山尾氏の著書への3回目のブログです。氏が、昭和51年当時の、よく知られていた通説を紹介しています。
「4世紀後半、倭王権は、慶尚南道や全羅南道などにあった、幾つかの小国を一括支配し、」「南部朝鮮を直轄領の、任那 ( みまな ) とした。」 「その結果、新羅王や百済王も、倭王に服属した。」
朝鮮の古地図が挿入されていますので、確かめながら読みますと、なんとその支配地は、現在の韓国の南半分に相当します。学校で教わった4世紀の日本は、縄文から弥生時代に移り、古墳時代になったという時期で、土器や土偶の話ししか聞かされていません。
そのような大昔に、日本が朝鮮に進出し、南半分を支配して任那と命名していたというのですから、驚くしかありません。新羅や百済の王までが服属していたとは、信じられない叙述です。
「しかし5世紀末ごろから、百済が全羅南道を、」「6世紀前半には、新羅が慶尚南道を侵食し、併合していった。」「そののち倭王権は、復興を企てるが、結局失敗して、任那は滅亡し、」「新羅から、貢物 ( みつぎもの ) を、受納するにとどまった。」「そして663年、白村江 ( はくすきのえ ) 」での敗戦により、倭王権の、朝鮮における足場は、ついになくなった。」
小学校一年生だったのは昭和25年で、マッカーサーが日本を統治していた時ですから、こうした歴史を教えるはずがありません。ここで山尾氏が、通説として紹介しているのは、もしかすると、皇国史観に立った戦前の説なのかもしれません。
なぜなら氏は、この通説を次章で否定しているからです。任那の日本府には、通説に言われているような、実体がなかったという意見になっています。氏が論拠としているのは、韓国の史書である『百済記』、『百済本記』、『三国史記』、『史斉記』などです。日本の史書である『神皇紀』や『継体紀』や『応神紀』も、参照されていますが、反証の材料として使われているに過ぎません。
「本書は、考古学や地理学の、学説によって立論することを避け、」「それらも含む、歴史研究全体の中で、」「文献学の方法による、歴史研究によって期待されている、史料批判によって、立論し、」「他の方法による、研究結果と、つき合わせようとしている。」
回りくどい説明なので、私は氏の研究姿勢を、自分なりの言葉で理解します。
1. 考古学と地理学を、参考にしない。
2. 史料批判による立論、つまり伝統的な『記紀』を批判した理論に立つ。
こうなると私は、どうしても、先日知った田中英道氏の言葉を思い出します。
「私は、思いつきで意見を述べているのではありませんよ。」「そこいらの素人が、何年か本を読んで、邪馬台国が九州だとか、近畿地方だとか、」「いろいろ好きなことを言っているのとは、訳が違います。」「私は、日本の古い遺跡を調査し、古来からの神社を訪ね、」「そこから出土したものや、残された文献を、何十年も研究しています。」
「だから、学者としての生命をかけて意見を述べています。」「日本での一番の問題は、遺跡や遺物を調べる考古学者と、古文書を研究する歴史学者が、」「互いに協力せず、意思の疎通を欠いているところにあるのです。」
「戦後の歴史学者は、文字のなかった日本の古代を、まるで未開の野蛮時代でもあったかのように、」「古墳時代なんて、勝手な名前をつけています。」「しかし考古学者は、縄文時代の焼き物や、弥生時代の古墳から発見される土器、」「土偶、銅鐸などを丹念に調べ、文字がなくても、日本に、素晴らしい文化があったことを知っています。」
少し大げさに言いますと、私は一瞬で田中氏に心を奪われました。古代史の学徒でもないのに、感動を覚え、氏の言葉に聞き入りました。氏の言に従えば、山尾氏は、まさに批判の対象となる歴史学者です。
戦後の風潮だったとは言え、山尾氏は意識して考古学者との連携を止め、『記紀』を軽視し、韓国や中国の古文書を重視しています。氏の研究姿勢も誠実で、学者としての良心に基づいていることは理解しますが、残念ながら、結果として、反日・左翼が跋扈する、今日の日本を作る手助けをしたのは事実です。
「戦後の歴史学者は、文字のなかった日本の古代を、まるで未開の野蛮時代でもあったかのように、」「古墳時代なんて、勝手な名前をつけています。」
戦後の歴史学者、ことに反日・左翼・マルキスト学者を、嫌悪するのは、現在の風潮を作った元凶だからです。政界、教育界、法曹界、マスコミ界と、隅々にまで浸透する反日思想に、理論的根拠を与えたのが彼らだったからです。
だから自分は、任那の日本府も知らずに成長し、土器と埴輪と土偶の写真しか、教わらなかったと理解しました。土器、土偶、銅鐸、銅鏡、そして無数の古墳を丹念に調べれば、文字がなくても、あの時代に素晴らしい文化があったという、田中氏の言葉の中に、私の知らなかった日本の過去が見えました。
それに比べますと、山尾氏の次の叙述には何の感動もありません。それどころか、次の説明では、反日・左翼学者と同様、大和朝廷と卑弥呼の邪馬台国との関係が不明のままです。
「倭の五王時代の、政治的構造の様式は、」「西日本に、筑紫・吉備その他、部族的組織の、」「首長の結合による、政治宗教的な、統一体の統治が、」「地域的完結性をもって存在し、」「独自の秩序を形成していたのであり、」「それらが、倭王として、」「中国王朝との交通を独占する、畿内の地域政権の王を中心に、」「様々の従属形態をもって、結託していたのだと思う。」
「だから倭国は、西日本の政権連合と呼ぶのが、よりふさわしい。」
頭が良くないから、こんなややこしい説明になるのか、手に負えない文章です。しかし田中氏は、大胆にも、「卑弥呼も、邪馬台国も、存在しなかったのではないか。」と、語ります。日本を統一した邪馬台国が、本当にあったのかと、氏が疑問を抱く根拠を、以前ブログで書きましたが再度紹介します。
1. 日本中の古墳を調べても、卑弥呼と邪馬台の関連品が出土しない。
2. 古来からある神社の、文書、伝承、遺物を調査しても、卑弥呼と邪馬台に関するものが出てこない。
3. 『古事記』、『日本書紀』に、『魏志倭人伝』が引用されているが、卑弥呼と邪馬台に関する叙述がない。
4. もしも、卑弥呼と邪馬台が現存するのなら、いずれかの風土記の中に記載されているはずなのに、書かれていない。
5. 日本の歴史学者は、『魏志倭人伝』を、過大評価しているのではないか。
氏の意見は、学者としての正論と考えます。どうやら、山尾氏の書評を続ける限り、対極にある田中氏の意見が、常に立ちはだかるようです。それはそれで有意義なこととですが、心配なのは、わが息子たちと、訪問される方々です。
退屈で、あくびを堪えているのでないかと考え、今回はここで一区切りをつけます。