先日、水道の蛇口が壊れてしまったので修理をしてもらったのですが、そのときに業者さんとちょっとした世間話から介護についての話になりました。
業者さんも修理のためにさまざまな家庭を訪問するのですが、やはりそのときに介護についての話も聞くのだそうです。
ご自身も同じような立場ということもあり、介護者側という同じ目線で語るのを聞きながら考えてしまいました。
今、わたしは自分の過去を振り返りながら、自分にどんな感情の動きがあって今の介護に至っているのかを整理しています。
糖尿病から透析になって亡くなった父のこと
入退院を繰り返し亡くなった義母のこと
年の離れた兄たちのこと
気の強い母のこと
パニック障害と思われるような症状になったこと
“介護をする”というのも、介護される側とする側の関係や性格、まわりの環境、そこに至るまでの過去の出来事などがさまざまであって、介護は“大変”というひとことで片付けてしまいがちになるものの、そのひとそれぞれ精神的に“大変”さが複雑であるということを理解しておくというのは大切なのではないかと思うのです。
以前、年配の方に“わたしは親をみることができなかったからあなたがうらやましいわ。お母さんの面倒をしっかりみてあげてね”と声をかけてもらったとき、わかっていてもそのことばをなかなか飲み込めず戸惑うことがありました。
確かに自分の親を看られるというのは本当にラッキーな条件が整っていたと思っています。
ですが、介護というのは長期に渡ればわたるほど、介護される側の立場も考えつつも多くの葛藤があり、また主介護者であるための責任に押しつぶされないように精神を保たねばなりません。
そして、介護をすることは会社に勤めて給料をもらえるようなこともなければ、評価が社会的に認められる場でもありません。
うらやましい…早くにご両親を亡くされ介護することができなかったからそう思われたのでしょうが、果たして本当に自分もそうありたい、うらやましい、そう思ってもらえる立場にわたしがあるのかどうか。
現実のところ、いまの社会では介護うつもあるし、体を壊してしまうひと、そして自殺という道を選ぶひともいます。
どんな状態になったとしても、介護する側も介護される側もこころから幸せに感じながら日々生活をし、自分の住みなれた場で生涯を終えるような世の中。そんなところがあれば、わたしは本当にうらやましいと思います。