○ほぼ5~6年ぶりに、というのも会社がらみで地域の住民運動を知りその情報を知るためにもと、今年から再び新聞を取り始めたのだが、それで気がついたことがある。「投書欄が気持ち悪い」ということ。どれだけインターネットの中だけでなく、「人々が顔を合わせれば」地域の近所のクチコミが大騒動になっていて、江戸川乱歩の妖怪博士なみに町中は「誰かれともなくその噂で持ちきりでした」な状態だというのに、新聞は「街頭の声」「投書欄」でも全然そういうものを載せていないことが多い。用語として「華麗なるスルー」というらしいが、その話題を出しちゃいけないのか?それで媒体は黙殺するのか?的な程の不審さである。少なくとも、自分が子供の頃は、新聞とはそういうものではなく、社会で賛否両論が起こっているなら、賛否とも新聞に載るものだと思っていた。しかし最初からある方向で載せる、もしくは、載せない、という方向指示が働いているということは、今は新聞やテレビを見る小学生にもあからさまにわかる。全体的に「大人の社会のしくみ」であるはずのものが、見え透くほどに安っぽく幼稚になってきているのかもしれない。自分が大人になってしまったからそう見えるのか。いや、子供の頃(だけでなく、つい少し前まで)関心がなかったから見えなかっただけだ。今は、大人にだろうが子供にだろうが、みな見え透いている。そして、うちの会社にもいる(し世の中にもあちこちにいるらしい)が、自分が全く無能で癌のように物事を破壊しているのに、全然気づかず、(無能そのものが悪ではなく、無能だと己が気づいてよくできるよう努力するならまだましな方で)悪いことに自分が有能だと思っていて、さらに有能なふりをするために死ぬまで手抜きと無能をごまかし糊塗し続ける欺瞞人生で、さらに周囲の環境を破壊し続けて生きている人がいる。そういう人ほど、揉め事を解決する能力が最初からないから、大きな揉め事にならないように、事の本質を無視して、体裁だけ保ち、怒鳴りあいが起こりそうだとすぐごまかして逃げる。二枚舌で、解決できないくせに解決したふりをし、その上、外からの声のでかい者からの恫喝に対しては、屈して何も恥ずかしいとも感じない。本質に対する感受性そのものが欠落しているからだ。その癖、会社の中では内弁慶、自分だけ優秀に見えればいい、その一点の、極めて利己的に尊大なメンツにばかりこだわる。社会にとっては本当に害悪以外の何者でもない。しかしそういう人が、法律に触れなければ何をやってもいい、的に、そのやり方を横行させるため、会社や社会の成員のやる気をことごとく削ぎ、システムのモチベーションを著しく低下させているのは事実だ。そしてそれは、ここ5~6年のうちの会社に発生している現象なのである。が、どうやらここ一週間位のニュースを見ていると、うちの会社だけじゃなくて、日本の社会全体に起こっていることらしいと、しみじみわかった。うちの会社の会議では毎回怒りが絶えることがない。ましてや日本社会全体の人々がいかに激怒していることか。必ず鉄槌が下るべきであると、激怒していないはずがないではないか。誰が悪い、ということよりも、そういう物事の方法の腐り方や愚かさが、人々を怒らせるということに気づくべきだろう。(何をしたら人を怒らせるかということが自分を抑圧する者へのある一方向的にしか認知されない場合は、恫喝による心理的抑圧が昂じて認知機能障害が起きているようにも思われる)
本日のBGM:
ピアノと管弦楽のためのロンド in D major K.382 / Mozart
NHKFM「あさのバロック(現・バロックの森)」テーマ曲の、もう一つ。恥ずかしながら、あまりにも有名なフレーズで曲を知っていても「この曲、なんていう曲なんだろう?」と、ずっと曲名がわからなかったものの一つである。何かのテレビで見た映画?のような映像の最初で流れていた記憶があり、ずっと曲だけ覚えていた。これはモーツァルトなはずだ、ということと、ピアノが出てくる曲、だけしかわからず、そう思っていたのに、ピアノ協奏曲を探しても、無い。また自分の場合は、クラシックの演奏会に出かけてプログラムと演奏を見て知る、という機会もほとんどない。もっぱらCDかyoutubeかCD販売サイトの試聴であたってみて、聴く機会があるごとにMozartのピアノの入っているオケをチェックして、「これではない」と印をつけていって、ようやく「これだ」とわかった(遅い)。でも、しばらくわかるまで時間がかかったものは、わかるとその過程も思い出深いものとなる。見つかるまでの遍歴を後から遡って思うと味わいがあり、その中で、さらにその倍以上の十数曲くらい、気に入ったフレーズの曲や、すごい演奏家の盤に出逢ったりする思い出が生まれるからである。(20101106)