のほほん自転車日記

早く走るより、回りの景色をみながらのんびりゆっくり。
自分の人生も介護ものほほんと…

戦時の父のことを想う

2014-03-07 14:33:20 | 雑感

朝の連続テレビ小説“ごちそうさん”を見て、最近は涙涙の日々を送っています。

主人公と一緒に時を過ごしているような気になりながら、また両親が過ごしてきた時代を考えながら…。

 

2月のことですが、NHKで「戦時徴用船~知られざる民間商用船の悲劇~」について特集番組をがあったためそれを録画していたものの、なかなか落ち着いてみることができず、やっと昨日見ることができました。もっと早くみておけばよかったんですけどね…。

実は、わたしはの父はまさしくその時代に民間商用船に乗っていたため、様々な想いでその特番を見ていました。

 

わたしの父について、直接父から聞いたこと、また母から聞いたことを思い出しながら書き留めておきたいと思いますが、残念ながら船員だったころの話をすることはほとんどなく、わたし自身も関心もなかったため聞こうともしていませんでした。今になって思えばもっと聞いておけばよかったなと後悔しています。

 

父は大正12年(1923年)生まれ。生きていれば91歳でしょうか。

幼いころ、海のある場所に家族旅行に出かけたとき、父が船(小型船舶)の免許を持っているからといってとても嬉しそうにモーターボートを運転していたのを覚えています。

お酒を飲んで気分が良いときのことだったか、「俺は船に乗って海外に行ったことがある、あいさつはこういうんだ」と言っていたことがあり、どんな内容だったか忘れてしまいましたが船での生活というか寄港した先での楽しい思い出話をしていこたことがありました。今にしてみればあいさつは南米系だったと思われますが、そのときは父が船乗りだったということはあまり信じておらず、気が大きくなってホラでも吹いているのだろうと思っていたんです。

 

のちに、父が本当に船に乗っていたことを実感としてあったのは、父が亡くなり年金手続きをしたときのことです。年金事務所の方からここの地域で船員保険に入っていた人はとても珍しいと言われたことからです。

 

父がまだ10代のころ、山に囲まれているこの地から船乗りに憧れをもち家族に商船学校に行きたいという話をしたようですが、貧しい家庭だっため学校に行くことは叶わなかったと聞いています。ですが、兄弟(特に長男)の後押しもあり大阪商船へたぶん甲板員として働くことができたのではと思われます。

船員年金記録(自宅に郵送されてきた)をみると…4年間の間、船に乗っている期間の方が多い!というのがわかりました。

昭和15年6月1日~昭和15年12月5日

昭和16年1月9日~昭和16年8月24日

昭和17年3月11日~昭和18年1月4日

昭和18年1月16日~昭和18年11月24日

※昭和20年4月1日前までは船員保険法(昭和15年3月1日)によって、船に乗船している期間のみでしか適用されないとのこと。だからこそ乗船時期がよくわかってよいのですが。

船での仕事はかなりきつかった様ですが、自ら希望してついた仕事でしょうからたぶん弱音はあまりはかなかったのではないでしょうか。

船ではお相撲さんを乗せたりしたこともあったのだと自慢げに話していたこともありましたが、戦況も厳しくなってくると多くの兵隊さんを満州へ運ぶこともしていたといっていました。

ですが、民間商船。NHKの特番で放映されたように多くの商船が狙われ、海に沈んでいきました。

特番では、そのときの記録を克明に絵にしたものがいくつか紹介されていました。救命ボートに乗り助かった船員たちが海の鮫たちと戦う様子や、敵味方国籍関係なく助けたりする様子、また救命ボートに乗っていた若い船員が母子を助けるために代わって海に飛び込む様子など勇姿と悲壮感がそこには描かれていました。

父もやはり同じように乗っていた船が沈没したようですが、特番で描かれていたような勇姿ではありませんでした。

海に投げ出された父は生きるため必死で救命ボートにつかまろうとしましたが、つかまるんじゃないっ!と何度も殴られ無理矢理救命ボートに乗ったという話をしていました。むしろ人間の生への執着心を感じさせるものでした。よく英雄伝的な感じで語られることが多いでしょうが、そうではないこともあるのだということをこころにとめておく必要があるのではないかと思います。

といっても、あれはかわいそうだった…と話していたことがひとつあります。

船がゆっくり沈んでいくとき、救命ボートに子どもだけ預け、まだ船内にご主人が残されているからということで戻っていったお母さんがいたそうです。

あのあと子どもたちはどうなったんだろう?民間船を狙うなんて…と怒りを表していた父でした。その場にいたからこそのやりきれない気持ちだったのでしょう。

きっとまだまだいろいろなことがあったのだと思いますが、わたしが直接聞いたのはこれくらいでした。

その後、父は陸軍に入隊したようですが、徴用船となった民間商船への攻撃は昭和19年になるとさらに激しくなり多くの犠牲者を出したようです。

もしそのまま船員として船に乗り続けていたら亡くなっていたのかもしれません。

きょうの“ごちそうさん”でも徴兵されていく泰助が出征前日の夜、お母さんに自分のやりたいことを奪ったこの時代を許すことができない、と話していましたが、多くのひとは青春時代を奪われていった時代であり、親も自分の子どもを死ぬ(かもしれない)というのをわかっていて国のために送り出さなければいけないというのは悲惨であり残酷なことだとあらためて思いました。そして、国のために死ぬために生まれてきたなんてことにはしたくないものだとも。

 

戦争も終わり無事父は家に戻ってきて母と結婚ということなりました。本当かどうかはわかりませんが、海上保安庁から働かないかという声がかかったものの、母のことがあり(特におばあさんの都合)お断りしたということでした。ですが、父にとって船での経験は多くを語らなかった分、辛いことの方がもしかしたら多かったのかもしれません。だから、2度と船上での仕事はやりたくなかったのかもと。もう父は亡くなってしまったためどうだったのか二度と聞くことはできませんが、少なくともそんな時代を過ごしていたのだということを心にしっかり留め、同じような想いを後世のひとたちがしないようにしなければと強く思います。

コメント (4)
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