-畑沢通信-

 尾花沢市「畑沢」地区について、情報の発信と収集を行います。思い出話、現況、自然、歴史、行事、今後の希望等々です。

畑沢にはエビネも生えていたそうです。

2014-04-23 16:36:00 | 自然

 エビネは、野生蘭です。山野草ブームの時には、この花が人気ものでした。ブームが去って、エビネもほっとしているでしょう。今から20年ほど前の職場で、野生蘭を趣味にしている同僚がいました。私は直ぐに感化されて、野生蘭に興味を持ちました。野生蘭の中で、最初に栽培したのがこの花です。当時、この花を畑沢の両親に見せたところ、母がこの花を知っていました。母は山で見たわけではなくて、大分前に畑沢のあるお宅の庭に植えてあったそうです。そのお宅では、畑沢の山中で見つけて、庭に植えていたそうで、キエビネと思われる別のエビネもあったようです。その頃でも、畑沢でも決してポピュラーな花ではなかったようで、めったに見られない珍しい花だったようです。我が家でも、少しだけ植えてあったような植えてなかったような話でしたが、何故か「畑沢産」というエビネがあります。比較的、丈夫な花で、雑草を刈り取っておけば、適当に増えてくれます。

 昔は確かに畑沢の山中に生えていたようですが、今は全く目にしなくなったそうです。春蘭、イヌツツジ(レンゲツツジ)とともに畑沢から消えた花の一つです。理由は簡単です。悪徳な業者による乱獲です。盗採された山野草が、「園芸店」の店頭にに並びました。

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背中炙り峠の歴史的背景

2014-04-22 20:28:34 | 伝説

「ただいま畑沢のまとめ中」から抜き書きして紹介します。今回も背中炙り峠です。実は、まとめているのが、まだ背中炙り峠しかありません。

 

(ア)  古代から中世


 背中炙り峠越えの街道について書かれている古代の記録を見つけることはできませんが、この街道に極めて関係が深いと思われる街道があります。それは、現在の銀山温泉の奥にあった上の畑から太平洋側(宮城県側)に抜ける街道です。山形県側からは「銀山街道」や「上の畑街道」と呼ばれ、宮城県側からは「仙台街道」や「最上街道」と呼ばれてきました。この書では、「仙台街道」と言うことにします。仙台街道から山形県に入ってきて、現在の村山市や山形市方面に行くときは、背中炙り峠を通っていくようでした。
 さて、この街道の宮城県側からのルートは、漆沢から軽井沢を経て軽井沢峠至り山形県側に出ます。峠から直ぐの場所に天沼があり、そこからしばらくは緩やかな下り斜面が続いて、沢筋に変わってから「上の畑(昔の宿場)」に至ります。この街道が歴史の記録に出てくるのは、天平9年(西暦737年)に大野東人(おおのあずまびと)が大和朝廷軍の陸奥按察使兼鎮守将軍として宮城県側(多賀柵)から秋田県・山形県側(出羽国)に進行したと伝えられています。進行される側である出羽国などの東北地方にとっては、大野東人は、歓迎されざる「侵略者」の手先であると思いますが、世の中はでは一般的に、朝廷側など権力者の行動は肯定されて受け入れられています。その話はともかくとしまして、この時に初めて街道が開かれた訳ではなく、ずっと前の時代から存在していた街道を大野東人が通ったということだと思います。そして背中炙り峠も同様に、地形的なことを考慮すると、大野東人が東北に進行する前から存在していたであろうと考えられます。

 

 

 実は、古代や中世の古文書ではないのですが、幕末期に書かれた「背中炙峠一件返答書」では、次のような趣旨のことが書かれています。

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 背中炙り峠越えの道は、奥羽の太守であった藤原秀衡公(1122~1187)がいる平泉へ参上するために、羽州の諸侯が通った道である。

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 藤原秀衡がいた時代は、古代から中世の過渡期に位置しています。返答書では藤原秀衡の時代には、既に背中炙り峠越えの街道が主要な街道だったと主張しています。しかし、返答書が主張する藤原秀衡の時代に背中炙り峠が使われていたという古文書は見つかっていません。私の師匠である大類M氏によると、「藤原秀衡という文言は、いろんな古文書に出てくるが、確たる証拠ではなく単なる慣用句的な用いられ場合が多い」のだそうです。

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背中炙り峠の近くに大きな池があります。

2014-04-21 15:58:47 | 自然

 古道にある背中炙り峠を探していた一昨年の11月に、背中炙り峠に近い畑沢側に大きな池を見つけました。突然、眼下に現われたその時に、私の空想は大きく広がりました。背中炙り峠に西暦1600年ごろ、楯が築かれたという保角里志氏の「南出羽の城」という本を既に読んでいましたので、この池と楯を頭の中で結びつけました。その内容は、「楯が築かれたころ、楯で使用する水をこの池で確保していたかもしれない」というものです。ついでに、「この池で魚を飼育して、蛋白源も確保していたのではないか」とまで発展してしまいました。

 ところが、後日、畑沢の古瀬K氏と古瀬T氏に聞いたところ、「近くに田んぼを作った時に、用水を確保するために最近作られた池」であることが分かりました。両氏が言う「最近」とは、昭和30、40年代のことのようですので、半世紀も前ということになりそうです。私の広大な素人説「楯と池」は、すぐさま崩れてしまいました。

 それはそれとしまして、結構、大きい池です。国土地理院が発行している2万5千分の1の地図には出ていませんが、goo、Yahoo、Googleの地図にははっきりと出ています。とても、個人が作った池には見えません。昔から存在しているかのような神秘性も備えています。

 上の写真は、一昨年の11月です。下の写真は、今年の3月の写真で、表面が凍結しているようです。

 

 

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半鐘の反証

2014-04-20 10:15:55 | 近況報告

 4月4日に「下畑沢の半鐘」というタイトルで、半鐘の形が変わったとお伝えしました。しかも「市内の半鐘が全て変わった」とまで言い切りました。ところが畑沢のお祭りの日に、延命地蔵堂の近くにある半鐘を見上げたところ、以前のままの姿でした。

 私はまたしても早とちりをしてしまいました。変わった半鐘は、何らかの損傷を受けた所だけだったようです。下畑沢と私が見た常盤以外の地区の半鐘です。上畑沢の半鐘は丈夫で長持ちだったようです。

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畑沢のビューポイントからパチリ

2014-04-19 08:39:40 | 近況報告

 久しぶりに芸術的な気分になりました。畑沢のお祭りの日、上畑沢の延命地蔵堂の境内に登った時に、北側から畑沢の絶景が広がりました。つい、自分の腕前もわきまえないで「芸術的」に撮影したくなりました。撮っている時は十分に芸術的なのですが、あらためてじっくり見ますと、いまいち芸術的ではありません。この芸術に関する能力については、今さらどうしようもありませんが、私の気分だけはお伝したくて、恥を忍んで「芸術的写真」を見ていただきます。

 左側の大きい杉は樹齢数百年、右側の墓石のようなものは約二百年前の石仏「大乗妙典一部一字一石一禮」です。中央の集落は、上畑沢です。

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