正月やお盆などのハレの日に並ぶ料理のひとつ。子孫繁栄の縁起ものである田芋を使っているため、特にお祝いの席では欠かせない。

 飲食方法
 田芋は皮をむき、熱湯で静かに5分ほどゆでてアク抜きをする。水気を切った田芋と水を鍋に入れて火にかけ、やわらかくなったら砂糖を加える。木べらでかき混ぜながら煮込み、きんとん状にする。器に盛り、レモンの皮やショウガのみじん切りをふりかける。田芋の練り具合は地域や家庭によってさまざまで、田芋の形を残したり、すべてつぶしたりと違いがある。

 保存・継承の取組(伝承者の概要、保存会、SNSの活用、商品化等現代的な取組等について)
 家庭で一般的につくられるほか、県内の飲食店でも味わえる。

*https://www.maff.go.jp/j/keikaku/syokubunka/k_ryouri/search_menu/menu/47_7_okinawa.html より

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

うまいッ! NHK「おでんの主役!源助だいこん~石川・金沢市~」

2024-02-25 09:44:32 | うまいッ!NHK

 うまいッ!「おでんの主役!源助だいこん~石川・金沢市~」 2013年11月10日

 番組内容
 ずんぐり愛らしい加賀野菜「源助だいこん」。はじけそうなほどみずみずしく、繊維のきめ細かさが特長。煮物に最適で出汁をよく吸収するため、金沢ではおでんの具材として人気の逸品だ。しかし、扱いは、とてもデリケート。鮮度が良くパンパンに張った状態で出荷したいが、冷え込む朝方に触れると、ひび割れる恐れがある。そこで深夜に収穫し、1本1本優しく抜き取るのだ。生産者の愛情がつまった源助だいこんの魅力を伝える。

*https://www.nhk.or.jp/archives/chronicle/detail/?crnid=A201311100615001302100 より

 詳細不明につき、勝手に調べてみました。

 金沢の「源助大根」のおでんは天下一品!源助の他におでんなし 2020/10/15

 源助大根(げんすけだいこん)をご存知ですか?

 源助大根は、石川県金沢市の伝統野菜「加賀野菜」15種類の1つです。

 どでんと太った大根で、「おでんにしたら天下一品の味」と言われています。

 今回は、そんな源助大根の歴史、味わい、おすすめの食べ方を、金沢の老舗八百屋が詳しく説明します。

 源助大根って、なに?

