ねこ庭の独り言

ちいさな猫庭で、風にそよぐ雑草の繰り言

知覧の米兵慰霊碑 と反日勢力

2021-06-06 17:53:56 | 徒然の記

 「外国人も日本人も、同じ人間ですからね。」

 「この人たちにも、日本に来なければならない事情があった。」「可哀想だと思った。」

 慰霊碑の建つ土地を提供した田中すえこさんは、言いました。施主の石橋青年は、次のように語りました。

 「これから先も、特攻隊員の慰霊と、米兵の慰霊を両方とも行なっていきます。」「過去を恨むという気持ちは、僕らにはありません。」「当時のことを、僕らがあれこれ言うより、当時の方々へ敬意を払って、」「ずっと慰霊していくことが大切だと思います。」「自分の国だけでなく、相手の国にも目を向けることが大切です。」

 息子たちに言います。父は、お二人の意見に反対しているのではありません。善意の二人を利用し、自分たちに都合の良い意見に変えている、最後の部分に異議を唱えているのです。

 「過去を振り返らずして、未来はありません。」・・・彼らは石橋氏に、このように語らせています。正しい意見だと思います。だからこそ父は、「温故知新」の読書を続け、過去を振り返る努力をしています。

 「歴史を学び、平和を願うことは、今を生きる私たちが、」「戦争の歴史を、後世に語り継いでいくことに繋がり、」「平和を守り、維持していくためにも、」「重要な意味があると、思います。」

 父は彼らが、結びとして石橋氏に語らせた言葉に、異議を唱えるのです。彼らは広島でも長崎でも、同じ言葉を繰り返しています。歴史を学び、戦争の歴史を語り継いでいけば、本当に平和が保たれるのでしょうか。大事なことは、学んだ歴史から隠されていた事実を学ぶことなのです。石橋氏と同様、私には過去の米国への憎しみはありません。しかし、「日本だけが悪かった」「日本だけが間違った戦争をした」という、東京裁判の結論をそのままにしておいて良いのでしょうか。

 反日左翼勢力の許し難い捏造に、騙されてはいけません。多くの視聴者は動画を見て、「ちょっぴり良い話」と感じ、隠れていた美談を教えられたと感動しています。だが私は、国民の善意を利用し、日本を貶める勢力に妥協しません。こんな結論で動画を終わらせては、石橋氏と田中さんの善意を無にするだけでなく、尊い命を捧げた特攻隊の兵士たちを冒涜することになります。

 「日本がした、悪い戦争のため、彼らは死んだ。」「日本がした無謀な戦争のため、彼らは犠牲になった。犬死した。」と、ここにはそんな反日思想が隠されています。

 疑問を解く鍵として、最後に残ったのは、動画を作成した『多摩探検隊・にっぽん列島探検隊』でした。全国に埋もれた話題、人物、物語を掘り起こし、伝えていこうという団体で、中央大学の松野良一教授のゼミの学生たちです。

 ネットで検索し、松野教授の履歴を知った今は、全ての疑問が解け、息子たちにも、「ねこ庭」を訪問される方々にも、説明する必要がなくなりました。ネットの情報をそのまま羅列いたします。

 ・昭和31年生まれ、現在64才。中央大学国際情報学部教授

 ・日本のメディア研究者。専門はメディア論、ジャーナリズム論

 ・九大卒業後に、朝日新聞記者、TBS報道局ディレクターを務める。

 ・平成10年 筑波大学修士号取得、  平成15年 中央大学博士号取得

 ・平成8年から平成9年まで、ハーバード大学客員研究員

 ・平成15年、中央大学総合政策学部助教授、平成16年から教授

    ・平成23年、中央大学大学院総合政策研究科委員長

 ・平成25年、総合政策学部長  

 ・平成31年、新設された国際情報学部教授

 反日左翼メディアから、反日左翼学者への転身を遂げた松野教授ならば、架空の団体を拵えたり、善意の人間を利用したり、そんなことは何でもありません。手を変え品を変え、日本をダメにするため頑張っている彼らに、騙されないようにしましょう。

