久しぶりに、車のガソリンを満タンにしました。いつ無くなるだろうかと心配しながら、おずおず運転する不安感とオサラバです。
年金生活者ですから、節約しなければという気持ちと、スタンドへ行くのが面倒だと、二つの気持ちがあり、一日延ばしにしていました。ガソリンを満タンにして、我が家へ戻った時の、安心感と、心の豊かさを、なんと表現すれば良いのか、ちょっと、思いつきません。
「人間て、こんなことで幸せになるんだ・・」
楽しくない本も読み、心の弾まない書評もする日々でしたから、久しぶりの穏やかな充実感が、信じられない私でした。ガソリン満タンで、これだけ幸福感が味わえるのなら、財布にお札が満タンなら、もっと幸せになるのではないか・・と、すぐにこんな考えをするから、私はいつまでも凡俗のままです。
もしも財布に、札束がぎっしりと詰まっていたら、自分は何をするだろうと、凡俗ですからこんな考えは、得意です。
「家内と半分ずつ分け、子供にも少し分けてやり、」「嫁と孫にも、何か買ってやり・・」と、果てしなく夢が続き、キリがありません。欲望の膨らみには限度がなく、果たして財布一つでどこまで叶えられるのか、早速自信がなくなりました。
「人間の欲望は、なんと無限だ・・」と、こんな当たり前のことに、気づきました。そうなりますと、財布に満タンの札束は、決して私を幸福にしません。しないどころか、無限の欲を誘い、不幸な人間にしてしまいそうです。金欲しさに人を騙し、殺人までする人間がいますが、彼らは、欲に駆られた妄想のまま、行動した愚か者なのでしょうか。
「悪銭、身につかず。」と、亡くなった父がいつも笑っていました。若かった私は、悪銭でもなんでも、金があるに越したことはないと、内心では思い、貧乏な父が痩せ我慢をしているのだと冷笑しました。
しかし今考えてみますと、あれは貧乏人の痩せ我慢でなく、父の本音だったのではないかと、折につけ考え直すことがあります。
「昼間から酒を飲むと、バチが当たる。」「お天道様に恥ずかしいことは、するな。」
何かといえば、そんなことを口にしていましたが、無意識のうちに、そんな父の言葉が私の道を照らしていたのではないかと、思います。父はまっとうな人間として生き、まっとうな国民として死にました。息子の私は、少しひねくれ者ではありますが、やはり父の跡を歩いて行くはずです。
ガソリンの満タンと、財布の満タンは、同じ話ではありません。
満タンのガソリンは、その時だけの安心感です。ガソリンが無くなれば、安心感も終わりです。しかし財布の満タンは、限りない欲望を生む金銭の話です。あれも買い、これも買いと、終わりのない欲を膨らませます。無くなれば終わりでなく、無くなれば、何とかして手に入れたくなる魔性の金です。
まっとうな貧乏人は、そんなあぶく銭に、気持ちを奪われてはならないのです。お天道様に顔向けのできないようなことをしてまで、お金を手に入れてはならないのです。これが、国民の常識です。
それを教えてくれた父を、私は尊敬しています。高等小学校しか出ていませんが、貧乏な暮らしの中で、私を育ててくれた父を、誇りに思っています。これからの人間には学問がいると、父は私を諭し、大学まで行かせてくれました。幕末か、明治の頃の話のように聞こえますが、昭和30年代のことです。
ガソリン満タンの話から、思いがけないところへ話が飛びましたが、これから書評にかかる、京極氏の「日本の政治」と、満更無縁ではありません。氏は「後書き」の中で、自分の書は、「世間の大人」「かたぎの生活者」向けにも書いたと、述べています。「世間の大人」「かたぎの生活者」の言葉を読んだ時、真っ先に浮かんだのが、父の顔でした。
ということで、京極氏の著作は、私を惑わせ、混乱させ、なかなか書評に踏み出せません。不思議な書です。