-畑沢通信-

 尾花沢市「畑沢」地区について、情報の発信と収集を行います。思い出話、現況、自然、歴史、行事、今後の希望等々です。

カンジキ

2013-05-08 17:54:35 | 民具

 五月四日、畑沢で幼友達を訪ねたところ、カンジキが外の柱に架けてありました。我が家にもありますが、我が家のカンジキは、私がいい加減にいじってしまいましたので、正当な流れを汲むものではなくなっています。しかし、幼友達の家にあるものは、正統派らしいのです。

 かんじきの輪の部分は、クロモジの幹で作ります。クロモジとは「黒文字」の意味で、赤っぽい幹の肌に黒い文字が書かれているような模様があります。高級な爪楊枝に使われる香りの良い木です。大変に粘りがあり、昔は囲炉裏で炙りながら曲げていました。畑沢で見られるカンジキは、殆どクロモジが材料です。他の県ではヒノキを使うところもあるようです。私は、今年の冬、杉の枝を使えないだろうかと曲げて見ましたが、曲げた部分にひび割れが生じてしまいました。杉はカンジキに向いていないようです。

 写真のカンジキは現役で、幼友達が使っているそうです。私が作ったカンジキは、約40年前の物ですが、まだまだ使えます。写真のカンジキはそれ以上かもしれません。そして実に丁寧に作られています。元々、手が器用な一家ですから特に良いものなのでしょう。クロモジのカンジキのほかにも、笹で造られたカンジキもありました。これは珍しいものだと思います。

 私は、これらを参考にして今年の秋に再びカンジキづくりをするつもりです。

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上畑沢の巨大な湯殿山碑

2013-05-06 18:04:15 | 歴史

 上畑沢の延命地蔵(カンバダのズンド様)の脇に、巨大な湯殿山碑があります。過日「背炙り峠の巨大な湯殿山碑」について書きましたが、今回の石碑はもっと巨大です。地面からの高さは、土台石も含めると、3mはあるでしょうか。手を伸ばしても上端は、はるか上です。土台石を含めなくても石碑本体だけでも3トン以上はあるのではないかと思います。

 

 地元、上畑沢の人達によると、石材は立石山から持ってきたそうです。岩質は、背炙り峠の物とは全く異なりますが、堆積岩なのか火成岩なのかも分かりません。全体的に硬い均一な安山岩風な岩質を基本としたところに、2~3mmほどのガラス状の角ばった結晶が点状に散在しています。そのうち詳しい人から教えてもらいます。私の畑沢にあった実家の土台石も同じ岩質でした。恐らく、立石山の石材は、上質な石材として広く使われていたものでしょう。畑沢における産業の一つにもなっていたのではないかと、素人は勝手に想像しています。「立石山」の名称も、石材供給場所らしいものに感じられます。

 

 石碑の表側には「湯殿山」と書かれ、言わずとも知れた出羽三山の一つです。裏側には「象頭山」とあり、四国の山岳信仰の対象の山名かと思います。世話人名、願主の名前もまだしっかりと残っており、読み取ることができました。世話人名は、苗字がない屋号と思われる名前だけです。殆どは畑沢に残っている屋号と一致していますが、一部の名前は思い当たりません。教えてもらう必要があります。上畑沢だけでなく、下畑沢の屋号も見られます。年号は「文化八年」とありますので、西暦に換算すると1811年で、単純に計算すると、今から202年前になるでしょうか。明治維新の57年前になるかと思います。背炙り峠の湯殿山碑は、「袖崎の郷土史」によると嘉永5年(西暦1852年)ですので、上畑沢の湯殿山碑は、それより41年古いものになります。

 

