鈴木氏の経歴紹介が続いていますが、保守か左翼かという二元論で進めてきた「ねこ庭」は、氏の出現で頭の中が混乱しました。
〈 鈴木邦男(すずき くにお )氏 〉
・昭和54年4月、東郷健の芝居「悲しき人類」が竹中労のプロデュースで上演。天皇を揶揄した不敬なシーンで、鈴木と四宮正貴が客席から舞台上に乱入
・同年、一水会と連携する組織として「統一戦線義勇軍」を設立。初代議長は現在「一水会」代表である木村三浩、初代書記長は清水浩司(のちの見沢知廉)
・昭和57年9月、「スパイ粛清事件」起こる。見沢が新しい右翼団体の設立に際し、一人のメンバーを公安のスパイと疑い、他の4名と共にバールで殴打し青木ヶ原の樹海に埋めた。
・相談を受けた鈴木は木村三浩と協力し、見沢らと遺体を静岡の朝霧高原に埋め直した。
・同月実行犯の4名が、見沢と共に逮捕され、鈴木は任意同行を何度も求められたが逮捕を免れた。( 後に見沢は自殺 )
・昭和59年、「新雑誌X」に天皇を揶揄したイラストを掲載した東郷健と再び敵対。一水会の構成員が東郷を襲撃したため、逮捕。
・平成2年、「一水会」と中核派の五十二日間戦争がおこる。
・平成5年10月20日、野村秋介が朝日新聞東京本社で拳銃自決。
・平成7年、新宿にロフトプラスワンが開店。鈴木は、開店直後から常連となり、まもなくし出演者となる。
・登場人物の一人となり、かつて敵だった赤軍派元議長の塩見達也や、宅八郎、佐川一政、奥崎謙三らとも交流する。
・平成8年、雨宮処凜 ( かりん ) と出会う。タイで投獄された田中義三を激励
ここまでになりますと、「一水会」の会員たちから批判が出て、平成11年に代表を辞任し顧問となります。
・平成11年、アメリカによるイラク戦争に抗議し、イラクへ渡航。イラク訪問団のメンバーは、木村三浩、塩見孝也、雨宮処凛、大川豊、PANTA、竹田恒泰他
何度も言及する気になりませんが、竹田恒泰氏がこのような人物たちとイラク訪問をしているのが、どうしてもひっかかります。「女性宮家」反対、「選択的夫婦別姓」反対を主張する氏が、なぜ左傾の人々とイラク訪問をしたのでしょうか。
鈴木氏の経歴紹介でプログの焦点がずれてしまいましたが、「一水会」メンバーの紹介を始めたのは、保守論者竹田氏への違和感を検討する材料のためでした。
「皇室護持」の点では保守人だとしても、「アメリカの属国からの脱却」を語らない氏は本物の保守人と言えないのでないかと、そのための「一水会」メンバーの経歴紹介でした。
脇道に外れ森の奥へ入りましたが、しばらく竹田氏を脇に置いてこのまま進むことをご容赦ください。
・平成18年、鈴木はかつて日本共産党を追放された筆坂秀世と対談し、『私たち、日本共産党の味方です。』を出版。
・平成21年『右翼は言論の敵か』を出版し、週刊AERAの「現代の肖像」で特集される。
・平成23年、二度にわたり北朝鮮へ渡航、元赤軍派よど号グループと交流
・平成25年、辛淑玉 ( シン・スゴ ) の依頼により、「ヘイトスピーチとレイシズムを乗り越える国際ネットワーク」( のりこえねっと ) の共同代表に就任。
ウィキペディアによりますと、この頃の氏は、「今の自分は右翼度30%、左翼度70%で、四捨五入したら完全な左翼であるのにいつまでも右翼と言われる。」と述べていたそうです。
・右翼活動初期はテロルを是とし、憲法改正を論じていた鈴木邦男だが、時代の変遷とともに、差別と戦争に反対し、平和憲法の貴重さを語るようになっていった。
ウィキペディアの説明ですが、ここまで意見を変えるのでは、さすがに「ねこ庭」も氏を保守人と呼ぶ気を無くします。
組織のトップが敵勢力と融合してしまうのでは、「一水会」の運動そのものが成り立たなくなります。会員だけでなく、古くからの幹部の批判も高まりました。
次回は鉄の団結を誇った「一水会」メンバーが、鈴木氏から離れていく様子を述べます。
ご自分でのブログで、自由な意見を述べられるのは当然です。「ねこ庭」も同じことをしております。
「国民という名の民はない」・・こういう意見もあるのかと思いました。
私は自分が「国民」と一括りで言われても気にしませんので、貴方との違いがここにあるのでしょうか。
丁寧なコメントに、感謝いたします。これからもよろしくお願いいたします。
今回はコメントに気付かず失礼いたしました
当方は皇室中心主義であり平成天皇との至近距離で拝謁し、令和天皇とは握手等々でしたが、、、
近年は批判的な記事も載せておりますが個人の感覚・意見としてご容赦ねがいます
※靖国詣りしないいまま退位!
※昭和天皇「雑草という名の草はない」私「国民という名の民はない」