坂口安吾著『ふるさとに寄する讃歌』( 昭和46年刊 角川文庫 )を、読みつつあります。変色し黄ばんだ紙に、小さな活字で印刷され、しかも時々インクが薄くなっています。
今の文庫本は、活字が大きくなり、紙も上質で、苦労せずに読めます。昔はこんな本を、当たり前のように誰もが読んでいたのですから、時代の変化とは、不思議なものです。こうした時代物の文庫本が、まだ処分できないまま、本棚に並んでいます。
単行本は、ほとんど市の図書館からの貰いものですが、文庫本は、たいてい20代の若い頃買った本です。274ページの本を、94ページまで進み、三分の一を読んだところです。面白いもので、20代の頃一度読んだのに、55年が経過しますと、ほとんど覚えておらず、新しく読むのと同じです。
現在「温故知新」で、沢山読んでいますが、50年経てばみんな忘れ、また新しく読む楽しみが味わえる、と言うことになります。忘れるも忘れないも、50年後に自分はこの世にいませんので、こういうバカな空想は、息子たちに笑われない内にやめます。
いつものように、著者の略歴をネットで調べようとしたら、何と、巻末に詳暦がありました。279ページから291ページまで、12ページにわたり記載されています。さすがに昔の本というべきか、それとも彼が大物作家なのか、そこは分かりませんが、手間が省けました。
無頼派作家と呼ばれ、沢山の読者を持ち、昔から有名なので、息の長い人気作家だと記憶しています。明治39年に生まれ、昭和30年に亡くなっていますから、ずいぶん長生きをしたように感じますが、計算しますと、49才で生涯を終えています。人生わずか50年と、昔の人が言いましたが、理想の人生を全うしたのでしょうか。
本は短編集で、11の作品が収録され、『ふるさとに寄する讃歌』はその内の一編です。『黒谷村』『海の霧』『にじ博士の廃頽』等々、どれも暗く陰鬱な作品ばかりで、氏が理想の人生を全うしたとは、とても考えられません。若い時愛読した、『三太郎の日記』に共通する、自己研鑽への憧憬も垣間見えます。
「充実した人生が欲しい」「自分を生かす道を探したい」「生きがいとは何か」などと、学生時代の私は、安吾に似てぼんやりと、しかし真剣に、青春の浪費をしていました。違いがどこにあるか考えますと、安吾は運よく49才で没し、私は77才になっても世俗の民というところです。彼は49才で有名人でしたが、私は77才でも無名のままです。
無名も有名も、この年になりますと、大きな意味がない気がいたします。愛する妻も子もなく、子や孫の愛らしさも知らず、苦悶のうちに終えた彼を羨む気持ちは、どこからも生じません。
『ふるさとに寄する讃歌』とは、名前ばかりで、描かれているのは不健康な、自堕落な、無気力な人間たちです。自然主義的、私小説的、観念文学とでもいうのでしょうか、読んでいて少しも楽しくありません。自分の中の異常性や、狂気、臆病、猜疑心を、細かく描写しますが、自分が生きる社会や、国や、歴史については無関心のままです。
氏の作品を読んでいますと、牧野信一を思い出しました。家族を嫌悪し、人を拒み、悶々として生きる自分の姿が、誇張した文体で描かれます。雰囲気がそっくりなので、当時の小説の流行のスタイルだったのかと、そんな気がします。年表を見ますと、この作品は昭和6年、氏が25才の時に発表したと書かれています。
横光利一は、「言葉と格闘した作家」だと言われますが、氏も同じでないかと思います。とるに足りないことが、さも重大らしく書かれているのに、退屈せずに読んでいるのは、ひとえに氏の文章力です。人間の悩みや苦しみや悲しみは、世間一般の誰もが持つもので、このありふれた喜怒哀楽が、粗末な文章で綴られたら、たちまち退屈され、読む人はいません。大した内容がないと感じつつも、それでも読まされるのですから、やはり氏はひとかどの作家です。まして25才の時の作品だと知れば、敬意を表すべき才能です。
「白い灯台があった。」「三角のシャッポをかぶっていた。」「ピカピカの海へ白日の夢を流していた。」「古い思い出の匂いがした。」「佐渡通いの船が一塊りの煙を海へ落とした。」
