-畑沢通信-

 尾花沢市「畑沢」地区について、情報の発信と収集を行います。思い出話、現況、自然、歴史、行事、今後の希望等々です。

エンレイソウ

2013-05-16 21:19:24 | 自然

エンレイソウ

 畑沢では、雪が融けた沢筋の小道でたくさん見ることができます。雪が融けた所から順次、葉を開きますので、雪解け時期に差がある沢筋では、早いところと遅いところでは、1か月ぐらいの開きがあります。5月の半ばを過ぎた今でも咲いているところもあります。私が気付いたのは20年前ごろからで、それ以前は全く気づきませんでした。あれだけたくさんあるのですから、気付かないことが不思議です。昔は沢筋の小道も多く利用されて、エンレイソウが静かに生えていることが難しかったのかもしれません。今は沢筋に人が入らなくなり、小道も安全にエンレイソウが成長できるようです。

 大きいのになると、直径30cmぐらいで、それよりも小さいのが普通ですが、ばらつきがあります。葉は特徴的な形で目立つのに比べて、花は3枚の葉の真ん中にちょこんと咲いています。葉と花のギャップが面白いと思います。

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立石山の岩質

2013-05-15 20:59:05 | 自然

 上畑沢地蔵堂の脇にある巨大な湯殿山碑について、過日、投稿しましたが、あの時点ではまだ石材の岩質が分かりませんでした。その後、資料を調べたところ、「角閃石流紋岩」と言う火成岩であることが分かりました。インターネットで流紋岩の画像と比べると一致していました。国土交通省が出している地質図によると、大雑把な言い方になりますが、畑沢は全般的に下部が砂岩、上部が凝灰岩のようです。立石山と大平山(ホウズヤマ)だけは流紋岩です。御所山を中心とした火山活動の際に、地表近くで溶岩が固まったものでしょう。この岩は広く分布するものでなく、他の地層と地層の間に溶岩が入ってできた限られた分布のようです。常盤地区では外にはないようです。なお、大平山に隣接する甑岳は、安山岩という火成岩です。

 

 流紋岩は大変に硬い石で、簡単に細工できません。従って、石段、石臼、灯篭などには使われないそうです。ただ、硬さは路盤の石材としては最適なため、大規模な採石が行われました。そして立石山の原型がなくなりました。しかも、採石場所としての用がなくなると、何らの保全対策を行わないまま、無残な姿で放置されています。聞くところによると、採石業者は倒産したため緑化等の対策が取れないのだそうです。全国の何処でも、何故だか採石が終わると会社が倒産するのは、不思議なものです。この山の所有者も、採石後は緑化などの対策がなされるものと信じて採掘を了解しているはずです。その約束を踏みにじることができる人たちは、どのような心を持っているのでしょうか。採石を許可した行政は、何故に保全対策を強要させる制度にしないのでしょうか。こんなことは何十年も前から言われ続けられているはずです。

 

 立石山のこの大きな傷口は、村山市内の国道上からも見えます。

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5月12日に背炙り峠を訪ねました。-その2-

2013-05-14 17:39:21 | 歴史

4 「楯」跡について

 畑沢には、戦国時代から江戸時代初期にかけて、延沢城の出城というべき「楯」の跡とそれに由来する地名が残されているとの調査結果があります。そのことを4月13日のブログに書きました。今回は、そのうち「背あぶり峠を守る楯」を、畑沢の人をはじめとしてなるべく多くの方に見てもらいたいとことと、追加調査の下調べをすることが主たる目的でした。

 保角里志氏の著書「南出羽の城」は、県内の城跡を広く紹介し、多くの読者を歴史好きにさせました。私も好きになった一人です。歴史の専門家でなくとも、何百年または千年以上もの昔に思いを馳せて、当時の様子をわくわくと想像させたのは、私だけではないでしょう。

 今回の大部分の参加者は、地蔵堂も楯跡も初めてでした。例えば畑沢で生まれ育っても、古道があることすら分からないというのが実情です。ましてや「楯」跡となると、初めて聞いたのではではないでしょうか。「南出羽の城」は大きい役割を果たしています。

 

