何気なく書店を覗いていたら、柴田トヨさんの詩集があった。
98才の詩人の作品がベストセラーになっていると、新聞で読んでいたので迷わずに買った。帰る電車の中で読みながら、年をとっても、このように新鮮な詩が書けるのかと、驚いた。90を過ぎても、「気まぐれ手帳」が書けたらいいなと、今後の目標を新たにした。ちょっとお茶目で、子供のように率直な比喩で、しかも優しいトヨさんだった。幸せばかりでない人生を歩いて来ているのに、少しもめげず、朗らかな心を失わずと、私にないものを沢山見せられ、すっかりファンになってしまった。
翌日もう一冊買い、今年90になる母へ贈ることにした。母はトヨさんと違い、年を取るほどに昔を悔やみ、苦労ばかりで、楽しいことが何もない一生だったと、電話口で私に語る。週に一度郷里の母にかけているが、毎回同じ愚痴を聞かされるので、閉口している。年を取っても母のようにはなるまいと、その度に思いながら、電話を切る。せめてトヨさんの、万分の一でも見習ってもらいたいと、しかし、そんなことはあからさまに書けないので、黙って本だけ贈った。
字も大きいし、難しい言葉もないし、読めば少しは、母も明るくなってくれるだろうと、かすかな期待を込めて発送した。三日前のことだ。ところが今日、家内の言葉に愕然とした。
「柴田さんの詩は、大したことないね。二つ三つは面白いと思ったけど、あとはどれもありきたりで、詰まらなかった。」
私の豊な感動に対し、何と辛辣な妻の反応であろうか。私が感じ入っている詩への、遠慮ない否定と来た。トヨさんの詩が面白いのか、詰まらないのかというのは、読み手の主観なので判定の基準が無い。
基準のない話でやりあうと、双方が自説を曲げない。 どっちが勝っても、大した問題で無く、時間の無駄でもあるから、たいてい私が折れることにしている。夫婦円満の秘訣は、我慢することだと、何時だったか、テレビで老夫婦が笑っていたが、まったくその通りだ。
トヨさんの詩についても、私は我慢した・・と、自分では譲っている気でいたが、面白いことに、家内もそう思っているらしい。こうなると、どっもどっち、似た者同士と言うことなのだろうか。
さて、ショックを受けたのはそんなことではない。肝心の母が、家内と同じ感想を持つのではないかと言う、不安が生じてきたことだ。しかもその可能性が高い。母は私に似て、結構頑固で、自分の考えを曲げないから、トヨさんの詩を読んだくらいで、人生観を変えるとは思えなくなった。自分の一生は、苦労の連続だったという悲観論の中で、母は安住し、位置づけを得ている気配もあるから、そこが変わると、逆に不安定になるのかもしれない。
結局、トヨさんの詩集は母にとって、何の役にもたたないものとなってしまうのか。自分でも、見当がつかなくなった。独りよがりの私を、常に修正してくれる率直な妻の言葉も、喜ぶべきか、腹を立てるべきか、同様に見当がつかない。
それにしたって、鳩山さんの失敗に比べれば、これで明日の日本がどうなるという話でなし、中国やロシアが介入してくる訳でもなし、とるに足らない些事だ。
こうして日本国民としての、私の一日が今日も終わる。平和なことではないか。感謝。