日々 是 変化ナリ ~ DAYS OF STRUGGLE ~
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朝日新聞の9/28 夕刊に、「愛知万博とは何だったのか」という記事があり、この評論について、逆評論してみたいと思います。

(抜粋)「取材で訪れ、パビリオンの姿に不満を覚えた。三十五年前の大阪万博では、前衛的な建築家やアーティストが参加していたがそれがほとんどない」

(抜粋)「東海圏以外の建築関係者と万博話は盛り上がらなかった。観るべき建築物が少ないのも理由だろう」

涌井さん(万博プロデューサー)の記事を前に取り上げましたが、以下のような説明があります。
「従来の万博のように各国それぞれが独自のパビリオンを建てるのではなく、各国共通のユニット式建築物を使い、その共通ルールの下でお国柄をアピールしてもらいました。」

上記の話は、この点にふれた上で議論すべき、ではないかと。
建築家は派手に作って、あとはどうでも良いというようにさえ、思えてしまう発言です。
建徳関係者との万博話が盛り上がらないのは、もしかしたら、その人たちのレベルがバブルっぽい感覚でできているからではないでしょうか。未だにそういう感覚を引きずっている人たちが建築家なのでしょうか?!とまで思わされます。

オリンピックも引き合いに出されていますが、
「スタジアムのデザインも一定のクオリティーを維持している、一方、万博は半年という会期の長さゆえに、決定的な瞬間を中継するイベントもなく、映像としての迫力を持たない」

オリンピックは確かに一定のクオリティーを維持しているが、スポーツイベント、という巨大かつ決定的な瞬間を持つコンテンツが背後にあるから成立しているのであって、逆に大会ロゴ以外でどう独自色を出していくかという点について、強いて言えばなかなか実現できていない課題なのではないか。(どこにあっても陸上競技場はあくまでも陸上競技場でしかないということ)またワールドカップも同じことですね。

つまり、「万博」と「スポーツ」では、コンテンツの質が全く違うわけです。
こう考えていくと、議論が全くかみあわない訳です。
「万博」を批判する前にすべきことは、「万博コンテンツ」の本質をきっちり見せることだと思います。

建物に依存しなかったからこそ成功、と言っていい、今回の博覧会だと私は考えます。
建物、に意味があるのではなく、あくまでもコンテンツが、万博の勝負なのです。
今回、その傾向がはっきり現れています。
(その点については長くなるので次回)

(抜粋)「里山という全く未曾有の敷地において、まったく違う姿を示すことにこそ、可能性があったように思う。万博を自己批判する万博でありえたかもしれない」

文章全体から感じられることですが、せめてもっとこうすべきだという提案とまではいわなくても少しでも具体的方向性を示すべきでは?

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