〇「鯉城会館」の近く。カツオ人間だけど。しかも高知でなく先日の広島。
まだ調子がよくないのでゆっくりめに動く。午前中はHDDチェックといくつかダビングしながら片づけを少し。午後から買物と、校正の続きがある。
BGM:SHINY DAYS / 亜咲花
(「ゆるキャン△」#2 BS11 1/17 24:30~)
確かにイントロからJackson5リスペクトな感じの歌。
「ゆるキャン△」と「同居人はひざ、」を見始めて、基本的に自分の日常的な生活そのものが、(キャンプするわけでないが)原付免許を先に取るしまりんとか、(猫もいなくて小説家でもないが)素晴とか、そういうのみたいな感じだということに気づいた。自分が自分でいる時の元々のメンタリティとしては近いものがある。20年近く、ずっとこの生活だったことも思い出した。
HDDに入っていた年末の留守録の「8時だJ・SP」を見て、その番組が毎週レギュラーで放送されていた時と比べて、自分の一人で部屋にいる時の「個人」の認識の感覚が(仕事や社会での様々な激動と変化の中にあったこととは別に)今もそれほど成長したり成熟したりしているかどうかがおぼつかない(測る目安がよくわからない)、と思ったことも要因である。
だいたい、平成の20年間あるいは30年間で生活のレベルが(IT技術的に便利になったようなことを除けば)ほとんど変化していない(ある程度に達して回っているけれども、それ以上贅沢になったわけでもない)のも、そのためかもしれない。昭和40年代から平成初年代までの30年の感覚とは全然違う。
群衆の中のロビンソンじゃないが、平成初年代から(社会的活動のために時々里や町に下りていくが)普段は人里離れた草庵で出家隠遁生活をしているとか、ひとりキャンプをしているのと同じようなものだろうか。
考えると、自分が物心ついてから、することがなくて暇で退屈でしかたがない、なんてことは皆無だ。自分がいなくても誰かがその仕事をするということが、ないわけでもない。だが、自分のためになるようなことを、自分が何もしなくて放っておいても誰かが世話してやってくれるということは、無い。自分のことは自分でする。一方で、自分のためにやりたいことがあっても、状況によってさらに他から次々と仕事は来てしまう。
器用でもなく、そう即決速攻タイプでもなく、元々考えたり動いたりすることに時間がかかる。その上、働いているとどうしても、毎日の作業量が多く、次々と仕事が追加されていって、その処理をしていくことだけで一日が終わってしまい、終わらない仕事が次の日に続いて、という連続で、あっというまに10年や20年は過ぎてしまう。そのくりかえしのような気がする。
心身の健康面においても仕事の続け方についても、これからの人生についても、部屋の中の道具の片づけについても、一つ一つ考えていきたい。もう若者でもないけれども、考えることや、それによってするべきこと、しなければいけないことは、今からだってものすごくたくさんある。そういう思いを抱いた。(20190120)