 さて、もう一つの目的は、この書籍で「未調査」となっている区域について、さらに専門家による調査をお願いするための下調べでした。と言うのは、昨年の11月にこの書籍を読んで興味を持った私が、見物(素人の興味本位)と洒落込んだところ、著者が未調査とされている区域にも「堀切(ほりきり)」らしいものが見えました。

   ※堀切; 城を防御するために掘られた水のない堀

 そこで、保角氏に追加調査をお願いしましたが、大変にお忙しい御様子で、尾花沢市内の方を紹介して下さいました。その後、今年の4月に入って、村山市の友人と現場踏査したところ、まだ知られていない「曲輪(くるわ)」の遺跡も「未調査」区域に眠っている可能性が大きくなりました。何としてもということで、その紹介していただいた方に御同行をお願いしました。

 

  その結果、やはり未調査区域には、結構、大きい「曲輪」の跡があるということでした。既知の曲輪の西側に何段にもなって広がっているようです。曲輪の脇には、堀切らしいものもあるそうです。曲輪と曲輪の段差は、素人の私が見ても、背丈の3倍はあったでしょうか、素人らしく「かなり」と表現します。広さも既知の曲輪に匹敵するのではと感じました。現場の私たちは楽しくなってきました。遺跡が「素人の目の前」で発見されていくのです。

 今回は幸いなことに、春まだ早くて木の葉も下草も茂っていません。見通しが良かったのです。新しく曲輪が発見された場所は、杉の植林がなされ、夏になると下草と雑木の葉が、地面を覆い隠してしまうでしょう。

 残念ながら、今回は私が言っていた「堀切らしいもの」ともう一つの未調査部分は、確認する時間がありませんでした。次回に背炙り峠を訪問する機会に期待しています。

 

5 これから

 下調べをされた専門家によりますと、別途に本格的な調査をしたいということでした。ただ、直ぐにということは難しくて、落葉した秋ごろかなということでした。その時には下調べをした場所以外の未調査区域も調査されるものと思いますので、楯跡はさらに広がる可能性があります。また、尾花沢市だけでなく、村山市も共有の歴史遺産として何らかの動きがあると思います。古道全ルート解明の作業は、私たち素人が進めます。古道沿いの刈り払いは、所有権の問題がありますので、可能な所だけでも進められればと思っています。

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5月12日に背炙り峠を訪ねました。-その1-

2013-05-13 18:12:16 | 歴史

1 はじめに

 予定していた背炙り峠へ行ってきました。大変な好天に恵まれ、調査としてだけでなく、ハイキングとしても最高な一日でした。畑沢側からの参加者は、私も含めて7人でした。畑沢に何らかの形で関係がある6人と歴史を専門的に調査している人です。この日、背炙り峠入口で自動車は通行止めでしたので、ゲートからは歩いて峠を目指しました。車道の峠までは25分かかりました。さらにそこから古道の峠へ林道を歩いて10分のはずが、何しろ好天気なので、「さて、お城山は見えるか」、「あの池は」、「あの畑は」等々と興味が湧いてきます。結局、30分近くかかってしまいました。途中、春の花がまだ咲いていました。山桜、タムシバ(通称 コブシ)、カタクリです。特にカタクリは、陽当たりの良い古道の路面を覆い尽くして、踏みつけないように歩くのも大変でした。

 山桜 タムシバ

 カタクリ

 村山市側からは4人が参加しました。村山市の歴史研究会などのメンバー4名です。中々にパワフルな方々で、村山市中沢から古道に直接入り、自動車道路を使わなかったそうです。しかも藪になっているところでは、刈り払いもされたようです。

 尾花沢市のメンバーと村山市のメンバーは峠の乳母木地蔵で合流しました。合わせて11人と特別参加の犬1頭です。

 

2 地蔵堂について

 乳母木地蔵堂は、かなり傷みがひどくなっています。列挙すると次のようになります。

① 庇の根太が何本か折れていること。

② 床が腐っていて、抜け落ちていること。

③ 出入り口の敷居がほぼ駄目になっていて、戸がきちんと開閉できないこと。

④ 2体の地蔵のうち1体の首が落ちていること。

 