 源助大根(げんすけだいこん)は、加賀野菜(金沢の伝統野菜)15種類の一つ。

 おでんやふろふき大根、ぶり大根など、

 煮炊きしてたっぷり味をしみこませると、これ以上ない味わいです。

 金沢市打木町の篤農家・故松本佐一郎氏が生みの親。

 昭和7年に生育力の強い切太系を導入し、在来種との自然交雑によってできたものを毎年選抜。

 昭和17年に今の源助だいこんができあがりました。

 源助大根の味、食べ方

 煮るとプリプリ食感 生食では、ほんのり甘い。

 源助大根の食べ方の基本は2つ。

 煮炊きすることと、生で食べることです。

 煮炊きすると、ぷりぷりでとても柔らかくなるのに、

 不思議とあまり煮崩れしません。

 生で食べればとても瑞々しく、ほんのりとした甘さが感じられます。

 真っ先に「おでん」で食べるべし!源助大根のおでん

 源助大根は、おでんのためにあると言っても過言ではありません。

 かつては「源助大根のおでんは、天下一品!」と称されていたほどです。

 青首大根のような苦みは薄く、大根本来の味わいと風味が感じられます。

 煮崩れしないのに、ぷりぷりで柔らかい食感とみずみずしさ。

 ほろほろと口の中でとろけながら広がる味わいは、何とも言えません。

 みずみずしく、ほんのり甘い味わい!源助大根のサラダ

 煮炊きだけでなく、生食にも向いています。

 青首大根より水分を多く含み、とてもみずみずしく、ほんのり甘い味わいがあります。

 大根独特のクセが少ないため、サラダにすると、どんな野菜とでもマッチ。

 クセになる美味しさがあります。

 源助大根の今まで 一筋縄ではいかなかった源助大根の普及

 今ではおでんやサラダで愛される源助大根も、その普及には多くの苦難がありました。

 そもそも金沢の地物野菜として定着していましたが、やがて青首大根が市場を席捲するようになるのです。

 源助大根は、後継者不足が懸念されるようになりました。

 そんな中でも、「加賀野菜ブランドだから」と、作りたいという人が少しずつ、増えてくるようになります。

 しかし、「す」(中のちょっとした空洞)が入りやすい、形や大きさがそろわない、雨が降ると割れやすいなど、収穫を左右する複数の難点により、なかなか軌道に乗りません。

 源助大根の普及には、難しい課題が山積みとなっていました。

 「上質な源助大根」を追い求めて

 それでも生産者たちは諦めませんでした。

 肥料や収穫のタイミングを考え、いい種を持ち寄り、源助大根を何としても後世に受け継ぐべく、全員が一丸となって研究を重ねたのです。

 そんな生産者たちの、ひたむきで、たゆまぬ努力があって、やっと今の源助大根ができました。

 今では後継者の育成も進み、源助大根は着々と後世に受け継がれていっています。

 今でも地元金沢で、愛され続ける源助大根

 金沢市民は日本一おでんが大好き。

 源助大根をみかけると、とりあえずカゴに入れてしまう方も多くおられます。

 私たちHORITAの金沢の実店舗「堀他香林坊大和店」でも、源助大根が出回る時期になると、そんな光景を毎日のように目にします。

 「やっぱり源助大根は、金沢の人々にとって、あって当たり前の存在なんだなぁ」

 寒さの厳しい季節でも、源助大根をカゴに入れるお客様を見かけるたび、なんだかとっても微笑ましく、ほっと温かな気持ちになるものです。

 煮たり炊いたりした源助大根の味わいは、やっぱり唯一無二。

 その味わいは、金沢の人々の記憶の中に深く根付いているのでしょう。

 源助大根は、今でも金沢で愛され続けています。

 源助大根は、こだわりの大根

 源助大根は、決して万能な大根ではありません。

 辛みが少ない分、大根おろしには向いていませんし、その他にも様々な場面で物足りなさを感じることもあるでしょう。

 しかし、煮炊きや生食など調理法さえ合えば、源助大根は抜群の味わいを楽しませてくれます。

 それはまさに伝統野菜の真骨頂ともいえる味わい。

 料理にこだわる方にこそおススメしたい天下一品の大根なのです。

 まとめ

 金沢の加賀野菜の一つ「源助大根」は、おでんにすると天下一品と称されるほど、煮炊きして食べるのに向いている大根です。

 煮炊き以外にも、生食も向いており、みずみずしくほんのり甘さも感じられます。

 青首大根に市場を奪われたり、栽培が難しかったりといった数々の苦難を乗り越えた源助大根は、今でも金沢を中心に愛され続けています。

*https://www.e-horita.co.jp/column/honsha_20201015 より

 <伝統野菜> 石川 源助大根

https://blog.goo.ne.jp/admin/editentry/?eid=07072df6a4b7d6f49d7ea6ba19e1169c&sc=c2VhcmNoX3R5cGU9MSZsaW1pdD0xMCZzb3J0PWRlc2Mma2V5d29yZD0lRTYlQkElOTAlRTUlOEElQTklRTUlQTQlQTclRTYlQTAlQjkmcD0x

こちらもご参考に

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

<伝統野菜> 福岡 三池高菜

2024-02-25 09:31:22 | 伝統野菜

 「三池高菜」

 【生産地】みやま市瀬高町

 【特徴】特有の香気がある。

 【食味】ほどよい辛みと酸味がある。肉質が厚く、葉質が硬いが歯切れがよい。

 【料理】主に漬物業者との契約栽培。漬物「味付け高菜」「刻み高菜」など

 【来歴】明治20年に旧柳川藩主立花公の命により、立花家農事試験場において、中国渡来の「四川青菜(しせんたかな)」に在来種の「紫高菜(むらさきたかな)」を交雑させて生み出された優秀種。現在、栽培されている高菜は「三池高菜」で多肉高菜群品種。瀬高町を中心に水稲裏作で作られ、ピーク時の栽培では1,000haに達することもあった。「筑後高菜(ちくごたかな)」とも呼ばれる。

