「早田ひな」 銅-卓球・女子シングルス 銀-卓球・女子団体
*https://www.sankei.com/paris2024/medalist/?qrkydog_paris2024_page=PROFILE-1931100-------------------- より
早田 ひな(はやた ひな、2000年7月7日 - )は、日本の卓球選手。福岡県北九州市戸畑区出身。左シェーク両面裏ソフトドライブ型。ITTF世界ランキング最高位はシングルス4位、ダブルス1位。段級位は7段。Tリーグは日本生命レッドエルフ所属。同年生まれの平野美宇、伊藤美誠らと共に日本の「女子卓球黄金世代」の1人でかつては控え選手の立場であったが、2020年の全日本シングルスで優勝して以降は日本女子卓球の筆頭格となった。
*Wikipedia より
卓球 女子シングルス 早田ひな 銅メダル パリオリンピック 2024年8月3日 23時56分 NHK NEWS
パリオリンピック、卓球女子シングルスの3位決定戦で、早田ひな選手が韓国の選手にゲームカウント4対2で勝って、銅メダルを獲得しました。
目次
早田ひな 平野美宇を破った相手を退け銅メダル
早田ひな 腕を痛めて「試合直前に注射」
【解説】“二人三脚でつかんだ銅メダル” 卓球 早田ひな
早田ひな 平野美宇を破った相手を退け銅メダル
卓球の女子シングルスは3日、パリ市内の「パリ南アリーナ」で3位決定戦が行われ、世界ランキング5位の早田選手は、準々決勝で平野美宇選手を破った世界8位で韓国のシン・ユビン選手と対戦しました。
早田選手は、第1ゲームは持ち味のフォアハンドが決まらず、ミスが続いて9対11で落としましたが、第2ゲームは緩急をつけた攻撃で流れを引き寄せ、4連続ポイントを奪うなどして13対11で取り返しました。
続く第3ゲームは、7対10とリードされた場面で力強いフォアハンドが次々と決まり、一気に5連続ポイントを奪って12対10で連取しました。
早田選手は、このあとも勢いを失わずに第4ゲームを11対7で取り、第5ゲームは10対12で落としましたが、第6ゲームを11対7で奪い返して、ゲームカウント4対2で勝ちました。
早田選手は、「2日前の試合で腕を痛めていた」ということですが、日本女子のエースとして初出場したパリ大会で意地を見せ、銅メダルを獲得しました。
早田ひな 腕を痛めて「試合直前に注射」
女子シングルスで銅メダルを獲得した早田ひな選手は「おとといの試合中に腕を痛めてしまい、きょうの試合開始の5分前まで2割から3割ほどの力しか出せない感覚だったが、試合直前に注射を打ってもらって『もしかしたら行けるかも』と思えた。試合中は後悔しないように、どんな結果になっても最後までやり続ける気持ちで、1ゲーム1ゲームを戦いました」と話していました。
注目
“黄金世代” エースに成長してつかんだ銅
初めてのオリンピックで、日本のエースとして女子シングルスで銅メダルを獲得した早田ひな選手。準決勝以降は、左腕のけがに苦しみながらも、最後までラケットを振り続けました。
24歳の早田選手は、平野美宇選手、伊藤美誠選手と同い年で“黄金世代”と呼ばれ、3人で切磋琢磨して卓球界をけん引してきました。その卓球人生は幼い頃から活躍してきた2人とは対照的。早田選手は中学、高校と1歩ずつ着実に実力をつけ2人と肩を並べる存在へ。
しかし、前回の東京大会では、同世代の2人が代表に選ばれるなか早田選手は選考から漏れ、リザーブメンバーとして日本チームを支える役割に徹しました。この悔しさをバネに大きな成長を遂げます。
2021年のアジア選手権では、女子シングルスと女子団体、それに混合ダブルスで優勝し、3冠を達成すると、2023年には世界選手権の準々決勝で中国選手を破るなどして銅メダルを獲得。パリオリンピックの代表選考レースでも今度は平野選手、伊藤選手に圧倒的な差をつけてシングルス代表の座を勝ち取り、名実ともに日本のエースとなりました。
そして迎えた、自身初めてのオリンピック。混合ダブルスでは初戦で敗れたものの、シングルスでは順調に勝ち進み、目標としてきた世界ランキング1位の孫頴莎選手と準決勝で対戦。早田選手は利き腕の左前腕部に痛みを抱え、万全の状態で試合ができず、ストレート負けを喫しました。
