大きな希望だった。知事になって、安倍政権から、差別され・しかとされ・脅され・さげすまれと、いじめられ続け、そんなことはものともせず、真っすぐ歩いている姿に、どれだけ沢山の日本人が勇気や決意を貰ったことだろう。
悲しい・・・・なんとも、無念だなぁ・・・・・ご冥福を祈る。
38度線を越えて、またまた宮城蔵王にやってきた。女房と子供のたっての希望で、俺の自由時間はわずかだった・・・
宮城県亘理町(わたりちょう)は、観光でよく遊んだ場所なのだが、あの3.11で町は流され、何キロも続いた防潮林はすっかり流され、同年4月現在で死者229名・行方不明66人の記録が残る場所である。泳いだ海水浴場はなくなり、あの店も、この店も、土台さえ残っていない有様だった。
あの年以来、毎年家族でここを訪れている。それは、縁あった宮城のこの地の変化のさまを見届けなさいと、言われているような気がするからだ。
この夏休みの時期は、博物館や資料館は「特別展」を組む。だからこの亘理の「郷土資料館」も毎年訪ねる。
江戸と明治の大きな橋を渡るような時期の亘理の歴史の特別展だった。
初代「亘理伊達藩」の殿様・伊達成実」450年記念らしい・・・
そして、その末裔・・伊達邦成の時代・・・・戊辰戦争・・奥羽列藩に組し薩長と闘い、やがて果てる。領地は没収され、亘理伊達の武士たちは、北海道移住を決める。
自費での移住だったらしく、その北海道移住の展示が見ものであった。
北海道有珠郡・・・あの有珠山があって、室蘭に近い感じの場所に今も、北海道伊達市がある。
漁業などアイヌから学び、農業も行って、いろいろな摩擦を乗り越えながら、亘理伊達の北海道移住は成功したらしい・・・
今も亘理町にある「亘理神社」で、戊辰戦争の奥羽列藩との「降伏式」が行われたようである。(今度、いぐべ!)
資料館を後にし、つなみが飲み込んだ広大な場所に向かった。
荒れ放題だった海辺の地には1年で広い、運動公園のようなものが出来、立派な慰霊碑だ立っていた。
近くに、小さな慰霊碑が建ち、そばにここまで津波が来たという、ポールのようなモニュメントがあったがなくなっていた。
あのモニュメント・・・すごく迫るものがあってよかったのにな・・・・どこに行ったのだろう??
気になって、後日亘理町に問い合わせたら、「ここまで津波」の看板は保存してあるが、予算の関係でモニュメント建立までは至らなかったようだ。
知らない者にとって、「ここまで津波の高さが!」という迫るものがあったが、残念とお伝えしておいた。町作り協議会ってとこが管轄らしいが、対応してくれた方は真摯で、この話は頭にとどめておきますとのことだった。
結構高い防潮堤だったが、壊れて無残だった当時・・・写真の高さは、ほぼ当時の堤な気がするが、そこからまたかさ増しの高い2段目の堤防はほぼ完成していた。
数年前、現場で波けしブロックが作られていたが、海に投入され、静かな海が広がっていた。当時、海水浴客でにぎわい、海の家・監視の建物などあったが、何もない。
遠くに海水浴客が、数えるほどの人数で楽しんでいた。
回廊商店街など整備されていたが、客が居ない・・・・
僕の常宿も、あの震災以来、客が戻らない・・と、嘆いていた。
人が戻り・客が訪ねる・・・そこが無くて、復興は無いかもな・・・
漁連の直売所?野菜などもあるのだが、まぁ道の駅風の、店は結構盛っていて、安いし、品数も多く、いつも海産物の乾物など購入する。
こうして、僕らの定点観測2018は終了したのだ。クラゲに刺され、酢を買ったあの米屋も薬屋も、何もなくなって、いまだ厳しい東北の一角だ。
このすっかり仲良しのピザ屋「トムソーヤ」もこの旅の楽しみなのだ。
ここから、まったくカロリーなど気にせず、食べまくった旅日記に突入!
なじみの特権?親父の試作中の11時間かけた卵の燻製(生からやるらしい・・)これが絶品。
野菜を塩ふって石窯で焼く料理も、驚くほど旨い!
職人である!
コーンのピザ。
フレッシュトマト&フレッシュバジルのピザ!!!!
相変わらず、旨かったなぁ・・・
夜の元気荘の夕食。
朝飯・・・納豆と温泉卵があれば、朝はOK!
翌日は、露天のフルーツ屋さんなどで買い物して、昼過ぎは栃木市近くだった・・・
蔵の街を歩いて、絶品蕎麦の「太郎庵」に行った。
ミニの「天丼」&ミニの蕎麦!