『ふるさとに寄する讃歌』の書き出しの部分の文章ですが、「海へ夢を流す」とか「一塊りの煙を海へ落とす」とか、誰もが思いつく言葉使いではありません。考え抜かれた文章だから、私たち読者は無意識のうちに、作者の世界に誘われます。
昭和6年といえば、若手軍人の政治結社、「桜会」によるクーデター計画が発覚した年です。9月には柳条湖事件 があり、満州事変が勃発しています。東北や北海道で、冷害と凶作が深刻化し、農家の娘の身売りが急増しています。やがてこの困窮が、農村出身の下士官たちを、政治家への怒りへと駆り立て、2・26事件につながります。
それなのに、氏は日本のことに構わず、自分や周囲の人間たちの狂気や激情を、語るだけです。若い女に恋をしたり、酔っ払ったり、喚いたり、そんなことを延々と描写します。自我の追求が人生と思っていた、若い時の私は、きっと氏に似ていたのでしょう。親も兄弟も、自分の住んでいる社会や国について、何も考えず、自己中心だったから、氏の本に惹かれたのでしょう。
77才になった私は、破滅型人生を推奨するような氏に、眉をひそめます。自己研鑽の名目で、欲望やわがままを野放にし、自己破産者になる生き方を肯定する氏に、賛同しません。息子や孫たちが毒されるという点では、反日・左翼の書と同じです。
氏の著書があと二冊ありますので、文学作品を読む姿勢として、私の「思い込み」は、正しくないような気もいたします。こんな結論を持っていては、読書ができませんから、批判をせず、味わうことを優先しようと、思い直しています。息子たちの参考になるか否かは、私の姿勢一つにかかっているような気もします。
頑固な年寄りになった私に、そんなことが可能なのかどうか、次回から「批判せず、味わうことを優先する」努力をしてみます。
保守側の有識者各位とは一線を画する多面的な見方と
考察は、一読しかできなかった拙者にも有意義に感じられたものでした。
但し、イルミナティ史観に関する事共をメインに、要復習
という気もしますので、又の折に少しずつ理解したいとも
思います。
それと、前回貴記事の「凡人はどこまでも凡人で、世間
常識の範囲でしか思考を考えられない」のお言葉は、
正に拙自身にもそのまま当てはまる事で、これはこれ
から念頭に置かないととも思う所です。やはり 少し位
知見があるからと言って、当然心得るべき謙虚さを蔑
ろにしてはダメだなとも思う所です。どこまで実行が伴
うかはまだ未知数ですが。
作家・坂口安吾さんの著作にも 賛否はある様ですが
、恐れながら拙者はお名前のみ知る方でして。拙学生
自分に同氏の著作を耽読している知人がおり、今思い
ますと「余り読書をしなかった不出来が、或いは無用な
言い合いを避けられたか・・」などと言い訳に近い回顧
をしている所です。もし拙者も読んでいたら、ガチンコ
の論争の一つもあったかも知れません。
とに角今回貴連載も、できるだけ先入観を排除して
拝読に伺う様にしたく思います。当時のおぼろげに思
い出す風聞から、坂口作品の中にはかなり激しい調子
の所もありそうですが、努めて冷静に受け止めようと
思います。必要に応じ、ご指導ご鞭撻をお願いできれ
ばとも心得ます。
今回のコメントには、なかなか返事が書けませんでした。かなりいい加減で、かなり大雑把なブログに、ここまで真摯に読んでいただけますと、お返しする言葉をなくします。
私にとっても、偽書を除けば、馬野氏の著作は大変有意義でした。ユダヤ人については、偏見なしに勉強する価値があると思います。どの民族にも善人がいて悪人がいます。
今までのユダヤ人には、悪人のことに焦点が当てられすぎていました、優れた民族として敬意を払いながら、冷静に勉強しますと、世界観が変わると思います。
坂口安吾につきましては、何と言えば良いのか。小説の書評は、難しいですね。これこそ私の主観ですから、どうかそのつもりで、あくまで参考として読んでください。
私の懸案は、鉄道の切手です。どうすれば、届けられるのか。何かいい知恵はありませんか。と言って、困らせる気持ちもありませんので、思案しております。