 筑後の矢部川の下流近くの川を挟むようにして並ぶ町並みが瀬高町。矢部川は、過去、何度も氾濫を繰り返したが、これにより付近の平野をうるおし、砂地で水はけの良い土地となった。三池高菜は、この肥沃な土壌で栽培される。

 【時期】4月上旬

*https://tradveggie.or.jp/40-fukuoka/#i-15 より

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

<異名-人物> 剣豪将軍

2024-02-25 09:27:36 | 異名

 「剣豪将軍 足利義輝」

 足利 義輝(あしかが よしてる、1536年3月31日〈天文5年3月10日〉- 1565年6月17日〈永禄8年5月19日〉)は、室町幕府の第13代征夷大将軍(在職:1547年1月11日〈天文15年12月20日〉 - 1565年6月17日〈永禄8年5月19日〉)。初名は義藤(よしふじ)。

*Wikipedia より

 当時『剣聖』として有名だった鹿島新当流の塚原卜伝(ぼくでん)を招き、その指導を受けると奥義『一之太刀』を伝授され、歴代征夷大将軍の中で『最も武術の優れた将軍』と言われるほどでした。

 また、義輝は新陰流(しんかげりゅう)の上泉信綱かみいずみのぶつなからも指導を受けたとも言われ、弓馬は小笠原長時から手ほどきを受けたという、まさに『剣豪将軍』。

*https://samuraishobo.com/samurai_10029/#%E2%97%86%E7%BE%A9%E8%BC%9D%E3%81%AE%E3%81%93%E3%81%93%E3%81%8C%E3%81%99%E3%81%94%E3%81%84%EF%BC%81%E3%80%80%E6%AD%B4%E4%BB%A3%E5%B0%86%E8%BB%8D%E5%B1%88%E6%8C%87%E3%81%AE%E3%80%8E%E5%89%A3%E8%B1%AA%E5%B0%86%E8%BB%8D%E3%80%8F%E3%81%A8%E3%81%AF より

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

<料理用語-和食> 黄身醤油

2024-02-25 09:11:23 | 料理用語

 「黄身醤油」

 合わせ醤油の一種。

 黄身と土佐醤油を合わせたもの。

*https://temaeitamae.jp/top/t2/kj/6_G/027.html より

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

<慣用句・諺> 倒るる所に土を掴む など

2024-02-25 09:00:04 | 慣用句・諺

 「倒るる所に土を掴む」

 「転んでもただは起きない」に同じ。-たとえ失敗した場合でもそこから何かを得ようとする。欲の深い、また、根性のある人のたとえ。転んでもただでは起きない。

 

 「タオルを投げる」

 ボクシングで、敗色濃厚で選手がこれ以上戦えないと判断して、その選手のセコンドがリング内にタオルを投げ入れ、試合の放棄を表明すること。転じて、意欲を喪失して中途でやめるたとえ。

 

 「倒れて後已む-たおれてのちやむ」

 《「礼記」表記から》死ぬまで努力しつづけて屈しない。

 

 「倒れても土を掴む」

 「倒るる所に土を掴む」に同じ。

 

 「高が知れる-たかがしれる」

 程度がわかる。大したことはない。

 

*goo辞書 より

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

<難読漢字-魚> 兜蟹

2024-02-25 08:53:59 | 難読漢字

 「兜蟹 かぶとがに」

 カブトガニ(甲蟹、兜蟹、鱟、鱟魚)は、鋏角亜門のカブトガニ目に属する節足動物の総称、またはそのうちのカブトガニ科カブトガニ属に分類される一種 Tachypleus tridentatus の和名である。

