ねこ庭の独り言

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『最後の殿様』 -5 ( 殿様から見た「維新」 )

2021-06-19 17:51:53 | 徒然の記

 今回の記述は、まさに「殿様から見た維新」です。おぼろげに知っていましたが、侯から聞きますと、下級武士たちに政治の実権を奪われていった、薩摩、長州、土佐の殿様たちの気持が伝わってきます。

 「もともと徳川幕府は、皇室をないがしろにしたことはない。」「ないがしろにしたという歴史家の説は、明治維新後、」「政権を取った薩摩、長州藩の、宣伝のお先棒を担いでのことである。」

 「幕府は家康以来朝廷と接触し、摂政、太政大臣など、」「公家の組織は温存した。」「幕府15代の間、徳川和子(東福門院) は別にしても、」「皇族の娘6人、公卿の娘6人が、将軍夫人となっている。」

 「水戸徳川にも、公卿・皇族の娘が6人、紀州徳川には7人、」「尾張徳川にも6人が夫人に入っている。」「いわば朝廷と徳川は姻戚関係で、薩摩の島津、長州の毛利とは、」「比べられない、血のつながりがあった。」

 多くは武家の政略結婚であったとしましても、知らない事実を教えられますと、意見に傾かされます。勝者が歴史を書き換えるというのは、アメリカや中国が日本にしただけでなく、明治時代にも似た話があったということでしょうか。

 「明治維新の際、島津、毛利は、徳川に代わって政権を取り、」「自らが幕府になる、野心があった。」「だがそれぞれ単独では、力量不足であった。」「その他の各藩は思い思いに、尊王攘夷、あるいは公武合体、開港だ、閉港だと叫び、」「てんでばらばらの行動で、公卿も同様であった。」「この混沌たる情勢を巧みに利用したのが、下級公卿の岩倉具視である。」

 岩倉具視といえば、維新政府の功労者として500円札の肖像が浮かびます。厳しい容貌をした顕官の印象しかありませんので、侯の言葉に驚かされます。しかし侯から見れば、下級公卿だったのは事実で、貴重な日本史を語る証言の一つですから、学徒の気持で向き合います。

 「慶喜が将軍になった慶応2年の12月に、孝明天皇が36才で崩御。」「一部には、幕府と親密な天皇を、岩倉が毒殺したとの説があるが、」「これは眉唾物である。」

 何かの本で、私も毒殺説を読んだ覚えがありますが、侯は明確に否定しています。

 「慶応3年1月、16才の睦仁親王が皇位につかれた。」「これが明治天皇である。」「岩倉は、" 玉を奪うべし  " と言い、若き天皇を擁し、」「三条実美らとはかって、王政復古を計画した。」

 毒殺説は否定しても、策略家としての岩倉具視には、好意を持てない書き振りです。

 「明治維新は、わが国政体の一大革新であった。」「外国の例を見ると、政体の変革には必ず大動乱が起こっている。」「それが明治維新は、極めて穏やかに行われた。」「これは日本民族の特性による。」

 私などは、函館戦争、会津の白虎隊、蛤御門の変、坂本龍馬、大久保利通の暗殺など、大動乱の時代だったと思っていますが、殿様の目にはそうではなかったようです。民族の特性によると言われれば、そういうことだったのかと、納得してしまいます。侯は、明治維新を次のように二段階に分けて考えており、私なりの言葉で要約しました。

 〈 1. 第一段階 王政復古・大政奉還 〉 

  ・宮中では天皇を中心として、革新派の公卿岩倉・三条

  ・大名では、徳川慶喜、徳川斉昭、徳川慶勝、島津久光、伊達宗城、山内豊信、松平容保、松平定敬が、相談して決めた。

  ・政体変革の大義は、公卿だけでも、また大名だけでもできなかった。

  ・王政復古が決定されなければ、改革の本義は成立しなかった。(各藩の青年志士は、これに加われるほど身分の高い者がいなかった。)

 〈 2. 第二段階 明治政府の構成  〉

  ・王政復古の本義が決定したことにより、各藩の青年志士が参加できた。

  ・彼らは必死に、明治政府の構成に尽力し、近代国家としての日本国を作った。

  ・これは、公卿や大名にできることではなかった。

 明治政府の顕官たちも、さすがに都合が悪かったのでしょうか、こうした「身分差」の話を学校で教えていません。初めて知る事実でした。「王政復古」と「大政奉還」がされなかったら、明治政府が成立せず、各藩の青年志士は政府に参加できなかったのです。

 下級公卿、下級武士と言いながら、近代国家としての日本は、彼らがいなければできなかったと述べています。見習いたい度量の広さと、偏見のない理知です。こう言う人物が現在の日本にもいて、きっと政治を動かしているのであろうと、そんな気もしてきました。

 反日・左翼の野党や妥協ばかりする自民党に、そんな人物がいるとは見えませんが、「国民投票法」や「土地利用規制法」を成立させた事実を見ますと、侯の言葉を噛み締めたくなります。

 「明治維新は、極めて穏やかに行われた。」「これは日本民族の特性による。」

 「国会審議は、極めて穏やかに行われた。」「これは日本民族の特性による。」

 次回は、「尾張徳川家は勤王派だった」と言う表題になります。

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