京極氏の著作が出版されたのは昭和58年で、今から36年前です。8ベージに「立憲政治」という項目があり、「国民国家」と言う言葉が出てきます。
氏の説明によりますと、「国民国家」とは、支配層と被支配層という層別が解消され、身分制が廃止された国のことです。封建制から、「四民平等」となった、明治時代を思い浮かべてください。ここでは理論上全員が国民という、単一集団となります。この前提に立ち、氏が「憲法」の定義を述べます。
「国民国家においては、国家機関ないし政府、諸官庁を通じる国民統治は、国民という一体集団の共同事務の共同管理として、説明された。」
東大卒で東大法学部の教授ですから、難しい表現はお手のものです。大切な部分なので、息子たちは我慢して読んでください。
「主権者である国民の同意と授権、国民の選挙による、任職を土台として、」
1. 憲法制定会議において、成文憲法が制定される。
2. 憲法に制定された議会において、法律が制定される。
3. これらの法令に従い、国家機関ないし政府、諸官庁が、手続法体系、権限法体系として編成される。
4. これがいわゆる、憲法体制であり、立憲政治である。
息子たちに少しでも分かりやすいようにと、項目に分けたのですが、大切なのは次の説明です。
「ここで注意すべき点は、支配層も非支配層も法の下にあるという西洋の、いわゆる中世型法思想以来の伝統が、この法構成の背景をなしている、ということです。」「東アジア風の法思想と、西洋の法思想とは別物であるということである。」
「東アジア風の法思想は、法は、支配層、王朝、宮廷から、被支配層に対して一方的に下される命令ないし、禁令であるというものである。」「すなわち法は、支配層自体を法の適用外に置き、適用する場合は、しばしば大きな裁量の余地を持つというものである。」
だから現在の憲法は、「支配層も非支配層も法の下にある、」と、氏は説明しています。ところが最近では、オーソドックスな理論から逸脱し、学界とマスコミが勝手な解釈を世に広めています。
平成30年2月9日の、朝日デジタルの記事を紹介します。
「人は生まれながらにして、天からあたえられた権利、自由を持っている。この考え方を、天賦人権説という。」「しかし、国家権力はときに暴走し、こうした権利を踏みにじったり、うばったりすることがある。」「だから憲法でルールを定め、権力をしばる。これが立憲主義だ。」「憲法に欠くことのできない、要素とされる。」
ここで強調しているのは、「憲法は、権力者を縛るものである、」という考え方です。首都大学東京非常勤講師の鳥山孟郎氏の意見を、紹介します。
「憲法はみんなが守らなければならないものだと、理解されがちですが、高校生たちにも、憲法は権力者たちを縛るものという理解を、広げる必要があると思います。」
時系列が乱れますが、平成28年6月23日のネットの情報を紹介します。
『憲法の岐路』本来権力者を縛るものと題する、首都大学東京教授の木村草太(35)氏の、意見です。
「安倍政権は、憲法に負荷をかけてきた。」「憲法改正手続きを定めた96条の改正や、国家緊急権の創設には、権力を合理的に拘束するという発想がなく、」「むしろ権力を乱用しやすくするという点で、立憲主義に反する提案だ。評価できない。」
毎日新聞の記事も同じトーンなので省略しましたが、最近の日本では、「憲法は、権力者をしばるものである、」という、おかしな解釈がマスコミにより拡散され、大手を振っています。
出発点は、安倍総理による憲法改正提案でした。憲法を改正し、自国防衛の軍隊を持つという、世界では普通のことが、いまだに日本では実現できません。総理は、外堀を埋めるように、「安全法制関連法案」を作り、少しずつ日本を普通の国に戻す努力をしています。
反日左翼の学界とマスコミが早速反対し、「憲法を勝手に触る安倍総理は、憲法の精神を忘れた、独裁者だ、」と、言い始めました。「権力者をしばる憲法を、権力者である安倍総理が、勝手に触るのはけしからん、」と、そのために作り出した屁理屈がこれです。
私が言っているのは、すでに36年前、彼らの間違いを京極氏が既に説明しているという事実です。
「ここで注意すべき点は、支配層も非支配層も、法の下にあるということです。」「東アジア風の法思想と、西洋の法思想とは、別物であるということである。」
木村草太(35)氏は、若手気鋭の憲法学者ともてはやされていますが、同じ東大卒業生でも、京極氏とはだいぶ趣が違います。京極氏は、どちらかと言えば「象牙の塔の学者」ですが、木村氏はどちらかと言えば「南原繁氏風」です。つまり遠慮なく言えば「曲学阿世の徒」です。「憲法改正を阻止するため」なら、なんでもありの学界とマスコミには、好都合な学者です。
次回からは京極氏の著書を追いながら、現在の日本を考えてみようと思います。