 「皇室護持」も「自主憲法制定」も、彼らに騙されてきた過去があったため、正常化が遅れています。これから先も、油断は禁物です。

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「知覧」にある米兵慰霊碑 -3

2021-06-06 13:50:33 | 徒然の記

 動画の最後は、慰霊碑の完成式典でした。地元の小学生が30人くらいと、大人たちが数名の、慎ましい式典でした。全員が慰霊碑前の地面に腰を下ろし。白い布に覆われた慰霊碑を眺めていました。

 慰霊碑のカバーを左右からロープで引っ張っているのが、石橋氏と田中さんと応援した地元の人と、おそらく石材店の社長など、関係者たちでした。総勢でも、50人程度の小さな集まりで、施主である石橋氏の挨拶が始まると、皆が耳を傾けていました。

 「過去の戦争は、前途ある若者の命を奪いました。」「女性や子供などの非戦闘員も、戦争の犠牲者となりました。」「そしてアメリカ兵の命も、奪いました。」「戦争で失われた、日本とアメリカの若者たちの命。」

 「過去を振り返らずして、未来はありません。」「特攻の地、知覧にある慰霊碑は、多くの犠牲の上に築かれた現在の平和を、」「これからも、未来へ繋いでいくことになります。」

 石橋氏の言葉を聞いていると、どこかで聞いたことのあるトーンだと思いました。戦争を否定し、犠牲者を悼むだけで、亡くなった特攻隊員への感謝と敬意がありません。毎年終戦の日に、全国に発信される反日マスコミの論調にそっくりで、普段の石橋氏の言葉ではありません。

 「歴史を学び、平和を願うことは、今を生きる私たちが、」「戦争の歴史を、後世に語り継いでいくことに繋がり、」「平和を守り、維持していくためにも、」「重要な意味があると、思います。」

 石橋氏の挨拶を最後に動画が終わり、動画作成に協力した団体の名前が、表示されました。「知覧特攻平和会館」「戦艦ミズーリー号記念協会」「沖縄公文書館」「Critical  Past」・・・。以前沖縄について調べ物をした時、「沖縄公文書館」が県の施設であるにもかかわらず、反日・左翼的展示をしていることに驚いた経験があります。

 「戦艦ミズーリー号記念協会」も、中国政府の反日宣伝のための展示を並べたりする団体であると言う印象があります。もしかすると最後の挨拶は、石橋氏の日頃の思いでなく、誰かが用意した言葉を喋っているのではないかと、そんな気がしてきました。

  動画の最初で紹介されていた、建立関係者の名前を思い出してみました。

  施  主  石橋直也     土地提供者  田中すえこ

  協  力  NPO法人南日本C.L.E交流センター

 石橋氏と田中さんは、動画が説明している通り、善意の青年と地主さんです。彼らの善意を利用しながら、そっと反日・左翼思想を入れ、情報操作をしているとすれば、残るのは「NPO法人南日本C.L.E交流センター」しかありません。ネットで調べれば、簡単に出てくると思いましたが、意外な事実にぶつかりました。説明をする前に、ネットの情報をそのまま転記します。

 〈 法人基本情報  ( 3情報  ) 〉

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「知覧」にある米兵慰霊碑 -2

2021-06-06 00:07:59 | 徒然の記

 石橋氏が慰霊碑を作るまでの経緯を、動画から抜書きしてみました。

 ・平成21年4月 警察学校に入学したが、体調を崩し、失意のうちに退学。

 ・平成22年7月 悶々とした日々の中で、自転車旅行を思いつく。アルバイトで金を貯める。

  短期間で辞めるつもりが、やってみると面白くて、いつの間にか日本一周となり、その途中で知覧を訪れたと言います。「知覧特攻平和会館」を訪れ、三つの事実を知ったことが、氏の人生の転換点となります。

 1. 特攻隊員たちの遺書

 2. 戦艦ミズーリー号に体当たりし、爆死した日本人特攻隊員を、ウィリアム・キャラハン艦長が、海軍式葬儀で慰霊した事実

 3. 知覧飛行場の片隅に、墜落した米軍機の跡地がそのまま残されていること。( 草むらと化している現場を見て、歴史を知るきっかけとなるものを残したいと思う。)