贅沢な昼飯だったぜ!!
悲しい・・・・なんとも、無念だなぁ・・・・・ご冥福を祈る。
38度線を越えて、またまた宮城蔵王にやってきた。女房と子供のたっての希望で、俺の自由時間はわずかだった・・・
宮城県亘理町(わたりちょう)は、観光でよく遊んだ場所なのだが、あの3.11で町は流され、何キロも続いた防潮林はすっかり流され、同年4月現在で死者229名・行方不明66人の記録が残る場所である。泳いだ海水浴場はなくなり、あの店も、この店も、土台さえ残っていない有様だった。
あの年以来、毎年家族でここを訪れている。それは、縁あった宮城のこの地の変化のさまを見届けなさいと、言われているような気がするからだ。
この夏休みの時期は、博物館や資料館は「特別展」を組む。だからこの亘理の「郷土資料館」も毎年訪ねる。
江戸と明治の大きな橋を渡るような時期の亘理の歴史の特別展だった。
初代「亘理伊達藩」の殿様・伊達成実」450年記念らしい・・・
そして、その末裔・・伊達邦成の時代・・・・戊辰戦争・・奥羽列藩に組し薩長と闘い、やがて果てる。領地は没収され、亘理伊達の武士たちは、北海道移住を決める。
自費での移住だったらしく、その北海道移住の展示が見ものであった。
北海道有珠郡・・・あの有珠山があって、室蘭に近い感じの場所に今も、北海道伊達市がある。
漁業などアイヌから学び、農業も行って、いろいろな摩擦を乗り越えながら、亘理伊達の北海道移住は成功したらしい・・・
今も亘理町にある「亘理神社」で、戊辰戦争の奥羽列藩との「降伏式」が行われたようである。(今度、いぐべ!)
資料館を後にし、つなみが飲み込んだ広大な場所に向かった。
荒れ放題だった海辺の地には1年で広い、運動公園のようなものが出来、立派な慰霊碑だ立っていた。
近くに、小さな慰霊碑が建ち、そばにここまで津波が来たという、ポールのようなモニュメントがあったがなくなっていた。
あのモニュメント・・・すごく迫るものがあってよかったのにな・・・・どこに行ったのだろう??
気になって、後日亘理町に問い合わせたら、「ここまで津波」の看板は保存してあるが、予算の関係でモニュメント建立までは至らなかったようだ。
知らない者にとって、「ここまで津波の高さが!」という迫るものがあったが、残念とお伝えしておいた。町作り協議会ってとこが管轄らしいが、対応してくれた方は真摯で、この話は頭にとどめておきますとのことだった。
結構高い防潮堤だったが、壊れて無残だった当時・・・写真の高さは、ほぼ当時の堤な気がするが、そこからまたかさ増しの高い2段目の堤防はほぼ完成していた。
数年前、現場で波けしブロックが作られていたが、海に投入され、静かな海が広がっていた。当時、海水浴客でにぎわい、海の家・監視の建物などあったが、何もない。
遠くに海水浴客が、数えるほどの人数で楽しんでいた。
回廊商店街など整備されていたが、客が居ない・・・・
僕の常宿も、あの震災以来、客が戻らない・・と、嘆いていた。
人が戻り・客が訪ねる・・・そこが無くて、復興は無いかもな・・・
漁連の直売所?野菜などもあるのだが、まぁ道の駅風の、店は結構盛っていて、安いし、品数も多く、いつも海産物の乾物など購入する。
こうして、僕らの定点観測2018は終了したのだ。クラゲに刺され、酢を買ったあの米屋も薬屋も、何もなくなって、いまだ厳しい東北の一角だ。
このすっかり仲良しのピザ屋「トムソーヤ」もこの旅の楽しみなのだ。
ここから、まったくカロリーなど気にせず、食べまくった旅日記に突入!
なじみの特権?親父の試作中の11時間かけた卵の燻製(生からやるらしい・・)これが絶品。
野菜を塩ふって石窯で焼く料理も、驚くほど旨い!
職人である!
コーンのピザ。
フレッシュトマト&フレッシュバジルのピザ!!!!
相変わらず、旨かったなぁ・・・
夜の元気荘の夕食。
朝飯・・・納豆と温泉卵があれば、朝はOK!
翌日は、露天のフルーツ屋さんなどで買い物して、昼過ぎは栃木市近くだった・・・
蔵の街を歩いて、絶品蕎麦の「太郎庵」に行った。
ミニの「天丼」&ミニの蕎麦!
贅沢な昼飯だったぜ!!