それでも試合後「いろんな方がサポートしてくれてけがの回復に努めているので、3位決定戦ではしっかり気持ちに応えられるように全力で銅メダルを目指したい」と前を向きました。
3位決定戦の相手は、平野選手を準々決勝で破った韓国のエース、シン・ユビン選手。痛み止めの注射を打って試合に臨んだ早田選手は、強化してきた多彩なサーブや持ち味の強烈なフォアハンドなどで主導権を握りました。
勝利のあと、早田選手は涙を流しながらこれまで支えてきた石田大輔コーチと喜びを分かち合いました。
同世代の2人を追うように成長し多くの支えを受けてつかんだ銅メダル。しかし、戦いはまだ終わりません。打倒・中国を掲げてきた団体戦が待っています。シングルスに続くメダル獲得へ。より良い色を目指して、エースの自負を胸に戦い続けます。
出身の北九州市ではメダルに沸く
早田ひな選手の出身地の北九州市では3日パブリック・ビューイングが行われ、大声援を送った市民らが勝利の喜びを分かち合いました。北九州市小倉北区にある映画館「小倉昭和館」で行われたパブリック・ビューイングには、早田選手に声援を送ろうと市民らおよそ150人が集まりました。
試合前、地元の応援団の団長を務める井上修さんは「幼いころから応援しています。今までの練習の成果を発揮して笑顔で元気よく試合に臨んでほしいです」と話していました。
試合は、早田選手が第1ゲームを落としたものの、その後、粘り強く戦い、ポイントを重ねるたびに大きな拍手が起きていました。そして迎えた第6ゲーム。試合を優位に進めた早田選手の勝利が決まると、会場は大歓声に包まれました。
中学校のときの同級生の石田早優さんは「友達として遊んでいた人がメダルを取ったことは『まさか』という感じで驚きました。みんなでお祝いしてあげたいです」と話していました。
また、同じく中学校の同級生の廣松奈夏さんは「東京オリンピックに出られず、悔しい気持ちもあったと思いますが、メダルを取ることができてうれしいです。帰国したらお疲れさまと言ってあげたいです」と話していました。
北九州市の武内和久市長は「北九州市で育ち練習した人が世界で3位になるとは、わがまちの誇りです。すばらしいゲームをありがとうございました」と話していました。
*https://www3.nhk.or.jp/news/html/20240803/k10014535981000.html より
“二人三脚でつかんだ銅メダル” 卓球 早田ひな【解説】 2024年8月4日 5時04分 NHK NEWS
「神様に意地悪をされましたけど最後『お前なら乗り越えられる』と言われてるのかなと思って、乗り越えることができて良かった」
パリオリンピック、卓球女子シングルス。日本のエースとしての成長を支えてきた左腕が悲鳴をあげ、痛み止めの注射を打って臨んだ試合で、早田ひな選手は銅メダルを獲得しました。
「私より卓球を好きな人はいない」と断言し、“卓球マニア”を自称するほど、卓球愛にあふれる早田選手をこの10年間、ずっと支えきたのが石田大輔コーチでした。 (スポーツニュース部 記者 森脇貴大)
“この子は絶対に五輪でメダルを取れる”
早田選手が卓球を始めたのは4歳のころ。
先に始めていた姉の卓球教室の送り迎えについていっていたのがきっかけで、そこが石田コーチの両親が指導している教室でした。
1メートル67センチの女子の卓球選手としては長身の早田選手の持ち味は、左腕から繰り出す男子顔負けの強烈なフォアハンド。
しかし、実は卓球以外はすべて右利き。
卓球で左打ちにしたのは、石田コーチの母の「この子は足は左利きなんじゃないか。その足の力を利用したパワーを生かせる」という助言からでした。
そして、石田コーチの両親が早田選手を指導したあと「ひなのドライブを世界一にしてね」と託され、当時、勤めていた会社を辞めて早田選手の指導に専念したのが石田コーチでした。
当時について「早田選手の努力と姿勢を見たときに、この子なら絶対にオリンピックでメダルをとれると思った」と振り返ります。
10年間 支え続けたコーチ
