ねこ庭の独り言

ちいさな猫庭で、風にそよぐ雑草の繰り言

芸術についての私見

2010-11-01 10:33:42 | 随筆

 幸せな人間は、本なんて書きはしない。同様に、幸せな者は絵だって描かない。音楽も創らない。

 大芸術家と言われている人物の、ほとんどが、実は不幸な人間だったと、今は知っている。ことさらに書くというのは、昔はまったく逆を考えていたからだ。

 中学や高校生だった頃、いわば人生で最も多感な折、図書館の壁に飾られた、芸術家たちの肖像画に、強い憧れを抱き、大文豪とか、天才画家だとか、不世出の大作曲家とかに、敬意を表するだけでなく、いつか自分も、世界に名を轟かせる偉大な芸術家になりたいと、愚かにも、不敵にも、ひそかに企んだ覚えがある。

 世間から与えられる賞賛や、華やかな名声が、欲しくてならず、そうした人間の仲間入りができたら、最高の幸せだと、本気で思いこんでいた。「若気の至り」という言葉は、こんな私のためにあったのだろうが、ひと言弁明させてもらえば、そもそも、こうした言葉が存在するということ自体が、若者たちの多くが、常識を外れた思考や、行動をするということの、証明ではなかろうか。

 作曲は別として、作文や詩や絵などに、ちょっと気の利いたできばえを見せ、周囲の大人たちを感心させる、少年や少女の例がいくらでもある。残念なことに、自分もそんな少年の一人だったから、大芸術家になりたいと言う野望が、捨てられなくなった。

 と言っても、別段そのための努力を、人一倍やったとか、誰かについて指導を受けたとか、そういうことはいっさいやらず、好きこそ者の上手なれという言葉を、誇り高く信じ、ひたすら企みを心に秘め通した、ということだ。

 やがて普通の会社に入り、普通の結婚をし、普通のサラリーマンとして暮らしながらも、普通でない企みは持ち続けた。格別良いことも、悪いこともしなかったので、会社を首になる心配はしないで済み、円満に定年退職し、現在に至っている。

 と、言葉にすれば、わずか二行足らずで、叙述完了の人生だが、本人にである私にとっては、結構しんどい日々であったという気がしている。

 そして今、ただいまの現在、しみじみと、己の暮らしの静けさと、穏やかさに安堵し、冒頭の文言「幸せな人間は、本なんて書きはしない。」・・を、思い返している。今の私は、世間をあっと言わせるような、詩や小説や絵などを、書きたいと思わなくなり、無益な煩悶や焦燥から、爽やかに解放されたという次第である。

 年金暮らしなので、たいした贅沢ができるわけでないが、慎ましく生きることの楽しさを、知った。まだ確信はないけれど、自分がやっと、幸せになりつつあるという気がしている。

 だからこそ、私は今現在の若者たちに言いたい。とりわけ、その若者の一部を構成している、わが息子たちに伝えたい。

 「悩みと苦しみの後には、きっと、・・ではなく、必ずや、心の平安が訪れる。」「年をとったら、そんな日がいやでも来る。」「安心して、苦労すべし。」

 と、言いたい。

それにしても、昔の人はたいしたものだ。長く生きて、私がやっと知りえたことを、最初から知っていた。つまり、「若い時の苦労は、買ってでもしろ」。と・・・。

 すべては、こういうことだったのだ。

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