 カブトガニは背面全体が広く背甲で覆われ、脚などの付属肢はすべてその下に隠れている。名前はこの背甲に由来し、またその姿の類似からドンガメ、マンゴエイなどの地方名もある。

 日本では古くは瀬戸内海に多かった。取り立ててもなんの役にも立たず、図体が大きく漁では網を破るなど嫌われたようである。しかし、カブトガニは古生代の仲間の風貌を色濃く残した「生きた化石」であり、学術的な面から貴重であるとして天然記念物の指定を受けた場所もある。近年[いつ?]では環境汚染や埋め立てによって各地でその数を激減させている。

 本種を含むカブトガニ類は「カニ」と名づけられてはいるが、クモやサソリなどが含まれる鋏角類に分類されており、同じく節足動物だが、甲殻類であるカニではない。

*Wikipedia より

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

<日本酒メーカー> 岩手 菱屋酒造店

2024-02-25 08:47:21 | 日本酒

 「菱屋酒造店」

 弊社はリアス式海岸・浄土ヶ浜などで有名な岩手県宮古市の漁師町に蔵をかまえております。
 創業は嘉永5年(1852年)今から150年ほど前になります。
 ちなみにペリー提督が黒船で浦賀に来航した前の年になります。
 その時代から変わらずにお酒を造り続けてこれたのは宮古の自然と皆様のご支持のおかげと感謝しております。

 弊社では目下”現代の名工”に選ばれた辻村勝俊社氏の手による旨い酒”千両男山”の名前で製造、販売しております。
 日本酒は飲んだ時”おいしいと感じるもの”とは辻村社氏持論ですが、まさにその通りのおいしいお酒を色々取り揃えております。
 味わい深い純米酒、更に洗練された味の吟醸酒等々お好みに応じてお選びいただき、今晩の晩酌にひとついかがでしょうか。

 株式会社菱屋酒造店 岩手県宮古市鍬ケ崎下町5-24

 代表銘柄

 

千両男山 大吟醸

華やかでフルーティな吟醸香で、スーッと入るサラリとした飲み口。やや辛口の上品な味わいです。

大吟醸 鴻

精米歩合36%の兵庫県産山田錦を使用。
一番吟醸香の強いお酒です。

 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

<西国三十三所> 第2番札所 紀三井寺

2024-02-25 08:34:46 | 巡礼

 「紀三井寺」

 紀三井寺(きみいでら)は、和歌山県和歌山市紀三井寺にある救世観音宗(ぐぜかんのんしゅう)の総本山の寺院。山号は紀三井山。院号は護国院。本尊は十一面観世音菩薩(十一面観音)。寺号は金剛宝寺であるが、紀三井寺の名前で知られている。西国三十三所第2番札所。

 本尊真言:おん まかきゃろにきゃ そわか

 ご詠歌:ふるさとをはるばるここに紀三井寺 花の都も近くなるらん

 概要
 寺号は金剛宝寺と称し、宗教法人としての公称は護国院であるが、古くから紀三井寺の名で知られる。楼門前の石柱には「紀三井山護国院」、本堂前の石柱には「紀三井寺」とある。「紀三井山金剛宝寺」「金剛宝寺護国院」ともいう。宗派としては真言宗山階派に属していたが、1951年(昭和26年)に独立して救世観音宗総本山を名乗り、山内子院6か寺および末寺14か寺を包括する。

 寺域は紀ノ川河口平野の南部にある名草山(なくさやま、標高228.7m)の西側中腹(標高50m辺り)にあって、境内から和歌浦湾を一望のもとに収める。山内に涌く三井水(さんせいすい:吉祥水・清浄水・楊柳水)は紀三井寺の名の由来とされ、いずれも水源には慶安3年(1650年)の年記とそれぞれの名水の名を刻銘した砂岩製の水槽がある。これらの水槽は紀州藩主徳川頼宣の命により設けられたものである。また、三井水は1922年(大正11年)に昭和天皇が和歌浦に投宿した際に調理用水として献上されたほか、1985年(昭和60年)3月に環境庁(現、環境省)が選定した「名水百選」に選ばれている。境内は観桜の名所として名高く、日本さくら名所100選にも選ばれている。また、本堂向かって左の桜の木が和歌山地方気象台のソメイヨシノの標本木に指定されており、近畿地方では最も早く開花することが通例であることから、「近畿地方に春を呼ぶ寺」としても知られている。