 ところで、畑沢には、何故これほどまでに巨大な湯殿山碑があるのでしょうか。湯殿山碑は特に珍しいものではなく、山形県なら街道筋の多くのところで見られます。しかし、畑沢の湯殿山碑よりもはるかに小さいものです。大きい理由として二つ考えてみました。一つは、背炙り古道が、湯殿山参りの重要な通行路であったことだと思います。宮城県側から山形県へは、上の畑の奥にある軽井沢街道から入って来ました。さらに大勢の参詣者が、背炙り古道を通って湯殿山へ向かっていました。江戸初期に鉱山としての「銀山」が衰退した後は、背炙り古道はこの湯殿山参りが主だったそうです。

 もう一つは、大きい石材を得やすかったことによるものではないでしょうか。タテス石(立石山の石)とゴロウ石(ゴロウ山の石)に見られる石材供給場所があったと思われることです

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背炙り峠を訪ねます(5月12日)

2013-05-03 18:04:02 | 行事

夕方の背炙り峠

 古い背炙り峠は、古代から軍事、産業、山岳信仰のために明治初期まで盛んに使われていた街道の中にあります。峠には「乳母木地蔵」堂あり、さらには、大きな「楯」の跡が残されていることが、近年になってから分かってきました。誰が何のために、いつの時代に作ったのか、大いにロマンを掻き立てます。

 そして何よりも、畑沢の人達が大事にこの峠を守ってきました。今、ひっそりと佇んでいる峠と街道を有志が訪ねます。もし、よろしかったら御一緒にいかがでしょうか。また、興味のある方をお誘いしても結構です。

 

1 日  時………平成25年5月12日(日曜日) 午後1時30分

 

2 集合場所………現在の車道における背炙り峠(先日の記事内容が変更です。)

 

3 雨天時の対応…特に激しく荒れた場合を除いて、少々の雨天程度は現場に行

         きます。

 

4 服   装………ダ二などの心配があります。長袖のシャツ、長ズボン、

          帽子、軍手を着用して下さい。雨具も御準備ください。

 

5 飲 食 物……車道から直ぐですので、おやつ程度で十分です。飲み水は、

       峠の湧き水「弘法水」があります。

 

6 作業道具………せっかく峠に行きますので、古道や乳母木地蔵周辺にお

         ける清掃等をやっていただける方は、鉈、鋸等を御持参

         下さい。

 

7 そ の 他………事故等が起きないよう、自己責任の下で十分に御注意

         下さい。

 

8 予   約………必要ありません。

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背炙り峠(6)  背炙り古道のルート(中間報告)

2013-05-01 21:21:22 | 歴史

 長年の間、夢見ていた背炙り古道の全ルートの概要が見えてきました。これまで、村山市内の友人と調査したものと、国土地理院が明治36年に発行した地図を合わせたものが、次の図面です。まだ、確認していないところが、畑沢地域に多くありますので、これから畑沢の人たちとともに調査することになります。なるべく多くの人の参加をお願いします。

 

 古道は、現在の車道とは全く別のルートになっており、交差する場所も2か所だけです。古道は、牛馬が通れるある程度の幅を持っていますが、重機がなかった昔ですので、傾斜が緩やかな所が選ばれています。古道ができた経緯は、例えば縄文期の狩猟やその後の山での作業道が、自然に街道に発展したのか、または軍事上の目的や鉱物資源などの運搬用に意図的に造成されたものであるかは分かりません。ただ街道を積極的に手入れしていたと思われるところが、あちこちに見られます。尾根を深く断ち切った切通し、急斜面を安全にトラバースする平坦な路面、路面の浸食を防ぐために街道の外へ排水する溝などです。少なくとも確認できたルートでは、明確に「街道」と分かるほどに「跡」が分かります。

 峠付近と畑沢側の途中までは、きれいに下刈りがなされており、恐らく「往時のまま」と言ってもよいでしょう。しかし、残念なことに、村山市側の大部分は、峠からしばらくすると、杉の造林地や広葉樹が街道を塞いで、通ることは甚だ困難です。これだけの歴史的遺産には、まだまだ発見される宝が埋まっていそうな感じです。村山市歴史研究会による保存活動の動きがありますので、尾花沢市側も同調してほしいところです。

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