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<異名-スポーツ選手> ガラスのエース

2024-09-06 06:19:32 | 異名

 「ガラスのエース」

 ケガがなければ…”ガラスのエース”と称される投手5人 3/12(火) 21:20配信 ベースボールチャンネル

 プロ野球の世界には、いつの時代にも離脱さえしなければ球界を代表する選手であろうという「ガラスの天才」がいる。特に投手においては、肩や肘の故障により、誰もが認めるポテンシャルを持ちながら、本来の投球ができない悲運な投手が数多く存在する。今回はガラスのエースを紹介する。

 「斉藤和巳」

 ダイエー、ソフトバンクの絶対的エースとして君臨し、2003年には日本一の原動力となった斉藤和巳。南京都(現・京都廣学館)高からドラフト1位で指名された斉藤は、プロ2年目に一軍デビュー。しかし同年は、1試合登板、防御率27.00と結果を残すことはできなかった。
 
 伸び悩むシーズンが続いていた斉藤だったが、2000年に5勝をマーク。翌年は右肩痛に苦しんだが、2002年は10試合登板ながら4勝1敗、防御率2.94と飛躍のきっかけを作った。そして2003年、エースとして覚醒した斉藤は、20勝3敗、勝率.870、防御率2.83という脅威成績を残し、日本一に大きく貢献。自身は最優秀防御率、最多勝、最高勝率、さらには沢村賞などを受賞した。
 
 2004年は不振に陥ったが、2005年は本来の実力を発揮。さらに2006年は26試合(201回)を投げ、18勝5敗(うち5完封)、勝率.783、205奪三振、防御率1.75と傑出の数字を並べ、投手5冠と2度目の沢村賞に輝いた。しかし、2007年は登板数を減らし、翌年は3度目となる右肩手術を決断した。
 
 その後、長い期間を要してリハビリに励んだ。2011年には三軍リハビリ担当コーチに就任。以降も選手としての復帰を目指していたが、念願は叶わなかった。現役最後の一軍登板は、2007年クライマックスシリーズ(CS)第1ステージ初戦の先発マウンド。まさに、記憶に残るエースだった。

 「伊藤智仁」

 先発・リリーフの両輪で活躍したヤクルト・伊藤智仁も、”ガラスのエース”と言える1人だろう。社会人野球・三菱自動車京都(現在は廃部)でプレーしていた1992年には、バルセロナ五輪の日本代表に選出。1大会(3試合)27奪三振の快投を披露し、銅メダル獲得に大きく貢献した。

 大きな期待を背負って入団した伊藤は、1年目からエースとして君臨。夏場に離脱して規定投球回には届かなかったが、14試合(109回)を投げ、7勝2敗、5完投4完封、126奪三振、防御率0.91と圧巻の成績を残し、新人王に輝いた。

 しかし、ルーキーイヤーに痛めた右肩の状態が思わしくなく、翌年から2年連続一軍登板なし。その後はリリーフに活路を見出し、1997年は34試合登板で7勝2敗19セーブ、防御率1.51と復活を遂げ、カムバック賞を受賞した。

 1998年からは先発に復帰し、3年間で22勝を挙げたものの、2001年に右肩・肘痛が再発。リハビリに努めて2003年の2軍戦で登板を果たすが、満身創痍の状態だったことは明らかだった。同年限りで引退を表明した伊藤。2021年からはヤクルトの一軍投手コーチに就任し、指導者として日本一達成に尽力した。

 「館山昌平」

 数多く右肘にメスを入れ、幾度となくマウンドへ帰還した不屈の右腕・館山昌平。彼のプロ野球人生は、まさに怪我との闘いと言っていいだろう。

 日本大から入団した館山は、1年目の2003年から先発としての登板機会を得る。ただ、初勝利を挙げることはできず、2004年のキャンプで右肘を痛めて右肘靱帯再建手術(通称:トミー・ジョン手術)を受けた。同年は一軍登板なしに終わったが、翌2005年に復帰すると、プロ初勝利を含む2桁10勝を記録した。

 その後は先発、リリーフの両輪で登板を重ね、先発に専念した2008年は12勝3敗、勝率.800、防御率2.99の成績で最高勝率のタイトルを獲得した。同年から5年連続2桁勝利をマークし、2009年には最多勝(16勝)を戴冠。防御率も2点台を記録することが多く、右のエースとして高い安定感を誇った。しかし、2013年シーズンの開幕直後、再びトミー・ジョン手術を受けることとなった。

 2014年にも3度目の手術を決断。苦しいリハビリが続いたが、館山は再びマウンドに帰ってきた。2015年6月28日の巨人戦で、814日ぶりの一軍復帰登板。同年は6勝を挙げ、ヤクルトのリーグ優勝に貢献した。2019年限りで現役を引退した館山。度重なる困難を乗り越え掴んだ通算85勝は、誰よりも重みのある勝利数ではないだろうか。

 「与田剛」

 プロ1年目から中日の守護神を任された与田剛は、「リリーフエース」として強いインパクトを残した。

 亜細亜大時代に目立った活躍こそなかったが、社会人野球のNTT東京でプレーを続行。すると、国際親善試合の日本代表入りを果たすなど急激な成長を遂げた。1989年のドラフトでは、中日から1位指名を受けた。

 150km/hを超える剛球を武器に、1年目から抑えとしてフル回転。31セーブを挙げて最優秀救援投手(現・最多セーブ)と新人王を同時受賞した。しかし、50試合登板で88イニングを投じ、翌年以降は苦しいシーズンを過ごすことになる。

 1991年は背筋痛の影響を受け、登板数は29に減少。翌年は41試合登板で23セーブと復活したが、1993年には両足首を故障。その後も度重なる怪我に悩まされた与田は、ロッテ、日本ハム、阪神と移籍を繰り返したものの、ルーキーイヤー以上の輝きを取り戻すことはできなかった。

 「今中慎二」

 山本昌らとともに、1990年代の中日ドラゴンズを支えたのが今中慎二だ。力強いストレートとスローカーブを武器とした緩急自在のピッチングで、数多くの強打者を翻弄した。

 大阪産業大高大東校舎(現・大阪桐蔭高)では、甲子園の出場経験こそないものの、プロから注目を集める存在だった今中。ドラフト1位入団を果たすと、プロ2年目の1990年に2桁10勝を挙げる。その後も先発ローテーションの一角を担ったものの、1992年の試合中に打球が左手を直撃して骨折。約2か月間のリハビリを要した。

 ただ、このリハビリ期間中にスローカーブの習得に成功。すると、1993年はキャリアハイの17勝、247奪三振、防御率2.20と圧巻の成績で最多勝利や最多奪三振などのタイトルに加えて、沢村賞も受賞した。同年はリーグ最多の249イニング、14完投という数字も残し、ドラゴンズに欠かせないエースとして君臨する。

 しかし、1996年の14勝を最後に成績は低迷した。左肩の状態が思わしくない中での登板は、患部にさらなる負担をかけてしまい、30歳で現役引退。引退会見で発した「後悔はありません。ただ、悔いはあります」という言葉は、今中の本音が垣間見える言葉と言えるだろう。

 ベースボールチャンネル編集部

*https://news.yahoo.co.jp/articles/7a384c180d3ca8d513f34837dde7367cc209a4b5?page=1 より


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