○災害、暴動、いとこいの喜味こいし師匠などの訃報など、ニュースが相次ぐが、毎日、たまたま今日まだ命があって生き残っているのが自分なんだ、ということにすぎない。追悼報道等で、単なる懐古主義ではなく、その都度この世に生き残る私たちが考えるべきことは、実は極めて今日的危機の問題なのではないかと思うことがある。「物事は明るい方に考えることが大切」という脳生理学者やスピリチュアリストの提言は沢山あるし、それは潜在意識としてよいことなのだろうと思う。が、問題を考えない、思考停止して無視する、ということが、それでほんとうによいのか?といえば、やはり何か違うのではなないか、と思う。本当に「心に正直になる」とすれば、問題があることを顧みない、ということはないはずだから(だから自分はどちらかというと鬱になりやすいのか、といわれてしまえばそれまでだが…)。だから、あまり「暗い気持ちになる自分」までも責めないようにする方が、むしろ自分の中では「明るい」方に保つ方法なのかもしれない。(写真:唐津街道沿いを歩くむすび丸)
本日のBGM:
・「新 事件」OPテーマ曲 /間宮芳生、東京室内楽協会
(『新 事件』「わが歌は花いちもんめ」1981 チャンネル銀河、1/27・30 #4)
このオープニング曲が聞こえてくるだけで物凄く「陰々滅々」「鬱」になるのは何故なのか。と思いつつ、改めて聴くと本当に名曲である。このケーシーさんの出てくる話は、リアルタイムで見たことがある。というより、毎週土曜夜に両親たちがこの「ドラマ人間模様」を夢中になって見てるのを、よく意味がわからないながらも一緒に覗き見ていたような感じの時に、なんかよく覚えていないけど「物凄く暗くて怖い話」だったと思ったような記憶がある(多分、子役の子の気持ちで見てたんだろう)。今回何十年ぶり?かで見て、まざまざとその絶望的に暗い気分を、「思い出した」、のではなく、「謎が解けて、自分の中におぼろげであった記憶と、その意味が結びついて定着した」のだった。つまり自分の中の「この曲」→「鬱」という「恐怖の条件付け」の回路が解明されたことになる。この番組も、強烈な配役陣であることが、現在視聴するとよくわかる(子供の頃はそういう見方をしていない。出演者も存命中だし)。中村伸郎と若山富三郎と岸田森の法廷は、柳生新陰流vs宝蔵院流の真剣勝負の御前試合みたいな、禍々しい殺気が漂っている(この頃の日本のテレビドラマは時代劇も現代劇も、キャストといい脚本といい演出といい濃ゆい殺気に満ち満ちているのだ)。
それだけでなく、45分のドラマなのに2時間の映画位ありそうに感じるこの濃さは何なのか。ケーシー高峰や三谷昇や殿山泰司の、この表情、面構えを見よ。そしてまさしく平成23年の現在になって、(それも不景気だから結婚産業か介護サービス業か何かの振興か消費促進のためか知らないが、やたら不安を煽るように)喧しく問題にされている「無縁社会」なるものの原点、人々の間の思いが何のために歪み、関係性が断たれていくのかという問題を、30年以前の昔に、とっくに先取りしていたのである(早すぎて、30年後の日本人はその一番肝心な要点を痴呆的に忘れてしまっているか、目を背けたがっているかのようだ)。この登場人物全員の「不幸の連鎖」の輪舞。しかし早坂暁脚本の描き方も弁護士も、その小さな一つ一つを非常に丁寧に受け止めていく。言葉少なだが人々の抱える悲しみと絶望の底無しの「重さ」がある。だから、先取りしていたのではなく、そのような「不幸」は別に一時的なことじゃなく、昭和だろうが平成だろうが関係なく、いつの時代にも存在していて、それを「一つ一つ丁寧に受け止めていく」能力だけが過剰に劣化しているだけなのかもしれない。
30年後の今、実際このドラマの事件の話なんてよりも、もっと恐ろしく感受性の欠乏した殺人や棄人の「事件」がどんどん発生し、人々も何も感じなくなり、もっと派手に軽々しく扇情的なWSやニュースで(フィクションでなく)「事件」として報道されたり、そのバラエティ化した軽薄さの延長上に「裁判員制度」なるものがあっけらかんとあったり。そんな21世紀の日本人とテレビの間化というか救いようのない「薄っぺら化」こそ一番の恐怖であり、戦慄すべき現実のように思えてきたりする。という意味で今日的意義の非常に深いドラマなのだが、NHK総合は安っぽい扇情的なスペシャル作るより、地上波でこのドラマを放送すりゃ手っ取り早いのではないか。でも、こういう地味で滋味な番組じゃ視聴率とれない、瞬間湯沸かし器的なサッカー中継かバラエティの方が視聴率とれる、っていう感覚じゃ、だめだろう。話を戻すと、恐ろしく「鬱」だけど、名曲である。これもサントラ盤というのはないのかなあ…(20110127追記)