 歴史
 開創
 伝承によれば、宝亀元年(770年)、唐の僧・為光が、日本各地を行脚していた時、名草山山頂から一筋の光が発せられているのを見た。光の元をたどって名草山に登った為光は、そこで金色の千手観音を感得した。為光は自ら十一面観音像を彫刻し、胎内仏としてその金色千手観音像を奉納し、草堂を造って安置し、千手観音を秘仏として納めたのが紀三井寺の始まりであるという。名草山に三つの霊泉(清浄水、楊柳水、吉祥水)があることから「紀三井山」という山号になったといわれるが、『紀伊続風土記』は付近の旧地名「毛見(けみ)」(毛見浦)が転じたものと伝える。

 中世から近世
 平安時代末期には後白河法皇によって当寺は勅願所と定められ、以後隆盛を極めた。

 紀三井寺の中世の寺領と記録について、『紀伊続風土記』は次のように伝える。

 〔前略〕合せて四十九町中世以後寺領とす。天正十三年豊臣太閤征伐の時、皆没収せらる。此ノ時寺に伝ふる所の綸旨院宣種々の文書等皆散失す。
 — 紀伊続風土記
 このため、中世の紀三井寺について詳しいことは分からないが、各種の資料から断片的に見出される記述からは、日前國懸社と深い関係にあると見られていたことが分かる。嘉禎4年(1238年)の日前宮文書によれば、毛見郷は日前宮領に属し、名草山を「三井之神山」と称しているほか、日前國懸社神主家57代国造紀俊文の詠歌にも名草山の名が見える。また、応永年間(1394年 - 1428年)には、日前國懸社の祭礼に警固の兵士を送ったという。その他、興国寺の開山たる心地覚心(法燈国師)が招かれて、紀三井寺の南に紀三井寺僧妙蓮のために建立された報恩寺仏殿の落慶法要を営んだと興国寺の記録にある。

 前出の通り、中世紀三井寺の寺領は49町を算したが、天正13年(1585年)羽柴秀吉による紀州征伐の際に没収されて失われた。慶長6年(1601年)、和歌山城主浅野幸長により紀三井寺村内の13石が寄進された。次いで、紀州徳川家初代の徳川頼宣によって8石と燈明料をが寄進されたほか、境内の地子が免じられ、正保4年(1647年)には境内における殺生が禁じられている。

 室町時代には西国三十三所ないし熊野詣での隆盛により、多くの参詣者が訪れた。中世の紀三井寺は多くの僧侶・子院が一体混然として一山を形成する一山寺院であって、妻帯僧が寺僧となり、本堂脇には造営・修造のための勧進を担う穀屋(今日の穀屋寺)があったという。寺僧の中からは、法用を勤める法橋として年老14名が充てられ、これを当寺の詠歌の詠み手でもある花山院の永宣旨によって許可されたというが、その永宣旨は伝来しない。穀屋は比丘尼寺であって、観音御影や牛玉宝印の木版を所持し、参詣者に配札していた。

 穀屋寺には複数の勧進関連の文書が伝来する。文安6年(1449年)の勧進状は、嘉吉元年(1441年)に何らかの壊滅的打撃(おそらく南朝残党と紀伊守護畠山氏の衝突による兵火)があったことを示唆する内容が記され、諸堂を再建したものの、なおも未成であった多宝塔復興のための勧進であった。大永2年(1522年)の勧進状では、堂舎修理のための勧進を仰いでおり、堂塔の再興修復が穀屋によって担われてきたことが分かる。また、元禄11年(1698年)の「穀屋寺移転ニ付口上書」は、天正13年(1585年)に穀屋比丘尼の春古は羽柴秀吉の紀州攻めに際して、秀吉との直接交渉に臨んで山内安堵の証文を得たことにより焼討を回避したと伝えており、このように積極的な活動を示した穀屋は、他の諸寺社にも見られるように堂舎の再興修復を通じて、それまで以上に大きな役割を果たし、寺内における地位を高めた。