もしかしたら生きていくためには愛情が必要なのかもしれないとか思ったりします。
自分も人に対して愛情や親しみを感じ、そして人からの愛情も感じることができるようになればそれだけで満たされるのかもしれないです。
幸いにもここ数年で僕は親の愛を感じることができました。それに報いようという気持ちも生まれました。
でも、まだまだ自分中心から抜け出していないようにも思います。
僕の周囲の友達には根源的なことに悩んでしまって愛情を感じないままに、仕事に行けない、勉強ができないと悩んでしまう人がいます。
僕含め自分中心の生き方を矯正するにはどうすれば良いか、実践の中で学んでいきたいと思っています。
多分色々考えても答えは出ないということだけは最近気づきました。
お久しぶりです。私は意識的に、貴方にコメントを入れないようにしています。
ブログを拝見していても、貴方に暖かく接しておられる方がいます。それなのに、貴方はその暖かさが、愛であると感じられていないようです。
「もしかしたら生きていくためには愛情が必要なのかもしれないとか思ったりします。」
今頃になって、そんなことを言われる貴方に、私は返す言葉を失います。金儲けのだけの医者がたくさんいますが、多くのお医者様は、「人への愛」のため精進されています。愛のない医術は、人を救いません。
「幸いにもここ数年で僕は親の愛を感じることができました。それに報いようという気持ちも生まれました。」
だから貴方は、仕送りを減らしてもらい、アルバイトをしようと決意されたのだと思います。しかし私に言わせれば、そんなことをしても、とてもご両親の愛には及びません。減らさないより、減らす方が立派ですが、本当に親の愛を感じるのでしたら、つまらない友との交友を減らしなさいと、私は助言します。
「根源的なことに悩んでしまって愛情を感じないままに、仕事に行けない、勉強ができないと悩んでしまう人がいます。」
根源的なと表現されるところに、友人への共鳴がありますが、とんでもありません。絶え間のない不安感や、ひっきりなしの自己嫌悪や人間不信など、そんなものは、今の貴方にとって、「根源的な、高尚な、形而上学的な」悩みでなく、無視すべき煩悩に過ぎません。
いつまでも自己にかかずらい、自分の穴から世間を見て煩悶するのは、坂口安吾の世界です。自己破滅方の生き方を、貴方はそろそろおやめなそい。そんなものは、お医者様になろうと、勉学に努める今の貴方には、百害あって一利なしです。
自己中心的な煩悶の中にいることが、高尚な人間として生きている証ではありません。まずもって、勉強方法などを説く、学者の「ハウツウ本」など、些末な読書です。
貴方はそんな低レベルの本に頼らなくとも、医学の勉強ができる人なのに、どうしてそのように、自らを小さくしておられるのか。私は、貴方のお父上に代わって、今回は苦言を呈します。
親の愛を感じるのでしたら、坂口安吾の真似をしてはいけません。彼はその悩みを文章にして、それを職業として生きたのですが、貴方の本分は、小説家ではありません。患者を救うお医者様なのですから、発想の転換が必要です。
自分の世界にばかり拘泥せず、貴方を待っている患者のことをお考えなさい。
「親孝行、したい時には親は無し」
亡くなった父を思い出す時、私は、貴方に似た若い日の自分を悔みます。自分の経験から、自信をもって、本日は貴方に苦言を呈します。
ご指摘ありがとうございます。
友人とは共依存になって傷の舐め合いになっていたと思います。
ここで僕が言葉を尽くす意味はありませんので、とにかくこういったご指摘をして下さる方がいらっしゃることや、周囲の人からの支援に感謝しながら、今はやるべきことを一つ一つこなしていきます。
ありがとうございました。
実行あるのみです。
お父上、母上様の、大きな愛を感じる日が来るまで、修行一筋、医学書一筋です。
私は他人で、貴方がどうなっても、ああそうだったかと、無責任に呟くだけですが、ご両親はそうでありません。親の愛を、観念で理解してはいけません。肌で感じなくてはいけません。
実行あるのみです。頑張れ !