山尾幸久氏著『日本国家の形成』(昭和52年刊 岩波新書)を、手にしています。やっと28ページです。
もともと情報は、そういう役割を持っているのかもしれませんが、テレビや新聞やネットを見ていますと、今にも日本がダメになりそうな気持ちにさせられます。
のんびり、楽しく暮らしている人間に、そんなことでは今に後悔するぞと、戒めたり、諭したり、お節介をしたりします。それはそれで意味があり、大事なのでしょうが、常時反応しているとろくなことはありません。適度に耳を傾け、時には知らぬ顔をしたり、うまくつき合わないと失敗します。
これが書評なのかと、息子たちは首をかしげるのかもしれません。これが書評だと、父は言います。書評とは、その本を手にしたことにより誘発されるもろもろの感想、あるいは意見であると、世間と違い、父はとても大きな概念で捉えています。
昨日までは、沖縄の住民投票に始まる憲法改正問題、女性宮家や女系天皇のこと、あるいは初心を忘れた自民党の劣化ぶりなど、末法思想に絡め取られていました。もうすぐ日本がダメになると、矢も楯もおれなくなり、かといって何をすべきか妙案もなく、あるはずもなく、庭の水やりで雑念を払っておりました。
巻末に印刷された氏の略歴は、次のように書かれています。
「昭和10年に、中国の撫順市に生まれる。」「昭和41年、立命館大学文学部史学科卒業」「専攻、日本古代史。」「現在、立命館大学助教授。」「著書、『魏志倭人伝』」
私より9才年上の氏は、中国生まれです。ちょうど手元に私の戸籍謄本がありますので、紹介します。昔の文字で印刷されていますが、現在の漢数字にします。
「昭和19年1月1日、満州国興安北省ハイラル市腰芦子無号地で出生。」「同月14日、父届け出。」「同年4月8日、満州国駐在特命全権大使梅津美治郎から送付入籍。」
しかし本当は、昭和18年12月9日生まれなのです。戦前は、12月8日の真珠湾攻撃の日が「戦勝記念日」と呼ばれる目出度い日で、私の出産予定日でした。熊本の郷里に住む祖父が楽しみにしていたのに、1日遅れで生まれたため、次に目出度い日である正月を、私の誕生日を決めたと聞いています。
12月の誕生日からひと月も経って、父が出生届をし、それから4ヶ月後の4月に、特命全権大使が受け付け、本籍地に送付したというのですから、ずいぶんのんびりした事務処理です。こんないい加減な戸籍を持つ私ですから、いい加減な人間になっても不思議でありません。
同じ中国に生まれても、山尾氏は大学の先生ですから、立派なものです。しかし反日・左翼系の岩波書店から著作を出しているので、立派と言えるのかどうか、それはこれからの楽しみです。
著書の中で氏が扱っているのは、5世紀の半ばから、7世紀の終わりまでの日本です。朝鮮に「任那 ( みまな ) の日本府」が出来た頃の話です。私の知らない時代ですから、煩雑さに頭が混乱します。先日発見した国史学者、田中英道氏は、「日本が朝鮮を通じて、大陸の文化を教えられたというのは、間違いで、」「縄文・弥生時代の日本人は、朝鮮に進出しており、逆に朝鮮が日本から文化を伝えられたのだ」と、威勢の良い意見を言っていました。
山尾史の本は、田中氏ほどでないとしても、かなりの日本人が朝鮮の王朝と関わりを持ち、彼らと手を組み、朝鮮の支配をしていたことが書かれています。帰化したり、子供を持ったりしていますから、民族の同化や混在が語られています。現在の韓国人学者の中には、天皇家が朝鮮王朝とつながりを持っているとか、祖先は自分たちであるとか、そんな意見をいう者がいます。
これだけ歴史を捏造し、これだけ日本人への憎しみを撒き散らす彼らに、天皇家が繋がっていると言われるのは、感情的には収まりがつかず、拒絶反応が出ます。さて、ここでやっと、本日の書評とのつながりが出てきます。
「テレビや新聞や、ネットの動画を、あまり本気で見ていますと、今にも日本がダメになりそうな気持ちにさせられます。」
「それはそれで意味があり、大事なのでしょうが、常時反応すると、ろくなことはありません。適度に耳を傾け、時には知らぬ顔をしたり、うまくつき合わないと、失敗します。」
簡単に信じられるものが、右にも左にもなく、信じられるのは、自分で手に入れたものの中にしかないと、自覚しました。年75才にして、やっと心の自立を得ました。本日からしばらくの間、山尾氏との対話を続けますが、今日のところはお終いです。
「こんなものが、書評なの。」息子たちの問う姿が、浮かんできます。私は、自信をもって答えます、「書評です」と。