〇福岡は激しい雨となり、昼間なのになお暗い室内に引きこもって宿題をしながら悩み続ける今週末である。
北海道の地震の被害や余震の報の一方、関西の被害も残っており、自分たちが訪れた平安神宮も台風のダメージを受けたと聞いている。
復旧をお祈り申し上げます。
キイロイトリが通っているのは、ちょうど一週間前に出かけた時の写真であるが
なぜ強行軍的に速攻で京都市内を回っていたかというと、絶賛公演中の平安神宮LIVEのそのすぐ隣りで絶賛開催中の
京都国立近代美術館「生誕110年 東山魁夷展」に寄りたい!と思ったからであった。
上野の国立西洋美術館のミケランジェロと理想の人体展の安元洋貴さんに続き、こっちの音声ガイドが細谷佳正さんである。
(ついつい天才軍師につられて音声ガイドの地を踏破…)
BGM:5つの小品「樹の組曲」作品75より 第5曲 樅の木 / シベリウス
たれぱんだたちが見ているのは図録の「映象」のページで、東山魁夷先生の有名な北欧作品の一つ。
シベリウスの「樅の木」のピアノと細谷さんの解説の声が得も言われぬ具合に渾然一体となり
画面の視覚と聴覚と冷気というか空気感と、何か背筋にじわじわと「来る」ものがあったのを覚えている。
人によってはまた別の絵と解説のところで、そういうふうに「感じる」かもしれないが。
ちなみに、モーツァルトのピアノ協奏曲23番は、いつも自分のDAPに入っている(以前に少し触れた)。「馬」と音楽、という話も興味深い。
青だけでなく、唐招提寺障壁画の桂林も、錦秋の景も、山や滝にも、吸い込まれるような感じがした。
エピローグは必見必聴かと思う(謎の感動)。
昨年あたりから利用する回数が増えた音声ガイドについて。使う場合と使わない場合があるけれども、使わないで作品だけ集中して見る場合もあるし、使う場合はある種の映画のような楽しみ方の効果がある。
安田さんのルドルフ2世展や、石田さんのブリューゲル展や、安元さんのミケランジェロ展などを聴いてみると、やはり西洋美術的というのか、どちらかというと軽妙で理知的でドライな興趣のガイドで面白かった。それと比べると、今回の細谷さんの魁夷の日本画の解説は、わりとしっとりめである。作品そのものの題材や質感によるものもあるけれど、それはおそらく東山魁夷作品にまつわる、哀しさや静けさの「ストーリー(物語)」の性質によるものでもあろう(おそらく一般的には非常に有名な話であるのに、逆に自分はあまり知らず、むしろフリードリヒの方を先に知ってたのだった。魁夷の方をもっと早く知ってればよかったと思う。この人の作品のファンはこういうところが好きなんだろうな、ということもよくわかった)。今回の展示を見に(聴きに)行って、それがすーっと了解できたので、勉強になった。
細谷さんがナレーションの中で朗読する東山魁夷の随筆の文章の一部は、多分以前に本で読んだことがある、ということを思い出し、また図書館に借りに行こうかな、と思う。この文章といい、インタビューの東山魁夷先生の声の話そのものがまた、最近のニュースや若い人たちの使うようなこせこせした単語短文ぶつ切りの日本語ではなくて、昭和時代のゆったりした文学的な調子の語り口の文章なのである。その部分の朗読も声調を抑えた、おそらく画家の年齢の進行も考慮して切り替えられているらしいところも、脳内にしみこんでくるようでよかった。
2018年9月の最初の週末の景色として、岡崎公園前のこの場所を覚えているんだろうな、と思う。
…土曜日曜と、駆け足だったが、その一瞬、他のことを忘れて心が飛翔するような、得難い良い時間を過ごさせてもらった。
(平安神宮で龍神様のようなLIVEを見た後、宿に戻ってテレビをつけたらやってて見た、ゆらぎ荘の幽奈さんで色ボケしまくっていた龍神の人と、同じ声の人なんだよな…なんてことは、この際脇に置いておいて・爆)
堂本剛氏のMCと東山魁夷画伯の話で不思議と共通して出てきたのが、人が「生かされている」、おそらくそれは「愛」らしい、というようなこと。
普段の生活の中でささくれだち荒涼とした砂漠のような心持ちに、注ぎ込まれる酸素や清水のようなwordsだった。
いつそれを思い出すかはわからない。だが、一度でも見たこと聴いたことがある、ということは、全く知らないよりも尊いものだ。もしかしたらどこかで、その感覚を思い出すことができるかもしれないから。
※BGM:美の巨人たち(TVQ、9/8 22:00~)展示にもあった「唐招提寺の絶景」魁夷の障壁画を放送する模様。(20180908)