それから10年、石田コーチは、卓球の指導や戦術の考案はもちろんのこと、早田選手の食事づくりまでありとあらゆる面で支え続けてきました。
シングルスのエースとして臨んだ初めてのオリンピックの舞台。
準々決勝の北朝鮮の選手とのフルゲームの激闘を終えたあと、早田選手の左腕が疲労の蓄積などもあって悲鳴をあげたのです。
世界ランキング1位の孫頴莎選手との準決勝では、痛みから本来の実力を発揮できず、ストレート負けしました。
3位決定戦まで残された時間はおよそ20時間。
自分ができる最大限のサポートを
準決勝後、7時間にもおよぶ医師の治療をうけたという早田選手を石田コーチは「自分ができる最大限を」と懸命にサポートをしました。
みずからも腕にテーピングをし、動きにどんな制限が出るか実際に確かめたうえで、早田選手と一緒に戦術を考えました。
そのうえで試合開始の5分前に痛み止めの注射を打つと、早田選手は「やれるかもしれない」とコートに出ました。
試合が始まると石田コーチは、強化してきた多彩なサーブを有効に使うことなどともに考えた左腕の負担を抑える戦術をアドバイスし、笑顔を絶やさず、早田選手を鼓舞し続けました。
二人三脚でつかんだ銅メダル
そうしてたどり着いた銅メダル。
勝利を決めたあと早田選手は石田コーチのもとに駆け寄り、抱き合って喜びを分かち合いました。
試合後、石田コーチは「奇跡です。本当に努力が報われて良かった。金メダルとはいかなかったが、その価値に値すると思う」と話したうえで、「準々決勝まではやっぱりすごいな、楽しいなだったが、左腕の痛みが出て急にまずい、まずいとなって、これはもうだめだ、どうしようってところからのメダル獲得。世界一のジェットコースターに乗ってるみたいな感じ」と笑顔で話しました。
一方、早田選手は「けがをしてからずっと隣で支えてくれて、石田コーチには感謝しきれないほど感謝している。銅メダルを獲得できて少し恩返しができたかなという思いはある。周りの人のたくさんのサポートがあってできたことなので、私の中では金メダルより価値がある」と話しました。
石田コーチの両親が見いだした卓球での左打ち。
それを10年かけて開花させ、二人三脚でつかんだ銅メダルです。
*https://www3.nhk.or.jp/news/html/20240804/k10014536371000.html より
早田ひな「4年後に金を」 パリ五輪 卓球日本代表の報告会 2024年8月27日 20時51分 NHK NEWS
パリオリンピックに出場した卓球日本代表の報告会が開かれ、団体とシングルスで2つのメダルを獲得した早田ひな選手は「4年後に金メダルを取るために頑張っていきたい」とさらなる飛躍を誓いました。
日本卓球協会が東京 港区のホテルで開いた報告会には、早田選手のほか、平野美宇選手と張本美和選手、それに張本智和選手と篠塚大登選手のパリオリンピック日本代表の5人の選手が出席しました。
女子は団体で4大会連続のメダルとなる銀メダル、シングルスで早田選手が銅メダルを獲得しましたが、メダルが授与されたのは選手だけだったため、報告会では、女子の3人の選手から渡辺武弘監督に協会が作った特製のメダルが贈られました。
そのあと、選手たちがあいさつし、2つのメダルを獲得した早田選手は「腕のけがをしたときは棄権するのではないかという気持ちもあったが、1%でも可能性があるのであればコートに立ち続けようと思い、戦うことができた。4年後に金メダルを取るために自分に厳しく、期待に応えられるように頑張っていきたい」とさらなる飛躍を誓いました。
また、メダル獲得はならなかった男子のエース、張本選手は「3種目に出場して1つもメダルを取れなかったのはすごく悔しいが、自分ができる最高のプレーができたと胸を張って言える。次の4年間、プレーの戦術などを増やして、後悔がないように努力していきたい」と話していました。
選手たちには協会の規程に基づいて報奨金が贈られ、銀と銅の2つのメダルを獲得した早田選手は500万円の目録を受け取りました。
*https://www3.nhk.or.jp/news/html/20240827/k10014561351000.html より