ウグイスと
弥生の道を
海求め
うぐいすと u gu i su to
やよいのみちを ya yo i no mi chi o
うみもとめ u mi mo to me
ウグイスは、春の季語である。
しかし、弥生時代(紀元前3世紀~紀元後3世紀中頃)の遺跡「むきばんだ遺跡」を訪ねたのは、先週である。
句の「やよい」とは、弥生時代のことをさす。
むきばんだ遺跡(妻木晩田遺跡)の弥生人と同じように、弥生の村から夏の海を求めた。
村から海へと道は、少しずつ下る。
すると、目の前に日本海が広がる。(冒頭の写真)
遠くに島根半島。
美保湾である。
妻と二人で、びっくりした。
弥生人はこんなにも素晴らしい景色を、毎日見ていたのか?
夏の青空の下の日本海を、しばし見とれていた。
まさにパノラマである。
しかも、その美しいとまだ知らないパノラマ写真のような光景を求める道すがらでは、ウグイスが鳴いて迎えてくれた。
私たちが想像するより、はるかに豊かな生活を弥生人たちはしていたに違いない。
実際、我々がむぎばんだ遺跡を訪ねたその日は、気温が摂氏35度にも上がり、高温注意情報が防災無線から流れていた。
しかし、復元された竪穴式住居の中の気温は、ご覧のように、摂氏27.7度、
湿度74%。
外よりはるかに気温は低く、風通しがよいので、うっすら汗をかいていたのが、すーっと引いていく。
風は、入り口から竪穴式住居の上部に空いた開口部から抜けていくので、想像以上に通気性がよい。
また、半地下式なので、床からは冷気が伝わってくる。
今、自宅で午後5時過ぎで、網戸にしても摂氏30度ある。
扇風機なしでは、汗が止まらない。
この状況と比較しても、まったく遜色ないどころか、快適性では、むきばんだ遺跡の竪穴式住居のほうが完全に上回っている。
しかも、蚊取り線香を炊かなくても、そんなに虫は来ない。
冷気のせいと当時は、焚き火で住居が燻蒸されていて、虫が近寄りがたかったと想像できる。
むきばんだ遺跡は、今では海から遠いように感じるけれど、弥生人にとっては、ちょっと丘を下って漁に行ってくるといった感覚ではないかと想像できる。
現代人よりはるかに良く歩いていたと思われるし、だいたい歩かなければ生活が成り立たなかったでろう。
農耕するにも、漁をするにも。
つまり、生活するには最高に快適な環境だったに違いない。
竪穴式住居395基、掘建柱建物跡502基(多くは高床式倉庫として用いられたらしい)、墳丘墓24基の数の多さがその何よりの証拠である。
むきばんだ遺跡は、開発の計画があったが、現地調査をして、面積170ヘクタールにも及ぶ広大なものであることが、判明したという。
この弥生人の生活の様子を、開発を中止してでも後世の世界の人々に残したことは、まさに世界遺産を1つ残したと同じと個人的には考えている。
何故なら、和の人々の生活の「原点」が、遺跡から見えてくるからである。
例えば、今使っている蚊取り線香。
弥生人たちが、炊事用に使っていたのだが、その煙による燻蒸作用に着目して作られたのが、蚊取り線香と考えていいと思う。
庭で草取りをしていても、蚊取り線香を焚いていると、ほとんど蚊は近寄って来ない。
室内で使っていても、除虫菊の嫌な臭いを毛嫌いして、虫は入ってきても、近づかない。
また、屋根をふいていた茅も雨よけと同時に防虫用と考えられる。
適度な通気性がありながら、虫は通過させないというアイディアは、網戸や蚊帳(かや)に受け継がれている。
蚊帳は、今ではアフリカで重宝されているらしい。
縄文時代と弥生時代を合計すれば、約14000年もの間、文化が継続した秘密がむきばんだ遺跡にはある。
もちろん、ここ以外のすべての遺跡がそうであろう。
2つほど例を挙げたけれど、注意すればいくつも挙げられるだろう。
私たちはたまたま、むきばんだ遺跡で「原点」を体験したので、こちらを是非お勧めするけれど、和の国には首都圏や関西圏以外でもたくさん復元された遺跡があるので、実際に竪穴式住居等に入ってみて、体験して頂ければと思う。
そこから、和の国の人々が何を考え、何を積み重ねてきたかご理解いただけると思う。
そして、現代の「和の国の人々」が「縄文人や弥生人」から、何を受け継いでいるかを。
これからも、本ブログでは「和の国の人の原点」を縄文や弥生の遺跡から探っていきたい。
しかし、皆様に実際に訪れていただければ、より深くご理解いただけると思う。
今回のむきばんだ遺跡を始め。