ねこ庭の独り言

ちいさな猫庭で、風にそよぐ雑草の繰り言

『最後の殿様』 -6 ( 尾張徳川家は勤王派だった )

2021-06-20 16:38:24 | 徒然の記

 秋篠宮家批判の動画がひどいと、ある方に教えられ、関係の動画を何件か見ました。篠原常一郎氏の動画はまともな方で、あとはもう、見るに堪えない悪意のゴシップでした。皇室関係者、宮内庁関係者、秋篠宮家関係者とやらのリークを元に、一般人に知られるはずのない事柄が、針小棒大に語られています。

 秋篠宮家だけでおさまらず、上皇陛下や美智子様についても、批判の矛先が向いています。動画のコメント欄には、皇室不要論が汚い言葉で並び、表示されている視聴者数が正しいとすれば、どの動画も、万単位の人間が見ていることになります。ここまで多数の動画が一斉に、同じトーンで発信されているのを見ますと、偶発的というより、組織的な動きを感じさせられるのは私だけでしょうか。悪意を持つ団体による、「皇室倒壊」運動である気がしてなりません。

 私のブログも、秋篠宮様や上皇陛下や美智子様を批判していますので、心の痛みを覚えますが、幸いにも「ねこ庭」の読者の方は200人前後なので、騒ぎを助長する影響力もなく、僅かな安堵があります。息子たちや、「ねこ庭」を訪れる方々だけでなく、宮内庁の関係者や皇室の方々には、敬愛するがための苦言と、憎しみの扇動動画を区別されるように、願わずにおれません。

 今回は義親侯の「尾張徳川家は勤王派だった」を述べるつもりですが、その前にこの悪意の動画の氾濫について、一言述べました。侯の著書も、見方によれば明治政府の批判ですが、述べられている内容には、偏見や思い込みの醜さがありません。ひとえに語る人物の、人柄の大きさの現れだと思いますが、願わくば私のブログも、侯の万分の一でも見習えないかと、そういう気持ちだけは持っております。

 「すでに政権の座を離れた徳川家には、討伐される理由はなかった。」「政体変革をもたらす維新革命は、終わったのである。」「だが、すでに討幕軍を起こしていた薩摩、長州藩はおさまらず、」「また幕府の家臣もおさまらないで、双方が衝突し、」「鳥羽・伏見 ( 戊辰戦争 ) の戦いとなった。」

 これはまさに、最後の尾張徳川家の藩主だった侯から見た、維新史です。

 「慶喜は従兵も少なく、危険を感じたので京都から大阪へ移り、」「海上から江戸へ引き上げた。」「戦乱の拡大を防ぐための江戸帰城であったが、これに狼狽したのが朝廷である。」

 「岩倉はせっかく平和革命が成功したのに、慶喜の帰城は江戸で軍備を整え、」「大軍を率いて、京都へ進軍するためだと邪推した。」「狼狽した岩倉は、かねてから勤王派として信頼していた、幕府に次ぐ雄藩、尾張慶勝に事態の収拾を命じたのである。」

 名古屋の尾張藩は、中仙道を木曽で抑え、東海道を守っていましたから、沿道の各藩は義勝の動向に注目していました。慶勝が各藩へ勤皇誘引の使者を派遣したため、風に望む各藩は、勤皇に一致していったと言います。風を読み違えると藩の滅亡ですから、命懸けの決断だったはずです。今も政界では「風見鶏」の議員諸氏が、政争に明け暮れていますが、私が知らないだけで、もしかすると国のため、命がけで風を読んでいる人物がいるのかもしれません。

 「尾張藩は勤皇で固まっていたが、朝廷はまだ安心がならず、」「藩から佐幕派を一掃し、より強固な勤皇派で全藩を固められたい、」「との要請が出た。」

 これによって生じた事件は、「青松葉事件」とよばれ、長く藩の秘密とされていたそうです。記録も残されておらず、藩主義勝の日記も、この年の分だけが消滅しているという徹底ぶりです。

 「僕が尾張徳川家を継いだのは明治41年で、その頃はまだ事件の関係者が、生き残っていた。」「その関係者を呼び、かなり深く立ち入って尋ねたが、」「それは・・・と、固く口を閉ざして語らなかった。」「おそらく義勝の、厳重な緘口令が敷かれ、」「守られていたためだろう。」

 私が心を動かされたのは、亡き藩主の命を守り、現藩主の問いにも口を閉ざした老臣の姿です。秋篠宮家や宮内庁の内情を、軽々しく漏らす関係者たちが、いかに卑しい人間であるかよく分かります。武士道という日本人の魂を失った人間が、皇室や宮内庁、政界に、いかに多くいるのかも、同時に教えてくれました。

 「君君足らずとも、臣臣足らざるべからず」とは、中国の「古文孝経訓伝序」から出た言葉で、「主君がたとえ暗愚でも、臣下は臣下として忠をつくしなさい」という意味です。真意は、主君への盲従ではなく、未成年だった侯に、間違いを諭した若い女中や家僕たちのように、臣下として果たすべき役目を教えていると聞きました。

 しかるに朝日新聞は「天声人語」で、大臣の言葉を守り、国民不在の行政をした大蔵省の役人を語るとき、この言葉を使いました。どんな馬鹿な上司でも、部下は服従すべしという、悪い意味です。どちらの言い分が正しいのか、朝日新聞と争う気はありませんので、息子たちには、自分で調べることを勧めます。ここで私が言いたいのは、宮内庁や皇室の中に、共同体の一員として果たすべき役割を弁えない愚か者がいるという事実です。

 先日ブログの中でこの言葉を使った私に、「士は己を知る者のため死す」という「史記―刺客伝」の言葉を教えてくれた方がいました。「立派な人間は、自分の真価を知ってくれる人のためなら、命をなげうって尽くすものだ。」、という意味です。

 部下にばかり要求するのでなく、上に立つ人にも苦言を呈しなさいという助言でした。「両論併記」という原則に立てば、この方の言われる通りで、皇室の方々もリークされないだけの精進が必要ということになり、もちろん私は、賛成いたします。

 ということで、今回もまた、何度も横道へ踏み込んでしまいました。皇室が私たちにとって、いかに大切なものであるか、同時に侯の著作が、現在の日本にそのまま通じる良書であるかの、証明ではないでしょうか。

 次回は、尾張徳川家の「青松葉事件」についてご報告します。

コメント (2)
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