ねこ庭の独り言

ちいさな猫庭で、風にそよぐ雑草の繰り言

画期的な判決

2019-03-02 13:16:12 | 徒然の記

  2月20日の千葉日報の記事を読み、世の中の流れが少しずつ変化していると、感じさせられました。記事の最初の部分を、そのまま転記いたします。

 「2011 ( 平成23 )年10月に、大津市の市立中2年の男子生徒(当時13)が、」「自殺したのは、いじめが原因だとして、」「遺族が、加害者側の同級生3人と保護者に、」「慰謝料など計約3850万円の損害賠償を求めた、」「訴訟の判決で、大阪地裁 (西岡繁靖裁判長 ) は、」「19日、いじめが自殺の原因になったと認め、」「請求のほぼ全額となる、3750万円の支払いを命じた。」

 今から8年前の事件ですから、私も記憶が薄れていますので、ネットで再確認してみました。

 「大津市内の中学校で発生した出来事で、」「複数の同級生が、体育館で、男子生徒の手足を鉢巻きで縛り、」「口を粘着テープで塞ぐなどの、行為を行った。」「生徒らは、被害者宅を訪れ、自宅から貴金属や財布を盗んだ。」「被害者は、自殺前日に自殺を仄めかすメールを加害者らに送ったが、」「加害者らは相手にしなかった。」

 「男子生徒は10月11日、自宅マンションから飛び降り自殺した。」「被害者の自殺後も、加害者らは、自殺した生徒の顔写真に穴を空けたり、」「落書きをしたりしていた。」「学校と教育委員会は、自殺後に、」「担任を含めて、誰もいじめの事態に気付いていなかった、」「知らなかったと、一貫して主張していた。」

 「後の報道機関の取材で、学校側は生徒が自殺する6日前に、」「生徒が、いじめを受けているとの報告を受け、」「担任らが、対応を検討した事は認めたが、」「当時はいじめではなく、喧嘩と認識していたと説明した。」「学校側と、監督する教育委員会も、」「当初自殺の原因は、いじめではなく、家庭環境が問題と説明していた。」

  「クラス担任は、自殺した生徒より、」「相談や暴力行為の報告を受けていたが、適切な対応をとらなかった。」「自殺後の保護者説明会にも、姿を見せず、事件直後より、」「平成25年3月まで休職してしまい、教育委員会や第三者調査委員会の調査にも、」「支障をきたした。また遺族には謝罪を行わなかった。」
 
 ネットの情報を読みながら、当時のことが思い出されました。担任も学校も知らなかったといい続け、死んだ生徒への配慮より、加害者である生徒を擁護し、学校の責任を否定していました。裁判になりますと、お定まりの人権派弁護士が現れ、加害者の弁護を第一とし、亡くなった生徒の人権は無視します。
 
 大津事件だけでなく、いじめ事件のパターンは、いつも同じです。何人もの生徒が亡くなり、遺族が悲しみに暮れても、加害者の生徒や親達は、学校と教育委員会の厚い壁に守られ、何の罪にも問われません。「二度とあってはならないこと。」「きめ細かな、対策が必要。」「再発防止の検討委員会を立ち上げ。」・・・抽象的な決まり文句が報道され、いつか事件がうやむやになります。
 
 大津事件の一年前の、平成22年に、桐生の新里東小学校で、六年生の女子児童が、いじめを苦にして自殺しました。この時にも学校側は、いじめの事実はなかったと言い、数日後にいじめの事実があったことを認めました。それでも、自殺との因果関係は、分からないと言い続けました。
 
 当時のブログの内容が、そっくり大津事件に当てはまりますので、転記いたします。

 「今回だけでなく、以前から疑問に思っているが、」「亡くなった生徒への、学校の対応には、釈然としないものがある。」「新里東小学校ばかりではない。死んだ生徒に対する、お粗末な扱い方は、」「同様の事件を起こした学校に、驚くほど共通している。」

 「その曖昧さと無責任さは、これが教育界の風土かと、」「失望を覚えさせられる。」「問題を大きくしたくない、なるべく平穏に納めたいと、」「学校に見られる隠蔽体質は、いったい何なのだろう。」「四角四面なことを言いたくはないが、教育者は、現実の世界がどうであれ、」「人の道や社会正義、人間の誠や真実というものを、」「生徒たちに、教える立場にあるのではないだろうか。」「学校の醜態を目にしながら、いったい生徒たちは、何を学びとるのだろう。」

 「いじめは陰湿で、凶暴で、他人に相談すれば、」「倍返しになる辛いものであり、口先だけの小言や注意では、」「無くならないのだと、生徒たちは知っている。」「死んだ子が哀れまれ、何分かの黙祷で、お仕舞いになり、」「抽象的な注意のみで、明日からの対策がないのなら、」「いったいどの子が、教師や親に相談をするだろうか。」

 「人間は腕力で傷つけられるだけでなく、言葉の暴力によっても、傷つくと言うこと。「言葉の暴力で、人が死ぬと言うことを、」「学校はもっと真剣に教えるべきなのだ。」

 「他人をいじめて死に至らせるのは、悪事であり、犯罪であると、」「シッカリ説明しなくてならない。」「いじめる子はもちろんのこと、見て見ぬ振りをする子も、」「悪事に加担していることになると、ハッキリ告げるのが、真の教育でないのか。」

 長いので止めますが、9年前のブログなのに、そのまま同じ言葉が使えます。確かにいじめ事件の責任は、学校だけにあるのではありません。半分は親の責任です。声高に、高圧的に、権利を主張する親が増え、教師たちはその対応に時間を取られるだけでなく、心の病にかかっているという事実を、どれだけの人が知っているのでしょう。

 私が聞くところでは、親からの電話を担任だけに任せず、苦情対応の専任教師を採用している学校もあるといいます。ここからは私の偏見となりますが、戦後の教育で、「自由と人権」が大きな比重を占め、これを反日・左翼の教師たちが拡大解釈しました。何にでも自由に意見を言うべし、権利を主張すべしと、さんざん生徒に教えた結果、育った親たちがこれです。

 自分の責任は棚に上げ、権利だけを主張するという、無責任な親が沢山育ちました。私もそんな親の一人ですから、口幅ったいことは言えませんが、ここまで「いじめ事件」の異常さが露わになった今となっては、教育も軌道修正する時が来ています。

 いじめ事件を助長させたのが、いわゆる「人権派弁護士」とやらで、加害者である生徒の人権だけを守るという、偏った活動を全国展開しています。亡くなった生徒にも、人権があるはずなのに、一瞥もせず、加害者の人権と未来を弁護します。偏見という点では、私も負けないつもりですが、人権派弁護士には叶いません。

 反日・左翼の人権派弁護士と、反日・左翼の裁判官が、我が国の法曹界を席巻していますため、出る判決も偏っていました。未成年という厚い壁に守られ、人殺しの生徒たちは、野放しにされてきました。

  だから私は、大阪地裁の西岡繁靖裁判長の判決を、「画期的な判決」と感じました。人権も自由も大切なものですが、「行き過ぎ」は是正されなくてはなりません。この判決は、世の流れを変えるものになるだろうと、久しぶりに嬉しい気持ちになりました。

コメント (6)
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