無表情だが、どことなく愛嬌のある鳥が、罪もないのに、このような蔑称で呼ばれ続けていることに、かすかな胸の痛みを覚える。
警戒心がなく、人が近づいても逃げず、呆気なく捕まる鳥なの、でアホウドリと呼ばれると聞いた。それならなおさらのこと、人なつこい鳥の名前として、アホウドリはふさわしくない。
幼子のように、人を疑うことを知らない鳥なら、「純粋ムクドリ」とか、「わらべドリ」とか、そう呼んでやるのが、筋ではないか。なぜこんな蔑んだ名前で呼ばれるようになったかにつき、誰に疑問を抱かれるでなく、世に流布されると言うこの無神経さに、ため息がでる。
何時だったか忘れたが、絶滅種となりつつあるこの鳥のため、孤島に繁殖地をつくろうとする試みが、テレビで報道された。そこまで大切にする鳥なら、どこかでひと言、「名前の理不尽さ」についても、述べてやるべきではなかったのだろうかと、今になって悔やまれる。
もしあれがNHKの番組だったとしたら、真面目に受信料を払っている、視聴者の一人の意見として、取り上げてもらえないものだろうかと、思ったりする。利益第一の民放には期待出来ないが、公共放送のNHKなら、もしかしてという希望が、持てるのだが・・。
かって、日本の風俗街のあちこちに、「トルコ風呂」という派手な看板が、目についた時期がある。
青少年の健全な育成には、とても有害だが、不道徳な男たちには、とても喜ばれるといういかがわしい場所にあった。かまびすしい議論があっても、「トルコ風呂」の看板は、歓楽街の夜を、我が者顔でのさばっていた。それがある時期から、綺麗サッパリと消え、今では日本のどこへ行っても、「トルコ風呂」という看板が見られなくなった。
大切な祖国の名が、こともあろうに、風俗の看板に使われるなどもってのほかと、在日トルコ人たちだったか、来日トルコ人だったかの抗議を受け、政府がこれに応じたのだと、そんなふうに記憶している。
我慢に我慢を重ねた、トルコ国民に何と、申し訳ないことをしたことかと、今にして思えば当然の抗議だし、反省すべきは、われわれの無神経さだ。トルコとアホウドリでは、比較にならない重要度だとしても、こうした抗議によって、世間に浸透した名称が消えるという事実に、注目したい。
迅速に対応した政府と、素直に対処した業界と、日本人だってまんざらでないと、嬉しくなる話だ。こんな事例もあるのだから、アホウドリのことくらい、なんとでもなるような気がしてくる。
自分が、そんな名前で呼ばれていることを知らず、抗議の声だってあげられない鳥だが、人間として黙っていてよいものだろうか。野鳥の会の会員たちは、何をしているのか。
動物や草や木の名前は、誰が、どのようにしてつけているのだろう。どうしたって、学者先生たちの仕業だ、という気がするが、人なつこいという鳥さえ、我慢のならない愚行に見えたというのだから、アホウドリの名前をつけた学者は、よほど人間嫌いの変人だったに違いない。
こういう先生にかかったら、「手乗り文鳥」とか、ペットとして買われている「豚」たちだって、学名のどこかに、「アホウ」の文字を入れずにおれなくなるのだろうか。
トルコ風呂の看板を、潔く変えた、風俗業者に比べたら、学者先生たちは、なまじ知識階級だけに、鳥の名称変更には、簡単に応じてもらえないという不安が強い。