戦後69年。
父か生きていたら、今の世の中のことをどう思うのでしょう。
戦時中の話を聞くことはほとんどなかったけれども、商用船での出来事と上官から理不尽なことで殴られたことをほんの少し言っていました。
母は85歳となりましたが、もし言葉がでたならば、過去の戦争の歴史を繰り返してはならないと言っていることでしょう。
世界では相変わらずあちらこちらで戦いが続いています。
宗教対立があれば、兵器宣伝といえる利権がらみ、資源の奪い合いに権力闘争等々。国民のためなのか、それとも国のためなのでしょうか?
集団的自衛権も、時の政府が変わればまた違う解釈になっていくでしょうし、非核三原則もすでに破られている感じもあるようですし、現に武器輸出三原則も崩れてきています。
ある意味、箍がはずれはじめ、安易な決断をしやすくなってきているのではという気がします。
正義も、国や考えるひとが変わればそれが相手にとってはどうであれ正義になってしまう。
真実はひとつしかないけれども、正義はいくつも存在するといったところでしょうか。
そんなズレの中で不信感が高まり、安全保障のジレンマに陥っていくのでしょう。
積み上げられていく心と武器の壁は、より高く、また厚く、崩すことは容易ではなくなってしまうのが恐ろしいです。
“平和ボケ”という言葉がでることがありますが、わたしが思う“平和ボケ”とは、戦争をするということがどういうことなのかを想像できないことかなと。
戦う者にとっては命が物に変わることであり、人格さえも変えてしまいます。
大変な思いで生んだ子を失うことの悲しみを母親は背負わなければなりません。
苦しみや、悲しみ、憎しむこと、憎まれること、それを未来にまで引きずっていかなければなりません。
※イジメの構図とよく似ています。いじめた側は忘れても、いじめられた側は忘れない
知らず知らずのうちにお互いを縛りあい、監視するような物言えぬ疑心暗鬼の世の中になるということ(今、そんな雰囲気があるのかも)
物がなくなり不安と不便が同居し、自由がなくなり明日の希望を失うこと。
戦争に向かわないためには、平和を築くためにはどうしたらいいのでしょう。戦争体験者の声に耳を傾け、今いちど考えてみたいです。