 秀吉の紀州攻めの翌年、天正14年(1586年)に本願坊が創建され、後の明暦年間(1655年 - 1658年)に護国院と改称した。後に本坊となる護国院はそれ自体が本願勢力であり、初代の本願に任じられた良純房は、吉原村の出身で姓は林氏であったと伝えられる[8]。近世における徳川政権の寺院政策は、当初、それに先立つ織田信長・豊臣秀吉のそれと同じく、武装解除と中世以来の寺領没収、および新たな朱印領の賦与であったが、のちに寛文5年(1665年)の諸宗寺院法度において一山寺院に対する統一した政策が出され、その一環として寺内秩序や勧進活動への制限が行われたことにより、本願勢力は地歩を後退させられた。紀三井寺では、宝永2年(1705年)に穀屋寺が山麓の楼門外に移転させられ[8]、宝暦3年(1735年)には紀三井寺と本末関係が結ばれて、かつては寺内の有力子院であった穀屋寺はいち末寺に格下げされた。

 当寺は長らく真言宗山階派の寺院であったが、1951年(昭和26年)に独立して救世観音宗(ぐぜかんのんしゅう)の総本山となった。

 近年ではバリアフリーを強化しており、2020年(令和2年)11月13日には山腹の駐車場から本堂を結ぶエレベーターが設置された。次いで、2022年(令和4年)4月5日には紀三井寺ケーブルが完成し、楼門の下にケーブルカーの駅が設けられ、山腹の駅まで上がれるようになった[20]。ここから延びる道を進むとエレベーターに乗ることができる。

 境内

 JR紀三井寺駅から徒歩10分ほどのところに境内入口の楼門が建つ。そこから231段の急な石段を上りきったところが境内の中心部で、正面に六角堂、右手に2002年(平成14年)建立の新仏殿、左手には本堂などが建つ。本堂脇の石段をさらに上ったところには多宝塔などがある。楼門の下にはケーブルカーがあり、そこから平坦な道を進むとエレベーターに接続している。このエレベーターで本堂の横にまで行ける。

