全てのチョンと虫獄は汚物喰らい、汚水を飲む事になる。PM2.5の影響で鳥を大量に殺した罰だよ。悉く死ね、虫獄。
虫獄、即ち虫の地獄、虫ですら、生きる事が難しい毒の巷。全く虫獄には似合いだ。そして、クソ民族にはクソの腐った自分のひり出したもの。
だが、日本では、同じく、自分の下から出たものを「肥料」とする。
これはフランスの文豪、ビクトルユーゴが書いているのだが、ちょっと長いけど書くね。
パリーは年に二千五百万フランの金を水に投じている。しかもこれは比喩ではない。いかにしてまたいかなる方法でか?否昼夜の別なく常になされている。いかなる目的でか? 否何の目的もない。いかなる考えでか?否何という考えもない。何ゆえにか? 否理由はない。いかなる機関によってか? その腸によってである。腸とは何であるか? 曰く、下水道。
二千五百万という金額は、その方面の専門科学によって見積もられた概算のうちの最も低い額である。
科学は長い探究の後、およそ肥料中最も豊かな最も有効なのは人間から出る肥料であることを、今日認めている。恥ずかしいことであるが、われわれヨーロッパ人よりも先に支那人はそれを知っていた。エッケベルク氏の語るところによれば、支那の農夫で都市に行く者は皆、我々が汚穢と称するところのものを二つの桶いっぱい入れ、それを竹竿の両端に下げて持ち帰るということである。人間から出る肥料のお蔭で、支那の土地は今日なおアブラハム時代のように若々しい。支那では小麦が、種を一粒蒔けば百二十粒得られる。いかなる海鳥糞も、その肥沃さにおいては都市の残滓に比すべくもない。大都市は排泄物を作るに最も偉大なものである。都市を用いて平野を耕すならば、確かに成功するであろう。もしわれわれの黄金が肥料であるとするならば、逆に、われわれの出す肥料は黄金である。
と言うように「大激賞」している。
但し、この例外がチョングソ虫獄の特亜である。この時期、特亜は、ゴミ虫程度だった。
まぁ日本も、室町時代から、農業技術が向上していたのだが、其れ以前には、日本は「麹」を初めとする「醸す」技術が突出していた。
麹屋は、平安の中期から末期には既にあったと聞いている。但し、堆肥は草木灰が基本である事が長年続いていた。
この人糞に依る堆肥は、感染症を広げる事にもなり、また寄生虫の害も出したが、土地生産量が劇的に増加した。
実はヨーロッパの頭の悪い物書きが「何故シュメール時代1粒が30倍以上になったのに、今の(15世紀から18世紀)ヨーロッパは1粒が10倍程度にしかならないのか?」とほざいていた。
所が、まぁそれは「神の国のパワー」っての?まぁチョングソや虫獄には関係ないけど、日本は、先ず「気温低下が少なかった」のである。まぁ悪いチョンや虫獄には神様が怒ったんだね。
それでも大飢饉が5回はあった(三大飢饉てのは、まぁ糞馬鹿文化系大学出がチョングソや虫獄並に糞馬鹿で低能だからだけど)でも、それも例えば、全日本が駄目になったってのは、少なくて、往々にして日本の一部がそうなったという事で、この辺は「アマーティア・セン」教授が言う「貧困経済論」にあるんだけど、当然頭の悪い糞馬鹿文化系大学出やチョングソ・虫獄は知らないだろうね。
まぁ究極の低能に期待する事じゃない。
また日本では、農業技術が向上したのである。先ず、あまり糞馬鹿文化系大学出の低能は指摘しないが、豐臣秀吉の刀刈りは、その後「農具に打ち直す」と言う事になり、それを大名の指示下で見聞して、確認したのである。(この辺は勉強をした事も無い、糞馬鹿文化系大学出は知らない。勉強した連中がホザク事は「休むに似たり」である)
この事は、実は大変な問題で、江戸時代は初めて農具が「鉄器」だったのである。
では其れ以前は?
