山尾氏の著作は、まだ半分も進んでいません。
氏の言葉を借りれば、古代史とは5世紀の半ばから、7世紀の終わりまでとなるのでしょうか。日本神話に関する書は何冊か読みましたが、考えてみれば、古代史に関する本を読むのは初めてです。
人名も地名も、馴染みのないものばかりで、まさに五里霧中。羅針盤をなくした船のように、自分の位置さえ掴めません。どうせ分からないのなら、いっそのこと、出発点に戻ろうと、ネットで「日本史年表」を探しました。以下その一部を、紹介します。
⚫︎ 縄文時代 - [紀元前1万4000年頃 ~ 前4世紀頃]
⚫︎ 弥生時代 - [紀元前4世紀頃 ~ 250年頃] ( 238年頃 卑弥呼の邪馬台国 )
⚫︎ 古墳時代 - [250年頃 ~ 592年]
⚫︎ 飛鳥時代 - [592年 ~ 710年]
⚫︎ 奈良時代 - [710年 ~ 794年] ( 712年『古事記』編纂 ) ( 720年 『日本書紀』編纂 )
⚫︎ 平安時代 - [794年 ~ 1185年]
⚫︎ 鎌倉時代 - [1185年 ~ 1333年]
⚫︎ 室町時代 - [1336年 ~ 1573年]
氏の著作が対象としている時代を、赤字で示し、卑弥呼の邪馬台国の成立年と、記紀の編纂年を、参考のため付記しました。こうすると、自分がさまよっている、歴史の地点が掴めます。
わずか92ページで、氏を評するのは早すぎる気もしますが、一言述べたくなりました。一般論として世界の歴史学者は、自分の研究対象とする歴史について、愛を感じないまま取り組むのでしょうか。まして自国の歴史なら、心のどこかに夢やロマンを持ち、肯定する意見を述べないのでしょうか。
「『日本書紀』には、任那だけでなく、」「朝鮮三国からの、調、調部が、」「6世紀中頃から、盛んに現れる。」「調は、服従者が支配者に供給する特産物であるが、」「『日本書紀』に書かれた調は、律令国家間で用いられる、外交用語である。」「だからそれは、国家間の従属関係を、少しも証明していないのである。」
「隋書の『倭人伝』には、」「新羅、百済は皆、倭をもって大国となし、」「珍物を多くして、倭を敬仰し、」「通史往来す。」「と書いてある。」
しかしこれは遣隋使が語ったものだから、文字通りに受け取ってはならないと、氏はたしなめます。朝鮮から盛んに送られてくる、貴重品はむしろ日本の国内事情によるのだ、と言います。
「私はこのような物の需要は、抗争する派閥的な、」「貴族集団の存在と、不可分だろうと思う。」「朝鮮からもたらされる財宝がなければ、」「各地の中・下級の豪族、あるいは政界での多数派工作等が、」「運営できなかったのであると思う。」
さらに氏は、『日本書紀』を否定するための説明を続けます。
「日本からの百済への派兵は、百済とっては傭兵であり、」「その対価としての調である。」「新羅は一方的に、調を日本へ送ってくるが、その真意は、従属者としての貢ぎ物でなく、」「政治に関与させないという 、意思表示である。」
朝鮮の学者が言うのなら、まだ理解しますが、日本人の学者である氏が、ここまで朝鮮の立場で意見を述べるのかと、いささか幻滅します。反日・左翼学者の著作には、激しい怒りを覚えた私ですが、山尾氏にはだ不快感を覚えるだけです。
私は氏に、日本びいきの意見を期待しているのではありません。最近のテレビがやっているように、「日本のここが凄い」と、むやみに持ち上げる意見を求めているのでありません。
日本人の学者なら、日本への愛を感じさせる姿勢で歴史に取り組めないのかと、そういう疑問です。人間を75年やっていますから、「愛する人間がする批判」と、「愛のない者のする批判」の区別は、つきます。息子たちや、訪問される方に問います。氏の意見のどこかに、日本への愛が感じられたでしょうか。
そうなりますと思い出すのは、やはり氏の対極にいる田中英道氏です。氏は縄文・弥生時代の遺跡や出土品を現地で調査し、全国の神社・仏閣の古文書を調べ、自説を組み立てています。奇想天外な意見に、まだ半信半疑ですが、氏の言葉には少なくとも「日本への愛」が、感じとれます。
『記紀』を否定し、韓国や中国の古文書を読み、机上で自説を組み立てている氏と、田中氏のいずれの説を是とするかと問われれば、田中氏の現場主義に賛同します。
息子たちに言います。もう一度、「日本史年表」を見てください。縄文時代は、紀元前1万4000年も前から、紀元前400年までという、想像もできない長い年月です。次の弥生時代は、紀元前400年から 250年頃までです。古墳や飛鳥時代のわずか460年とは、比べ物にならない長さです。
田中氏は、その縄文と弥生時代の調査・研究を踏まえ、自説を組み立ています。
「縄文・弥生時代、日本の中心は関東・東北だった。」「日本で最も人口が多く、最も栄えた土地だった。」
「関東・東北地方が、日本で一番早く日が昇る土地であり、」「多くの人間が集まった理由だ。」「日の本とは、関東・東北地方のことであり、」「高天原とは、関東を指している言葉だ。」
山尾氏は、渡来人秦氏が朝鮮人だと説明しますが、田中氏はユダヤ人だと主張します。もう少し勉強すれば分かるのかもしれませんが、山尾氏と田中氏のいずれが学問的に正しいのか、判断する知識がありません。それでも、私が持つ庶民の常識では、揺るぎない確信があります。
田中氏の姿勢に「日本への愛」を感じますが、山尾氏には「日本への否定」だけを感じさせられます。それは、例えようもない不快感です。
明日からの読書で、この不快感が胡散霧消することを願いつつ、本日はここで終わります。