黒曜石
縄文の夏
海越えて
こくようせき ko ku yo u se ki
じょうもんのなつ jo u mo n no na tsu
うみこえて u mi ko e te
出雲への旅行の帰り、妻と私の乗った全日空機は、ちょうど神津島の上空を飛行した。
これも何かの定めであったようだ。
眼下の神津島は、伊豆の下田から直線距離で約200キロメールちょっと。
縄文人は、この距離を丸木舟等で黒曜石を求めて、命がけで神津島に渡った。
往復なら400キロメール以上。
その光景を、想像で句にした。
私の疑問は、どうしてそこまで危険を冒して、片道200キロメール以上の神津島まで、約1万5000年から前の縄文人が渡ったかだった。
なぜ、黒曜石に縄文人がこだわったのか?
(黒曜石はWikipediaにもある通り、南関東の縄文時代の遺跡でそれこそ無数に発見されている。しかも、分析の結果、神津島産と同定されている)
結論は、黒曜石が美味を求める縄文人にとって、何より必要だったからだと考えている。
黒曜石は、Wikipediaにあるとおり、ガラス質で断片が鋭利である。
そのために、矢じりの先につけると、獲物を簡単に捕獲することが出来る。
動きの速い小さな魚はもちろんのこと、冬場の海の獲物が少ない時期の、鹿や猪を狙うときも、鋭利な刃先が獲物の身体に食い込み、ダメージを与えることが出来、捕獲が容易である。
もちろん、捕獲した獲物を分けるにも重宝したに違いない。
刃先が鋭利だから、スパッと切れる。
つまり、獲物の味を損なわない。
獲物の味を損なわないから、美味しい。
ちょっと考えてみれば分かるが、刺身を食べるのに表面がザラザラな食感だったら、美味しくない。
つまり、縄文人はグルメを追求した。
1万5000年以上も前から。
また、刃先が鋭利だから、ぶつぶつにならず、等分に分けられる。
等分に切れなければ、食料をめぐっての争いは、熾烈を極めるのは、昔も今も変わらない。
だから、争いも少ない。
他の時代に比べて、争いが少ないということも研究結果として発表されていて、このことを裏付けてもいる。
和の国の人たちが、江戸時代に寿司を発明したのも、縄文人が美味を求めて、神津島まで命がけで黒曜石を求めたそのDNAを受け継いでいるからと考えている。
お米は確かにカロリーは高い。
しかし、無味に近い。
そこで、華屋与兵衛は、縄文人の美味追求のDNAで縄文時代人のように、本来の美味しい海鮮をさらに美味しく食べる方法を発明したのだ。
それが、握り寿司だ。
因みに、縄文人は米が大陸から渡来したにもかかわらず、米食に移行しようとはしなかった。
これも、縄文時代人の環境が米食に移行する必要のないほど恵まれていたからである。
火山の島(和の国)は、噴火の噴出物で森は恵まれ、森の栄養で海も恵まれていたからである。
そこに、黒曜石があれば、獲物は豊富に捕獲することが出来る。
その上、鋭利な刃先で美味を追求出来る。
さらに、美味な獲物を鋭利な刃先で美味なまま、スパッと等分出来る。
争いが少ないのは当然なのだ。
それに、米作をすれば土地や水争いは増え、美味は追求できなくなる。
美味を追求できない米作より、恵まれた環境で美味を追求することを縄文人は、選択してきたのだ。
しかし、私が本当に言いたいことは違う。
和の国の人々は、この縄文人のDNAを多かれ少なかれ受けついでいるということだ。
命がけでたぶん丸木舟で200キロメール以上の海を越えて、何百回も何千回も、神津島まで黒曜石を採りに行って来たという勇気あるDNAを。
今でも、美味を追求して、ラーメン、カレー、寿司 など、よりよい味を追求している。
神津島まで渡った、縄文人のDNAと変わらない。
美味を求めるDNAはあらゆる分野で、よりよいものを今でも追求している。
和の国のルーツを知りたければ、是非、縄文時代の遺跡を訪ねていただききたい。
そこで、あなたは縄文の日本人に会うことが出来るから。
因みに私たち夫婦は、そうした勇気ある縄文人が暮らしたであろう丘の上で、毎日生活させてもらっている。
何と光栄なことだろう。
そして、誇りだろう。
上の写真の上から2段目が黒曜石である。
左から3番目は、特に断面が鋭利である。
鏃(やじり)にされて、獲物を効率的に捕獲できたと思われる。
この写真は、古代出雲歴史博物館に展示されていたものである。
黒曜石は、ここだけでなく、各地の縄文時代の博物館に展示されている。