鎌倉時代の農業がそうだった。当時の武士は、今の糞馬鹿文化系大学出と同じでケチという言葉で表現が出来ない程、吝嗇が酷く、農民には自分が持つ鉄の農具を使わせなかったのだ。
だから武家や、荘園の生産力は高く、そうでない所は少なかった。
正確に言えば、農地が広かったのである。鉄鍬を使うと木の鍬よりも3倍から5倍増える。
この鍬に依る開墾は、往々にして畑である。
畑ってのは、まぁ頭の悪い糞馬鹿文化系大学出は知らないだろうが、年を経ると、石を取るので、生産量が高くなるのである。
田んぼは、実は鉄器は必要性は少ない。畑の場合は、毎度収穫の後には、作物の根っこが土を固めるので、柔らなくしないといけない。
よく、江戸時代「山盛り飯」の話をするのだが、この手の穀物の生産は、鉄鍬が必要ないので、生産量のメインはコレだったのである。
つまり、江戸時代から野菜などの「商品作物」の生産が向上したのである。
その一番の強力な助けとなったのが「鉄鍬」であり、何より「備中鍬」である。
この備中鍬は、本当に石だらけの荒れた土地で効果を発揮する。
それは通常の一枚板の鍬では、石が混じっている土では割れるのである。
この備中鍬が広まる事で「副菜」が増えたのである。
そして、室町時代中頃から、人糞を使う肥料が広まったのである。
フランスではビクトルユーゴが嘆いているが、確か同じ時代イギリスでは堆肥を作る技術があった筈である。
ただ、その場合、馬糞・牛糞による堆肥だったと思う。そう言うビデオを私は見ていたのだよ。
この堆肥は日本も昔は馬糞や牛糞を使っていたのだろうが、当然牛も馬も欧米より少ない日本では、人糞を使おうと思ったのだろう。
ヨーロッパでは人糞は、チョンや虫獄の様に、道端に捨てたり、川に流したり、下水道を作って流したりしていた。
では、日本では?となるだろうが、実は高田馬場や大名家でお目見えに(毎月1日)乗馬している露払いが居る旗本家や流鏑馬をやる武家では大量の馬糞が出た。
お目見えをする為に江戸城前に集まる馬の後ろには「馬糞拾い」が居て、これは契約農家が肥え桶を片手に拾って回った。
馬糞に依る堆肥は牛と違って「塩分」が少なくて上物の肥料となっており、高く買われたのである。
他方で牛は?と言うと江戸時代前半は赤坂や地名にもある牛込には牛が大量に居た。
牛を使った牛車は、赤坂などのような坂道で荷物を上げたり下げたりするのに使われたが、それは徐々に大八車、大阪ではセン車を使うようになった。センは車全と言う文字だがJISには入っていない。
何故牛車が減ったのか?それは牛車のもうひとつの使い道、三度便の発達である。月3回便があるから「三度便」と言う。この三度便の人夫が被っている傘が三度笠である。
当然頭が悪く勉強なんて「休むににたり」の糞馬鹿文化系大学出は知らないだろうが、この三度笠はヤクザの為にあったものではない。
この三度便は月三度だったが、大阪と江戸だけの便だったのが、それ以外の場所や、何より便数が増えて結局牛は、三度便に使うものにほぼ全部がなってしまったようである。
よく坂本龍馬が出した手紙の輸送費が1両だったというが、この時代1両は8000文である。通常1両は15万円で計算している場合が多いが、それは江戸中期である。
この頃、1両は6000文程度である。ただ、その後、例の田沼意次のお陰で50年程度で1.3倍になった。目減り分を考慮しても、大体1両20万円程度が普通である。
場合によっては、25両、30両の可能性もある。この貨幣価値は、米価が今の5倍ぐらいになっており、燃料代も5倍ぐらいだった。逆に家賃は1/5程度ぐらいである。
また人出がかかっており、更には大手が出ている場合、費用は高く付く。よく籠に乗るシーンが出てくるが、この籠の運賃が高い。
おっと話がずれた。で、続きは別ので書きましょう。
だが、その前に、チョンも虫獄も全く農業的進歩はなかった。
つまり「能なしの集団」であった。また、この頃の虫獄の最大産業は「アヘンを吸う」事である。
当然何かが進歩する余裕はない。また乾隆帝は梅毒で死んだらしいが、この糞みたいな状態で、帝国なのか低酷なのか分かりはしない。
そして、チョングソは、それにも劣るというから、まぁ「なんかおる」程度だ。
実際、虫獄からの産物は殆んど無く、その当時日本の産物が持て囃された、何より持て囃されたのは花瓶などの陶器を包んでいた浮世絵が爆発的にヒットして、感動の渦を巻き起こした。
そんな事は、糞を食うばかりのチョングソにはできるわけがなかった。と言うよりチョングソって「いたの?」程度である。多分100年後には「遼東半島」は「虫獄の領土」であり、昔から今に至るまで「虫獄の領土」と言う事になるだろう。
我々も面倒くさいので、それで良いと思う。