「ただいま畑沢のまとめ中」から抜き書きして紹介します。今回も背中炙り峠です。実は、まとめているのが、まだ背中炙り峠しかありません。
(ア) 古代から中世
背中炙り峠越えの街道について書かれている古代の記録を見つけることはできませんが、この街道に極めて関係が深いと思われる街道があります。それは、現在の銀山温泉の奥にあった上の畑から太平洋側(宮城県側)に抜ける街道です。山形県側からは「銀山街道」や「上の畑街道」と呼ばれ、宮城県側からは「仙台街道」や「最上街道」と呼ばれてきました。この書では、「仙台街道」と言うことにします。仙台街道から山形県に入ってきて、現在の村山市や山形市方面に行くときは、背中炙り峠を通っていくようでした。
さて、この街道の宮城県側からのルートは、漆沢から軽井沢を経て軽井沢峠至り山形県側に出ます。峠から直ぐの場所に天沼があり、そこからしばらくは緩やかな下り斜面が続いて、沢筋に変わってから「上の畑(昔の宿場)」に至ります。この街道が歴史の記録に出てくるのは、天平9年(西暦737年)に大野東人(おおのあずまびと)が大和朝廷軍の陸奥按察使兼鎮守将軍として宮城県側(多賀柵)から秋田県・山形県側(出羽国)に進行したと伝えられています。進行される側である出羽国などの東北地方にとっては、大野東人は、歓迎されざる「侵略者」の手先であると思いますが、世の中はでは一般的に、朝廷側など権力者の行動は肯定されて受け入れられています。その話はともかくとしまして、この時に初めて街道が開かれた訳ではなく、ずっと前の時代から存在していた街道を大野東人が通ったということだと思います。そして背中炙り峠も同様に、地形的なことを考慮すると、大野東人が東北に進行する前から存在していたであろうと考えられます。
実は、古代や中世の古文書ではないのですが、幕末期に書かれた「背中炙峠一件返答書」では、次のような趣旨のことが書かれています。
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背中炙り峠越えの道は、奥羽の太守であった藤原秀衡公(1122~1187)がいる平泉へ参上するために、羽州の諸侯が通った道である。
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藤原秀衡がいた時代は、古代から中世の過渡期に位置しています。返答書では藤原秀衡の時代には、既に背中炙り峠越えの街道が主要な街道だったと主張しています。しかし、返答書が主張する藤原秀衡の時代に背中炙り峠が使われていたという古文書は見つかっていません。私の師匠である大類M氏によると、「藤原秀衡という文言は、いろんな古文書に出てくるが、確たる証拠ではなく単なる慣用句的な用いられ場合が多い」のだそうです。