 本堂(和歌山県指定有形文化財) - 宝暦9年(1759年)再建。観音堂とも称す。入母屋造本瓦葺き、柱間は正面側面とも五間で、千鳥破風を付し、正面には唐破風形・三間の向拝を設ける。虹梁形の貫を用い、頭貫に木鼻を付し、台輪を乗せ、組物は三手先詰組とするなど、細部には禅宗様が用いられている。秘仏本尊の十一面観音像、秘龕仏の千手観音像などは、現在は裏手の大光明殿に移されている。高欄の擬宝珠金具は寛政元年(1789年)奉納のもの。西国三十三所札所として多くの巡礼者を迎え入れられるよう、外陣を開放とする。また、西国三十三所観音霊場のそれぞれの札所の本尊を模した33体の観音像も祀られている。
大光明殿 - 本堂の裏手に棟続きに建つ耐震耐火の収蔵庫(原則非公開)で、1983年(昭和58年)に完成した。殿内中央の厨子内には向かって左に秘仏本尊の十一面観音像、右に秘龕仏の千手観音像が安置される。紀三井寺の本尊とされるのは十一面観音像だが、千手観音像も本尊と同様に崇敬されている。両像とも50年に一度開扉の秘仏である。厨子外の向かって右には梵天像と本尊とは別の十一面観音像、左には帝釈天像と毘沙門天像を安置する(毘沙門天像を除く5体は重要文化財)。
 十一面観音立像 - 像高161.5センチメートル[23]。当寺の秘仏本尊。一木造、素地仕上げ。頭部のプロポーションが大きく、素朴な彫法の像で、平安時代、10世紀頃の作と推定される。
 千手観音立像 - 像高183.0センチメートル。平安時代、10 - 11世紀の作。本尊とともに安置される秘仏で、一木造、素地仕上げとする。千手観音の彫像は42手をもって千手とみなすのが通例だが、本像は奈良市の唐招提寺像などと同様、大手42本の他に多数の小手を表す「真数千手」像である。
 梵天・帝釈天立像 - 像高163.9および161.2センチメートル。平安時代、10 - 11世紀の作。本尊の両脇に安置され、「梵天・帝釈天」と称されているが、条帛(じょうはく)、天衣、裳を着けた像容は菩薩像のそれであり、本来観音菩薩像として造られた可能性が高い。梵天像は彫法が素朴で、彩色はほとんど剥落し、頭上には円筒形の冠があるのに対し、帝釈天像は衣文の彫技が細かく、彩色がよく残るなど、両像の作風には明らかな相違があり、元来一具ではなかったとみられる。
 十一面観音立像 - 像高156.7センチメートル。平安時代、10 - 11世紀の作。一木造、彩色はほとんど剥落。大光明殿内の向かって右端に安置。衣文の彫りが簡略で、素朴な作風の像である。
絵馬殿 - 本堂に接続している。
 大願洞 - 1987年(昭和62年)11月14日建立。絵馬殿の地下にある。祀られている救世観世音菩薩立像は愛知県の常滑焼の名工・片岡静観の作で、鋳物の仏像としては日本最大である。また、西国三十三所観音霊場のそれぞれの札所の本尊の絵・33枚を祀る。
 松下講堂 - 1969年(昭和44年)に松下幸之助の寄進によって建立。
 庫裏
 書院(御殿、和歌山県指定有形文化財) - 紀州徳川家の御成御殿。
 開山堂(和歌山県指定有形文化財)
 多宝塔(重要文化財)- 室町時代の建立。三間二層多宝塔造。文安6年(1449年)の勧進縁起が伝来することから同時期の建立と推定される。四天柱内の内陣に五智如来坐像を安置する。各種の絵様、彫刻、須弥壇に室町時代中期の様式を示す。
 春子稲荷
 三社権現(和歌山県指定有形文化財) - 白山妙理権現、熊野三所権現、金剛蔵王権現を祀る。三つの社を覆い屋が囲っている。
 大師堂(和歌山県指定有形文化財)
 鐘楼(重要文化財) - 安土桃山時代の建立。重層袴腰入母屋造。寺伝では天正16年(1588年)安部六太郎の再建という。天明元年(1781年)に加修、1937年(昭和12年)に大修理を行った。旧鐘は文禄・慶長の役の折に没収されて筑後国に移されたが現存しない。
 六角堂(和歌山県指定有形文化財) - 寛延年間(1748年 - 1751年)に初代・二代目雑賀弥左ェ門による建立。西国三十三所観音霊場のそれぞれの札所の本尊を模した33体の観音像を祀る。
 大樟龍王社 - 祭神:樟樹(和歌山市指定天然記念物)
 仏殿 - 鉄筋コンクリート造3階建の新仏殿で、建物全体の形は五輪塔に擬している。2000年(平成12年)に起工し、2002年(平成14年)に竣工。高さ25メートル。最上階は展望台となっている。内部には高さ12メートルの木造千手観音立像(寺では「大千手十一面観世音菩薩像」と呼ぶ)を安置する。この観音像は仏師松本明慶の工房の作品で、京都の工房で制作した寄木造の像を現地で組み上げたものである。耐震性を考慮して、内部には鉄製の心棒を立て、枠木で像を固定している。寺では、寄木の立像としては日本一のものであるとしている。像は2002年(平成14年)から制作を開始し、2007年(平成19年)に完成、2008年(平成20年)5月21日に入仏落慶供養が行われた。
 白龍大明神社
 結縁坂 - 本堂へと向かう231段の急な石段。紀伊國屋文左衛門が若い頃、母を背負って観音様にお詣りをしていた時、和歌浦湾を間に挟んで紀三井寺の真向かいにある玉津島神社の宮司の娘「おかよ」と出会い、二人は結ばれた、という話が名の由来となっている。後に、文左衛門は玉津島神社宮司の出資金によって船を仕立て、蜜柑と材木を江戸へ送って豪商となった。
 エレベーター - 2020年(令和2年)11月13日完成。山腹の駐車場にあり、これで本堂の横まで上がることができる。
 紀三井寺ケーブル - 2022年(令和4年)4月5日に完成したケーブルカー。楼門の下に設けられている。
 西国三十三所石仏群 - 西国三十三所観音霊場のそれぞれの札所の本尊を模した33体の石造観音像が、エレベーターとケーブルカーとを結んでいる道に並べられている。
 楼門(重要文化財) - 寺伝では永正6年(1509年)に再建。参道正面、境内への入口に建つ楼門。三間一層入母屋造。永禄2年(1559年)に修理されている。下階中央間は開放で扉がなく、正面両脇間に仁王像を安置している。
 石造閻魔大王坐像 - 2019年(令和元年)12月造。
 祇園社
 塔頭
 穀屋寺 - かつては本堂の横にあった有力な寺院であったが、宝永2年(1705年)に現在地に移転させられた。
 普門院
 瀧本院
 松樹院
 宝蔵院
 善壽院
 