 世の中の役に立ちたいと警察学校に入学したのに、病気のため退学した氏は、特攻隊員の遺書を読み、前向きに生きようと心に決めます。同時にウィリアム艦長にならい、自分も敵国兵士を慰霊すると誓います。この時から氏は、毎年知覧を訪れ、特攻隊の兵士に祈りを捧げながら、戦死した米軍兵士の慰霊を計画します。

 5年後の平成27年の8月7日に、慰霊碑の除幕式にこぎつけますが、この日は米軍兵士の戦死から70年の節目の日でした。ここまでは動画の要約ですが、石橋氏の人となりを知る興味深いブログを見つけましたので紹介します。氏の依頼で慰霊碑を作った、石材店のホームページです。

 「鹿児島市の前迫石材です。」「 施工事例からお墓のこと、石のこと、鹿児島のことを発信していきます。」

 「墜落した米軍機(B25)の搭乗員および、知覧基地から特攻の命を受け飛び立っていった隊員への慰霊、」「および恒久平和を祈念して建立慰霊碑が、墜落から丁度70年にあたる本日、除幕式となりました。」 

 「本日の南日本新聞(15面)にも掲載されていますが、建立者の石橋直也さんは、」「5年前に、特攻平和会館を訪れた際に感銘を受けて以降、」「毎年知覧に来られており、特攻隊員のみならず、知覧で犠牲になった米軍戦没者を弔うことで、」「世界平和の大切さを発信することと併せ、次世代への継承を目的とした、碑の建立を目指したとのことでした。」 

 「石橋直也さんは、24歳の青年。」「話してみると、丁寧で快活なナイスガイ。」「若き青年の、熱い思いが込められた仕事に携わることで、」「自分自身を恥じつつも、大きな刺激を受けました。」
 
 石材店の社長だろうと思いますが、石橋氏の横顔を紹介しています。また当時の南日本新聞の、記事の見出しも紹介しています。
 
       南日本新聞 WEB記事→「知覧の米軍機墜落現場に慰霊碑 兵庫の男性」

 再び動画に戻りますと、ミズーリー号に体当たりし、炎上した特攻機の話になります。

 ・昭和20年4月11日、戦艦ミズーリー号は喜界島の沖合で、日本上陸作戦のため展開していた。

 ・同日2時43分、鹿児島県の鹿屋基地から出撃した零戦が、突入してきた。操縦していたのは、石野節夫二等飛行兵曹と言われている。

 ・体当たりに失敗し、艦上で自爆した機からは石野二等兵曹の遺体が発見された。

 ・捨ててしまえという意見もあったが、ウィリアム艦長は海軍式の葬儀を執り行い、遺体を丁重に処理した。

 石橋氏はこの話を「知覧特攻平和会館」で知って以来、米軍機墜落現場の土地の所有者を探しました。慰霊碑に土地提供者として名前が刻まれている、田中すえこさんがその人です。

 「石橋さんから、慰霊碑の趣旨を聞き、損得も考えずに承知しました。」

 「外国人も日本人も、同じ人間ですからね。」

 「この人たちにも、日本に来なければならない事情があった。」「可哀想だと思った。」

 陸軍全体での特攻戦死者数は、1,036人で、このうち知覧の飛行場から飛び立った戦死者はおよそ半分の479人でした。米国兵を敵視するのでなく、このように語る彼女を信じられない思いで眺めました。彼女だけでなく、石橋氏の話も続けて紹介されました。

 「これから先も、特攻隊員の慰霊と、米兵の慰霊を両方とも行なっていきます。」「過去を恨むという気持ちは、僕らにはありません。」「当時のことを、僕らがあれこれ言うより、当時の方々へ敬意を払って、」「ずっと慰霊していくことが大切だと思います。」「自分の国だけでなく、相手の国にも目を向けることが大切です。」

 動画を見て感激した人達のコメントは、二人の言葉に大きなインパクトを受けたのだろうと思います。中国も韓国も北朝鮮も、「恨みは1000年も消えない」といい、二人のような言葉を決して口にしません。日本人として、彼らは誇るべき人達なのか、単なる「お花畑の住民」の一人かと、そんなことを考えてしまいました。

 素直に感激していれば目出たし目出たしで終われたのに、私はそうはなりませんでした。スペースもなくなり、夜も更けてまいりましたので、私の心に生じた疑問についてのご説明は、次回といたします。

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