 以上ですが、単なる「修繕」では対応できないものと思われます。

 ところで地蔵堂の中には次のようなことが書かれていました。

① 昭和42年9月(41年前)に建てられたこと。

② 建築に必要な寄付が畑沢全戸のほかに荒町、古殿、延沢、林崎、延沢、尾花沢

 からも寄せられたこと。

③ 棟札に別当と大工の名前があったこと。

 

3 万年灯篭堂について

  

 「万年灯篭」の名称が適当かどうかは分かりません。他に適切な名称がありましたら、御指導いただきたいと思います。実はこの名称は、先日、幼友達から聞いた話に基づくものです。その友達の話によりますと、「小さい時に峠の地蔵さんの脇に万年灯篭があった。屋根の部分が壊れていたけど、どうなったかな」と言うのです。しかし、これまで私が3回も地蔵堂に行ったのですが、灯篭らしきものはありませんでした。今回の調査でその謎を確認することも目的の一つにしていました。

 そして、とうとうその謎が分かった気がします。灯篭はあったのですが、今はその機能を変えているものと思います。乳母木地蔵堂北側の高台に石造りの祠があります。今まで3回も行ったのに1度も中を覗き込んだことがありません。私は石の祠は、全国共通という固定観念を持っていて、正に「上から目線」で見ていたのでしょう。初めてその祠の中を見て、「あっ」と気付きました。祠の中には地蔵が安置されていましたが、風化しておらずデザインも新しいのです。近年になってから灯篭の灯りを置くところに、地蔵が安置されたのでしょう。しかも高台ですから、灯篭として目につきやすい場所です。灯篭が地蔵の祠に変わったと思います。石造りの屋根も一部が壊れていました。友達が言っていた話と完全に合致します。「万年」と言うのですから、毎日のように旅人のために灯を灯していたのでしょう。古道の重要性があらためて裏付けられました。

 ところで「灯篭」が何時ごろに「祠」になったのでしょう。幼友達が見たときは「灯篭」でしたから、その後と言うことになります。その場合、友達が見た時期が問題になりますが、乳母木地蔵堂が建て替えられた昭和42年あたりが、妥当な時期ではないでしょうか。その頃、私たちは中学生なので、もう峠に行くことはありませんし、費用捻出を考えると乳母木地蔵堂建て替えの寄付が集まる時期が適当だと思います。

 

 上記のとおり報告したところですが、その後、7月7日に私の誤りに気付きました。万年ドウロウと言っていたのは、誤りで、万年堂(マンネンドウ)だったのです。私の無知ゆえに「マンネンドウロウ」と幼友達が発音していたのを、実は「マンネンドウ」であることを見抜けませんでした。そもそも、その時の私は「万年堂」を知りませんでした。頭の中で「ドウロウ」に「灯篭」の漢字を勝手に当てはめてしまいました。勉強不足も甚だしい、素人ゆえの勇み足でした。

 

話が長くなりましたので、続きは次回とさせていただきます。

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「峠を訪ねます(5月12日)」の集合場所変更です。

2013-05-10 18:14:19 | 行事

 5月3日に「峠を訪ねます(5月12日)」の記事を投稿しましたが、その中の集合場所を再び変更します。ごめんなさい。

 集合場所を、「現自動車道路での背炙り峠」としていましたが、今回の大雪で開通時期が延期になりました。道路を管理していた県のホームページでは、当初、冬季の閉鎖期間を5月10日までとしていましたが、現場確認の結果、大雪による破損が大きいために、15日までになりました。従いまして、集合場所は畑沢から峠に上る入口といたします。駐車場はありませんので、集合場所よりもずっと手前で、かつ地域の方の邪魔にならないところに駐車してくださるようお願います。

 

 自動車で峠まで行けないために、今回、諦めざるをえない方は、次回に御一緒してくださるようお願いします。また計画いたします。

 

 去る4月26日に村山市側から登った時に、下の写真のように大きな雪崩が、斜面のネットを根こそぎ破壊していました。これが思いのほか重症だったようです。村山総合支庁の北村山道路計画課へ特別に通して下さるようお願いしましたが、安全上の問題があるので「できない」と恐縮していました。仕方ないと思います。そこで、自動車を降りてからは徒歩になります。自動車道路の峠まで20分ほどかかります。天気予報は今のところ、まあまあです。

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