 三井水
 和歌山市指定名勝。紀三井寺の寺名のもととなったとされる「清浄水」、「楊柳水」、「吉祥水」の3つの湧き水である。紀三井寺の三井水(さんせいすい)として名水百選に選定されている(1985年〈昭和60年〉)。清浄水は参道石段の途中右側にある小滝である。楊柳水はそこから小道を入った突き当たりにある井戸。吉祥水は境内からいったん楼門を出て右(北)へ数百メートル行ったところにある井戸である。楊柳水と吉祥水は荒廃していたのを20世紀末に復旧整備したものである。

 文化財
 重要文化財
 護国院楼門 1棟 - 1908年(明治41年)4月23日指定。
 護国院鐘楼 1棟 - 1908年(明治41年)4月23日指定。
 護国院多宝塔 1棟 - 1908年(明治41年)4月23日指定。
 木造千手観音立像 - 秘龕仏。秘仏。
 木造十一面観音立像 - 秘仏本尊。
 木造十一面観音立像
 木造梵天・帝釈天立像
 重要文化財の仏像はいずれも平安時代中期から後期の作品である。

 和歌山県指定有形文化財
 護国院本堂 1棟 - 1974年(昭和49年)4月9日指定。
 護国院開山堂 1棟 - 2016年(平成28年)3月15日指定
 護国院六角堂 1棟 - 2016年(平成28年)3月15日指定
 護国院大師堂 1棟 - 2016年(平成28年)3月15日指定
 護国院三社権現 3棟 - 2016年(平成28年)3月15日指定
 護国院書院 1棟 - 2016年(平成28年)3月15日指定

  和歌山市指定有形文化財
 木造天部立像 1躯
 絹本著色地蔵菩薩立像 1幅
 木彫釈迦如来像 1躯 - 彫刻。遍照院所有。1969年(昭和44年)12月11日指定。
 穀屋寺紙本着色紀三井寺縁起絵図(紀三井寺参詣曼荼羅)・紙本着色熊野観心十界曼荼羅 各1幅 - 絵画。1969年(昭和44年)12月11日指定。

 和歌山市指定名勝

 紀三井寺の三井水 3箇所 - 1967年(昭和42年)2月14日指定。
 吉祥水・清浄水・楊柳水

 和歌山市指定天然記念物
 紀三井寺の樟樹 1本 - 1967年(昭和42年)2月14日指定。
 紀三井寺の応同樹 1本 - 1969年(昭和44年)12月11日指定。

 年中行事
 1月18日 - 初観音
 4月第1土曜 - 文塚(迷子郵便)供養
 4月18日 - 春会式
 7月7日 - 七夕祇園まつり
 8月9日 - 千日詣
 8月15日 - 灯篭供養
 11月13日 - 開山忌
 12月18日 - しまい観音

 紀三井寺  和歌山県和歌山市紀三井寺1201

*Wikipedia より

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする