-畑沢通信-

 尾花沢市「畑沢」地区について、情報の発信と収集を行います。思い出話、現況、自然、歴史、行事、今後の希望等々です。

ツノハシバミ

2014-04-12 07:43:10 | 自然

 去年の9月中旬に背中炙り峠の途中で撮影しました。このトンガリ頭の実を覚えていましたが、名前が出てきません。そのため、投稿しないままになっていました。ところが、尾花沢市の牛房野で、別の話がきっかけでこの木の正体が分かりました。3日前ほど、水辺の保全に関する用事で、牛房野のに出かけました。すると、柴(しば)を束ねる時に使う雑木の話になりました。囲炉裏に焚く(畑沢では「クベル」という。)木は、山で一束ごとに束ねられます。その時、束ねる材料は縄ではなくて、山のしなりやすい雑木が使われます。その雑木は、「ハスダミ」だと言うのです。私が「それは、正式な名前ですか」と尋ねると、「んだ。ハシダミだ」。いつの間にか「ス」が「シ」に変わっています。それでも、私は強い疑いを持っていました。と言うのも、山にしっかりと密着して生活していた地域では、しばしば正式な和名とは別に地域独特の名前が付けられているからです。例えば、カンジキに使う「アブラチャン」は、畑沢では「トリキ」と呼ばれていました。

 さて、疑いの心を持ったままの私は、家で調べてみました。いつもの、インターネットでの検索です。「ハシダミ」のキーワードで画像を検索すると、出てきました。その中に見覚えのある画像がありました。今回、投稿している「ツノハシバミ」です。「ハシバミ」の画像もありました。「ハシダミ」ではなくて「ハシバミ」だったようです。やはり、東北では「ズ」と「ダ」の発音はいろんなところで元気です。「ダ」が「バ」を凌駕していました。

 

 正式和名「ツノハシバミ」は、小学校時代の思い出があります。畑沢分校から少しだけ県道を上(かみ)の方へ進むと、山の斜面が道路の右側に接しています。当時、猿のごとく木登りをしていた私たちは、この木の実を見つけました。私たちの中の一人が「こえづ、食えんだ」と教えてくれました。しかし、写真でも分かるように実の表面には細かい毛が生えています。この毛がやっかいもので、手の皮膚にチクチクと刺さります。そこで、砂利道の上に木の実を置いて、靴(通称「短靴」と呼ばれていたゴム製の靴)で木の実を押し付けながら転がしました。猿はここまで知恵が回りません。毛がなくなった実を剥いて食べました。味は全く覚えていません。たいして美味いものではなかったのでしょう。栗、木通、グミなどを食べ慣れている高級な山猿を満足させるものではありませんでした。しかし、一度でも「食べられる」と聞いた以上は、見つけたら最後、決して見逃さないようにしていました。その後、もう一度だけ食べる機会がありましたが、それからずっと見つけることができなくなっていました。久々の再会でした。


尾花沢市立常盤中学校は今年が最後!

2014-04-10 19:49:13 | 近況報告

 中学校を卒業してから何十年もの歳月が流れてしまいました。決して良い思い出がある中学校ではありませんが、来年度からなくなってしまうとの話を聞いて、いよいよかと寂れていく現実を悲しく受け止めました。生徒数が年々、減少して、とうとう尾花沢中学校と一緒になります。今年度は最後の年度として卒業生又は地元で何かの動きがあるかと思って同級生に聞いてみましたが、今のところ全く動きはないようです。畑沢の中学生も今年の3月に卒業して、中学生は一人もいません。私の畑沢での同級生は13人でしたので、世の中が大きく変わってしまいました。

 果たして、今の世の中はこれでよいのでしょうか。日本全体を見ても、出生率が2.0からかけ離れて低くなっており、現在の人口を維持することができないばかりか、凄まじい勢いで減少することが分かっています。若い人たちから見れば、とても子育てができるような世の中ではないようです。大企業勤め以外は収入が低く抑えられ、社会全体でも子供を育てようとの意識が低い状態です。とても、大部分の若い人たちが希望を持てる世の中とは言い難いと思います。「経済活動が活発」とは、単なる経営者層の利益が多くなることであって、決して国民の一人一人の経済力が強くなることを意味しているわけではないようです。今の世の中を支配している人たちは、私たちの様なちっぽけな国民をただの「労働力」としか見ていない様に思えてきます。民主主義とは言っても、本当に民主的なルールで動いているのでしょうか。世の中を動かしているのは、民主主義ではなくて、私達には見えない何か「大きな影の力」のようなものが存在しているようです。しかも益々、エスカレートして非民主的な世の中に進められようとしています。

 あれ、スビタレが大きく脱線してしまいました。でもスビタレでもこんなことを感じてしまうような世の中になりました。ところで、常盤中学校が来年の3月で終わりますが、校舎は残ります。来年度、一年間かけて中学校仕様から小学校仕様に改装するそうです。その後に、常盤小学校が中学校跡に引越しするとのことでした。

 下の写真は、昭和42年の卒業アルバムに掲載されていたものです。もちろん、現在の中学校の建物ではありません。校歌を歌えますか。私は歌えません。


畑沢の雪が斑(まだら)です

2014-04-10 18:26:43 | 近況報告

 今日、畑沢へ行ってきました。雪が融け、真っ白かった雪原の表面が汚れています。山の斜面や川の岸辺は雪解けが早く、土が顔を出しています。

 間もなく、畑沢のお祭りです。4月15日(火)の10時半からお祓いが行われます。熊野神社には、区長の外に組長、氏子代表が集います。私も昨年に続いて仲間入りさせていただく了解を頂戴しました。熊野神社の準備は、13日に行うそうです。県道から神社までの参道を除雪するのが、いつものことなのだそうですが、今年は除雪は困難なようなので、雪を階段状に削ることになるかもしれません。


畑沢の祭りが近づきました

2014-04-05 12:29:07 | 行事

 使用を26年の畑沢祭が、近づきました。4月15日の予定です。その日は、上、中、下のそれぞれで、近くのお堂をお参りした後で、熊野神社において畑沢全体のお祭りをします。結構早くから集まります。去年が私の熊野神社デビューでした。今年も参加します。去年はまだ畑沢のことを知りませんでしたが、一年間猛勉強をしましたので、半人前ながらも話についていけるのではないかと思っています。そして、さらに勉強させていただくつもりです。

 写真は、熊野神社から荒屋敷(アラスギ)方面の眺めです。


下畑沢の半鐘

2014-04-04 18:47:11 | 近況報告

 「半鐘」と言われて分かりますか。「はんしょう」と発音します。そのように書きますと、「ああ、あれか」と思い出していただけると思います。小さい頃は、音で聞いていただけで、漢字を見たことがありません。あらためて「半鐘」と書かれると戸惑います。私もブログに投稿するために調べて、初めて漢字を知りました。お寺にある大きな鐘と比べて小さいので、「半分の鐘」の意味なのでしょう。

 畑沢には、昔から2か所にありました。一つは下畑沢の熊野神社へ登る階段の入口で、もう一つは上畑沢の延命地蔵堂がある丘の下にありました。学校からの帰り道にあるのが、熊野神社の所のものです。ここでも思い出があります。昔の半鐘は、はしご状に組まれた大きな木の櫓に半鐘が吊るされていました。子どもの私たちには、とてつもなく高い場所にあります。それでも、畑沢の子ども心としては、そこまで登りたい気持ちになります。いくらスビタレと言われていても気持ちだけはあります。スビタレと言われていない尊敬すべき先輩たちでも、普通は無理だったようです。登れば、親からこっぴどく叱られます。「このばがやろ」です。でも、極めて少数ですが、登ったという強者の伝説はありました。当時、その名前を聞けば、「ああ、あいつか」と納得できました。火事で一度、早鐘がなりました。私が小学校へ入学する前の年度です。

 さて、その半鐘ですが、日々、変化しています。いつの間にか、木の半鐘台は鉄塔に変わり、熊野神社の近くにあったものは、より北側の人家の近くに移動しました。ところが、今年になってから形が変わっていました。

写真Aは、2年前です。雪が屋根にうず高く積もっています。写真Bは、今年の2月です。屋根が壊れていました。写真Cは、今年の3月です。鉄塔全体を覆っていた屋根がなくなり、鐘だけをちょこんと覆った小さい屋根になっています。よく見ると、鉄塔も寸詰まりにカットされていました。私は怒りがこみ上げてきました。「畑沢の半鐘を何と心得るか。適当に修復するなどもってのほかである。まるでスビタレ流ではないか」と。

 ところが、畑沢に限らず市内の半鐘は、この姿に変わっていました。でも、みすぼらしくて、前の姿が懐かしいと思います。こうして見ると、「半鐘」も、村のシンボルだったような気がします。